第三章・岐路(その4)
そして綾乃は、潮音と流風を居間の片隅にあるピアノのそばまで連れてきた。さらに綾乃はピアノの蓋を開けてその前に腰を下ろし、そのままピアノ曲を何曲か淀みなく弾きこなしてみせた。潮音と流風は、ただ黙って立ちすくんだまま、そのピアノを聴いていた。
ピアノを一通り弾き終えた後、綾乃は潮音と流風の方を向き直して言った。
「潮音、さっきあんたは自分は自分でいたい、自分らしくいたいと言ったよね。でもそれだったら、こうやってピアノで自分の好きな音楽を自由に弾きこなせるようになりたい、ピアノを通して自分の伝えたいことを思うがままに自由に伝えられるようになりたいと思ったら、どうしなきゃいけないと思う?」
潮音は黙ったまま、綾乃の話に耳を傾けていた。
「それこそきちんと楽譜を読めるようになって、音楽を何曲も聞き込んで、地道な練習を毎日くたくたになるまで何度も繰り返さなければいけないのよ。しかしそうやってピアノを必死で練習した人でも、本当に自分らしいピアノの弾き方なんてものを見つけられるような人なんて、百人に一人もいないかもしれないね。私は小さいころはピアノの先生になりたいと思っていて、中学や高校でも音楽部でピアノを続けてコンクールで賞もとって、大学を選ぶときにも音大に行きたいという希望もあってかなり悩んだけど、世界中どころか日本の中だって、私なんかより何百倍もビアノがうまくて、ずっともっと練習している人なんてごまんといるからね」
そこであらためて、綾乃は潮音の顔を見つめ直した。
「自由とか個性とか、自分らしさなんて言葉はね、そうやって一生懸命努力して、自分を否定されるような苦しい思いだってして、そこから自分は何をしなきゃいけないかしっかり考えて、そこから人に見せても恥ずかしくないような個性や自分らしさを身につけてから、はじめて口に出せるものよ。何もしないでただ『ありのままの自分を認めてくれ』なんて言ったって、そんなの誰にも聞いてもらえないよ」
そして綾乃は手のひらに力を入れて、ピアノの鍵盤をいきなり勢いよく叩いた。ピアノの鍵盤は、その場で騒々しい音を立てた。
「ろくに練習もしないででたらめにキーを叩いたって、そんなものが音楽とは言えないし、あんただってそんなのを聴きたいとは思わないでしょ? 今じゃあちこちで『ありのままの自分』とか『自分らしく』とか言われてるけどね、その『ありのままの自分』であるってこと、そして『自分らしく生きる』ってことこそがね、本当は一番つらくて厳しい道なんだよ。人からちょっとやそっと何か言われたくらいで押しつぶされるような、そんなつまんない自分らしさなんかにこだわるのはよしな」
潮音が流風の横顔をちらりと見ると、流風も何か考え込んだような表情をして、黙ったまま綾乃の話を聞いていた。潮音はいつも自分に対して優しかった流風が今まで見たこともなかったような表情をしていることに対して、何か気がかりなものを感じていた。
さらに綾乃は言葉をついだ。
「あんたが今一番やらなきゃいけないことは、これから自分は何がしたいか、そのためには何ができるか、もう一度じっくり考え直すことね。あんたがこれから女子として高校を受験するか、それとも男として生きようとするか、それはあんた自身が決めることだわ。もしそれがあんた自身の選択だというのなら、私ももう何も言わないし、あんたが自分らしく生きたいと思うための手助けだってしてあげるから」
そこでこれまで綾乃の話を黙って聞いていた流風も、潮音を向き直して口を開いた。
「私も綾乃お姉ちゃんの言うとおりだと思うわ。私もずっとバレエをやっていたけど、バレエだってくたくたになるまで練習したって、本当に自分らしい踊りの仕方なんて見えてくるものじゃないし、そのためにはまず型にはまらなきゃいけない…。潮音ちゃんだってサッカーとか水泳とかやってたからわかるでしょ? これは音楽だってバレエだってスポーツだってみんな一緒よ」
潮音が目を伏せていると、流風が潮音にそっと声をかけた。
「私や綾乃お姉ちゃんは、潮音ちゃんの悩みや苦しみそのものを取り除いてやることはできないかもしれない。でもそばについていてくれる人がいる、そう思うだけでだいぶ気が楽になるでしょ? だから潮音ちゃんもあまり考えすぎないで、つらいときはつらいと言えばいいし、私や綾乃お姉ちゃんのことを頼りにすればいいよ」
潮音の心の中では、さまざまな思いが渦を巻いていた。そして潮音は体をこわばらせたまましばらく考えた末、綾乃の顔を向き直しておもむろに口を開いた。
「姉ちゃん…オレは何のために中学で水泳部に入ったと思う? 水泳部も練習が大変だったときや、結果が伸びなかったりしたときにはやめようかとも思ったけど、それをなんとか乗り切っていけたおかげで、椎名やみんなとも仲良くなれたし、体だって丈夫になれて度胸もついたし。…このことを思い出したんだ。今の自分だってこの水泳部と一緒で、ここで逃げたら、強くなることだってできないし、今までやってきたことがなにもかもダメになりそうな気がするから…」
綾乃はしばらく黙って考えた後に、にんまりとしながら口を開いた。
「…なかなかいい根性してるじゃん。でもあまり根つめすぎないようにね。高校がだめだって進路なんかいくらでもあるんだから、むしろそれくらいのつもりで気を楽に持った方がいいわよ」
潮音は綾乃に言われて、意を決したように答えた。
「姉ちゃん…やっぱりオレ、南稜に行きたいよ。たしかに南稜は制服ないってこともあるけど…今日こうして女子の服着てられたってことは、女子として学校に通うこと自体はできそうな気がする」
そこで潮音は、自分が南稜を志望する理由として、「玲花と同じ高校に行きたいから」ということは伏せておいた。
「わかったわ。何にせよちゃんとした目標があるのはいいことよ。でも南稜って偏差値高いんでしょ? だったら勉強しないと受からないよ」
そう言われて、潮音がそそくさと自室に戻ろうとしすると、流風も家に帰る支度を始めた。
「潮音ちゃんが勉強するのの邪魔しちゃ悪いから、私もそろそろ帰るわ。でも潮音ちゃん、入試が落ち着いたら、久しぶりに私がいっぺんバレエの練習やってるとこ見に来ない?」
流風に言われて、潮音は当惑した。
「潮音ちゃんは昔、バレエの練習けっこうがんばってたじゃん。バレエ教室の森末先生だって潮音ちゃんのことかわいがってたし、森末先生は今でも潮音ちゃんのこと覚えてるわ。もちろんバレエをやってみたらとは言わないけど、森末先生だったら潮音ちゃんの話も聞いてくれると思うの」
潮音は小学生のとき、流風と一緒にバレエ教室に通ったときのことを思い出して、どこか気恥ずかしい気分になった。
流風は潮音の家を後にする間際に、玄関口で綾乃に尋ねた。
「お正月はどうするの?」
藤坂家は毎年正月には敦義の家に親戚一同が集まって神社に初詣に行き、新年のお祝いをするのが常だった。
「潮音が受験だからね」
「一日くらいいいじゃない。それに潮音ちゃんもどうせ受験以外にもいろいろあってストレスたまってるんでしょ」
そう言った後に、流風は軽くあいさつをして潮音の家を後にした。その後で潮音も、そそくさと自室に戻った。
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