第三章・岐路(その3)

 冬休みに入ってから、年末に向けて周囲が慌ただしさを増していく中で、潮音は自室の勉強机に向かう日が続いた。家族は潮音がこんなにまじめに勉強するようになるなんてといぶかしんだものの、潮音にしてみれば南稜高校に入学するという目標もできたし、それにこのようにしてとりあえず問題集と向き合っていると、せめてもの間自分を取り巻くうっとうしい現実から逃れられるかもしれないという思いもあった。暁子をはじめとして、潮音のクラスメイトの中には冬休みは塾の冬期講習に通う者も少なくなかったが、潮音は今の自分の姿をあまり人前に出したくはなかった。


 しかしそうやって机に向かってはみたものの、潮音の胸の中からは終業式の日に玲花の部屋の中でセーラー服を着たときのドキドキするような高揚感がなかなか抜けなかった。潮音は無理にでも問題集や入試の過去問に目を向けることで、そのような心の動揺を抑えようとしたが、そう思えば思うほど心の中に雑念が次から次へと湧き上がってきて、とても勉強に集中するどころではなかった。


 潮音はとうとう勉強机から立ち上がると、部屋の片隅のクローゼットを開けて玲花にもらったセーラー服をハンガーから外し、あらためて手に取ってみた。


 潮音自身も学校でいやというほど目にしてきた、襟元と袖口に三本の白いラインの入った濃紺のセーラー服。しかしいざそれを眺めていると、潮音の胸中に玲花の部屋でこのセーラー服を着たときの胸が高鳴るような感触が蘇ってきて、体の中で何かがうずき始めるのを感じていた。


 続いて潮音は、濃紺のプリーツスカートを手に取って広げてみた。潮音はこの、一見頼りなげに見える服を自分が身にまとってみたことすら、なかなか受け入れることができなかった。


 そのようにしているうちに、潮音は心の中で何かが弾けるのを感じた。


──えーい、着てみりゃいいんだろ。着てみりゃ。


 潮音は覚悟を決めて部屋着のスウェットスーツの上半身を脱ぎ捨てると、玲花に教えられたのと同じ要領でセーラー服を頭からかぶって身にまとい、体の左脇にあるファスナーを留めた。潮音はスカートをはくのにはまだ抵抗があったので、まずはスウェットスーツのズボンをはいたままスカートを腰まで引き上げホックを留めてみた。しかし胸元のスカーフを慣れない手つきでなんとか留めてしばらくそのままでいるうちに少し気持ちが落ち着いてきたので、思い切ってスカートに手を入れてスウェットスーツのズボンを脱ぎ捨てた。

 

 潮音がそのまま、スカートの感触に戸惑いながら両足を固く閉ざして立ちすくんでいると、ドアの外で綾乃の呼ぶ声がした。


「潮音…ちゃんと勉強してるの?」


 その声に潮音は泡を食ったが、もはやじたばたしても始まらない。潮音がちょっと待つように言っても、ドアの向こうでは綾乃が声をあげていた。


「そんなにあわてるということは、どうせ勉強してなかったんでしょ。入るわよ」


 そう言って綾乃が有無を言わさずドアを開けると、その傍らに流風の姿もあった。流風はこれまでにも潮音の家に遊びに来ることがしばしばあったとはいえ、よりによってまずいときに流風が家に来るなんてと思って潮音はぎくりとした。


 しかし綾乃と流風は、潮音がセーラー服を着ているのを見て二人そろって腰を抜かしそうになった。そこで潮音は観念して、綾乃に全てを話した。終業式の日、玲花の家でセーラー服を着てみたこと、そして玲花からセーラー服を譲られたこと…。その潮音の言葉を、綾乃と流風は黙ったまま聞いていたが、その間も興味深げにセーラー服に興味深げに目を向けていたのはむしろ流風の方だった。


「私って前からいっぺんセーラー服着てみたかったんだ」


 制服がジャンパースカートの流風にとって、セーラー服は憧れの対象らしい。しかし綾乃は、流風の視線を感じて潮音がますます落ち着かなさそうにしているのを見て、潮音を居間に誘ってソファーに坐らせてお茶を出し、なんとか落ち着かせた。しかしそこでも、腰を下ろすときにはスカートがしわにならないように静かにするように綾乃から注意されたことは言うまでもない。


「で、あんたは女子の恰好するのいやがってたはずだったのに、どうして今そんなかっこしてるのかしら」


「オレ…自分でもわからなくなってきたんだ。オレはたしかに体が変ってもオレのままでいたいと思っていたよ。だからこそ髪だってばっさり切ったし、学校にも胸潰して学ラン着て行ってたよ。でも…だんだんそうやって学校行くことに疲れてきたんだ。朝早く起きてこんなことするたびに、こうまでしてまで守らなきゃいけない自分らしさって何なんだって。いや…そんなことしたって、元の自分には戻れやしないって」


 綾乃と流風は、潮音の言葉をただ黙ったまま聞いていた。


「そんなとき、いっぺんプールで泳いでみて、ようやく何かがつかめそうな気がしたんだ。あのとき女子の水着着て泳いだこと考えたら、どんなことだってできそうな気がして…でもこの今の自分が『ほんとの自分』なのかって言われたら…やっぱりわからないんだ」


 そのように話す潮音の顔には、戸惑いの色がありありと浮んでいた。潮音の話を最後まで聞いた後で、綾乃が口を開いた。


「潮音、あんたが悩むのはもっともなことだわ。でもそれだったらそもそも、そのあんたにとっての『自分らしさ』っていったい何なのよ。そんなものがそこらへんに転がってて、その通りにやってりゃ幸せな人生送れるようじゃ、人間誰も苦労なんかしないわよ…ちょっと来な」

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