第二章・嵐の予兆(その4)

 潮音が暁子と一緒に食堂に向かい、夕食のテーブルにつくと、周囲の少女たちの潮音に対する視線は明らかに変っていた。中等部から松風女子学園にいる少女たちも、琴絵をかばって皆に臆することなく発言し、バスケットボールの試合でも活躍してみせた潮音のことを少し見直したようだった。


 潮音はこのような少女たちの視線に、はじめは気がかりなものを感じたものの、クラスごとに分かれて席につき、いざ食事を目の前にすると、それをかきこむようにして勢いよく食べ始めた。美鈴もそれに劣らぬ勢いで、食事をもりもり食べていた。


「やっぱ運動したらおなか減ったわ。それにこのご飯けっこううまいやん。中学の給食とは大違いや」


 潮音も美鈴の顔を見て笑顔でうなづき返したが、暁子は呆気にとられながらその様子を眺めていた。


「潮音、松風には礼法という授業もあって、食事のマナーとかも教えられるみたいだよ。あまりがつがつご飯食べないで、もう少しお行儀よく食べた方がいいんじゃない?」


 暁子に言われて、潮音と美鈴は気まずそうな表情をした。そこで暁子は、潮音にそっとささやいた。


「ほら、峰山さんやキャサリンなんか見てみなよ」


 潮音が暁子に言われるままに彼女たちの方向に目を向けると、二人はもの静かな様子で箸を動かしながら、イギリスでの生活の話などをしていた。そしてそのまわりの少女たちも、その様子をどこか憧れているかのような様子で眺めていた。


「それにしてもなぜキャサリンって、イギリスで育ったのに、あんなにお箸使うのがうまいんだろう」


 暁子がキャサリンの様子を見ながら口を開くと、潮音もふと息をつきながら言った。


「それになんかあの二人って、飯食ってるだけでも雰囲気からして上品そうだよね」


「だから、『飯食ってる』じゃないでしょ」


 暁子はむっとした表情をしたが、紫とキャサリンは暁子たちの様子を見てにこやかな表情を向けた。


「今ではロンドンにも、日本料理や中国料理の店がけっこうあって、ロンドンにもお箸を使える人はけっこういますよ」


「藤坂さんたちもそんなにかしこまる必要なんかないわよ。今日はいろいろあって疲れてるかもしれないから、もりもり食べなさい」


 そのような紫の気づかいもあって、潮音たちも周囲の少女たちとの会話に加わることができるようになり、いつしか談笑のひとときを迎えられるようになった。その隣のテーブルでは、楓組の生徒たちも愛里紗を中心に会話で盛り上がっていたが、楓組の生徒たちの間でもキャサリンのことは気になるようだった。



 食事が終り、生徒たちが次々に席を立って宿舎に戻ろうとすると、紫はさっそく潮音のそばに来て目配せをした。潮音も黙ってうなづくと、紫の後についていった。しかしここで、長束恭子が潮音と紫が宿舎とは別の方向に向かうのをはっきりと目にしていた。恭子はその二人の様子に気づまりなものを感じながらも、他の生徒に呼び止められて一緒に宿舎に向かった。


 紫が玄関のドアを開けたとたん、高原の澄み渡ったひんやりとした冷気が、潮音の頬をそっとなでた。辺りはぽつりぽつりと照明が灯る以外は全くの暗闇で、ほとんど物音も聞こえずしんと静まりかえっていた。そこで紫は、潮音に声をかけた。


「こんなところに連れ出してごめんね。でも寒くない?」


「ああ、大丈夫だけど…」


 そこで紫は、あらためて蛍光灯に照らされた潮音の顔を見返した。


「で、どうして私が藤坂さんを呼んだか教えてあげようか。私は今でもバレエの教室に通ってるんだけど、私が小学生だったときに、バレエの教室にあなたと同じ『藤坂潮音』という名前の男の子がいたの。その子は小学校を卒業する前にバレエの教室を辞めちゃったけど、どうして同じ名前の子が今になってこの学校に入学してきたわけ? 男子と女子の違いはあるけど、むしろそれだけに偶然にしたらできすぎてるわね」


 そこで潮音は、まじまじと紫の顔を見返して言葉を返した。


「峰山さん…そのバレエ教室って夕凪台にある森末バレエ教室だろ。峰山さんは今でも森末先生からバレエ習ってるの? それに峰山さんは小五のとき、『くるみ割り人形』のクララの役をやってコンクールで賞を取ったよな。あの演技は今でも覚えてるよ」


 紫は、潮音が急に男の子っぽい口調で話し出しただけでなく、その紫と同じバレエ教室に通った生徒しか知らないはずの話の内容を聞いて当惑の色を浮かべた。しかし潮音は、そのような紫の表情などお構いなしに話を続けた。


「あのときはほんとに、あれだけうまくバレエの演技ができる峰山さんがすごいと思ったよ。オレなんて流風るか姉ちゃんに憧れてバレエを習い始めたけど、全然ものにならなかったからね」


「『流風姉ちゃん』って…あの藤坂流風先輩のこと? 藤坂君は流風先輩の親戚だということは知ってたけど…」


「そこまで言われてまだわかんないのかよ。あのときの男の子だった『藤坂潮音』が今のオレ自身だと言ったらどうする?」


 紫の表情に、ますます困惑の色が深まっていった。そこで潮音は、紫に全てを打ち明けた。中学三年生の秋の終りに、突然自分が男性から女性になってしまったこと、最初は自分が女性になったことを受け入れられなかったけれども、なんとか気を取り直して松風女子学園に入学したこと…。


 潮音の話を聞いて、紫はただ驚くほかはなかった。紫はなんとかして、自分の記憶に残る、バレエ教室に通っていた頃の男の子だった潮音の面影と、今自分の目の前にいる潮音の姿とを、なんとかして重ね合わせようとしているかのようだった。


「まさか…こんなことが本当にあるなんて」


「それはオレ自身が言いたいよ」


「でも…藤坂さんはそれでずいぶん苦しんだり、悩んだりしたのね」


 そこで潮音は、思わず声をあげていた。


「オレはそんなふうに、変に同情なんかされたくないんだ。そんなのクソの役にも立ちやしないんだ。…たしかにオレは、女になったばかりの頃は、何でこんなことになってしまったのだろうとばかり思っていたよ。でも…そんなことでクヨクヨ悩んだってしょうがない、どんな服着たって自分は自分だと覚悟を決めることができるようになったからこそ、こうやって女子として学校に行けるようにもなったのに」


 しかし紫は潮音が語調を強める様子を見て、かえって落ち着いた表情を浮かべた。


「私の知ってる藤坂君は、女の子に混じってバレエの練習を一生懸命頑張ってたよね。今でもよく覚えてるよ。でも今の藤坂さんを見てると、女の子になってもそういうところは全然変ってないなって思うんだ。藤坂さんのそのストレートな表情なんか昔のままだし、むしろあのときの体験があったからこそ、こんなになってもちゃんと松風に入れたんだなって」


 その紫の言葉に、潮音はかえって気恥ずかしい思いがした。


「藤坂さん…あなたがどんなことで悩んだり苦しんだりしてるかなんてことは、私にだって…ほかの誰にだってわかんないかもしれない。でもそんなときは、遠慮せずに私のことを頼っていいのよ。藤坂さんがちゃんと自分自身を持って頑張ったら、うちの学校のみんなもきっとわかってくれると思うから」


 そこで紫は、頭上に広がる星空を見上げた。


「顔を上げてみな」


 潮音が紫に言われるままに夜空を見上げると、暗い空いっぱいに星がまたたいていた。


「こんな星空、神戸の街中じゃ見られないでしょ? でも私が去年の夏、ホームステイに行ったカナダの夜空はもっとすごかったんだから。こうやって星空を見上げてると、自分なんてちっぽけで、世の中にはもっと自分の知らない世界があるんじゃないかって思えてこない?」


「だったらオレは…この先何を目指せばいいんだろう」


「そんなことクヨクヨ悩んだってしょうがないよ。これは藤坂さん自身で見つけるしかないわね。…でも、これから校内では自分のことを『オレ』と言ったり、乱暴な口調でしゃべったりするのは禁止」


 潮音が紫の言葉に戸惑っていると、二人の背後で声がした。


「峰山さん、宿舎におらんからどこ行ったんやろと思っとったけど、こんなところで何しおったん。外寒いのに」


 恭子の声だった。潮音がしまったとでも言わんばかりの表情をしても、紫は落ち着きはらっていた。


「恭子、気にしないで。藤坂さんは小学校の頃同じバレエ教室に通っていて、高等部になって久しぶりに会えたから、昔の話とかしてただけなの」


 紫が説明しても、恭子は高等部に入学したばかりの潮音が紫と親しそうとしていることに、どこか釈然としないものを感じているかのようだった。しかしそのとき、玄関口の方から声がした。


「あんたたち、そこで何やってるの。ここは夜けっこう冷えるから、そんなところにいるとカゼひくわよ」


 潮音たちのクラス担任の、吉野美咲の声だった。美咲は三人の顔を見て言った。


「藤坂さんにはちょっと話があるの」


 そして美咲は、潮音を小さな控室に案内した。恭子は潮音の様子をいぶかしげに眺めていたが、先ほど潮音の話を聞いた紫は美咲の様子にも納得したようだった。


「みんなでゲームやって盛り上がっとるのに、峰山さんもよ来んと消灯時間になってまうよ」


 恭子にせかされるようにして、紫は宿舎に向かって廊下を歩き出した。潮音はその二人を見送ると、美咲と一緒に控室に入った。

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