第一章・鏡(その4)

                     

 潮音の入院から一週間ほどが経ち、カレンダーもいつしか十一月の半ばにさしかかっていた。しかし潮音はそのようなこともそ知らぬまま、あたかも羽化して成虫になる前の昆虫のさなぎのように、病室のベッドの中で眠り続けていた。


 黒田は毎日潮音の体の様子をチェックして、髪が伸びるのも止まって体の変化もほとんど終り、容態も安定しつつあることを確認していた。この調子でいくと近いうちに…と黒田は予感していたが、その結果については神に祈るしかなかった。


 そしてついにそのときが来た。潮音がゆっくりと目を開けると、まず殺風景な白い天井が目に映った。そこは晩秋のやわらかい日がさしこむ病室だった。潮音は自分がどこにいるのか、そこで何をしているのか、にわかには呑みこむことができなかった。


──そうだ、オレ、学校で体調が悪くなって、そのまま病院に運ばれて…。


 潮音はようやく我に帰ると、ゆっくりとベッドから上半身を起こした。しかしそこで胸の感触が今までとは違うことに気がついた。そう、潮音のふたつの胸は大きくふくらんでいたのだ。潮音がまさかと思ってあわてて胸に手を当ててみると、丸みを帯びた弾力のある乳房がむにゅりと凹んだ。そしてそのままそっと手を動かしてみると、その胸がパジャマの奥でかすかに揺れる感触に戸惑うあまり、思わず口から「あ」と声が漏れてしまった。その声も、これまでの自分の声よりずっと高くて澄んだ声だった。


 さらに潮音が顔を動かしてみると、そのたびごとに髪がまとわりついてきた。潮音の髪は、肩を覆い肩甲骨の少し上の辺りまで伸びていたのだった。


 潮音は自分の身に何が起きたのか理解できなかった。あわてて毛布の中で下半身に手を這わせると、股間にあった膨らみは消えて、女性のものに変っていた。潮音はもはや自分の手に触れるものすら信じられなくなって、その自分の両手を目の前に持ってきてしげしげと眺めた。すると手の指も細く繊細なものに変っていた。


──そんなバカな。


 潮音は毛布をはねのけ、そのままベッドから立ち上がった。しかしあらためて体のあちこちを眺め回し手で触れてみても、自分の体の感触が以前とすっかり変ってしまったということだけは疑いようがなかった。


 潮音はその場にうずくまった。なぜこのようなことになったのか、そしてここはどこなのか…考えようとしても意識が混乱して何が何やら理解できなかった。潮音は自分が悪い夢のさなかを漂っているとしか思えなかった。


 ちょうどそのとき、背後で病室のドアが開く音がして黒田が入ってきた。潮音はそのときは黒田がどのような人物なのかわからなかったが、そのようなことを気にする余裕もないまま黒田に詰め寄った。


「これはいったいどういうこと…」


 黒田は潮音が目を覚ましたのを見て、はじめこそ目を丸くしたものの、潮音をなんとか落ちつかせてベッドへと戻らせ、そこで洗いざらい真相を語って聞かせた。


 ひととおり黒田の話が終ってからも、潮音はにわかにそれを信じることはできなかった。自分が十日以上もの間病院で眠り続けていて、そしてその間に自分の体が女性に変ってしまうなんて…。ベッドの中でうなだれる潮音の姿を見て、黒田もやりきれない表情を浮かべた。


「元に戻る方法は…」


「君のお祖父さんの家に伝わる古文書を調べてみても、そのような方法は今まで確認されていないようだ。それにこれは医学の力でどうこうできるような問題でもないしね。ともかくしばらくは落ち着いて様子を見るしかないね。もしそれで君が心や体のことでいろいろ悩みが消えないのなら、私にも遠慮なく相談すればいいよ。その上で対策を考えればいいから」


「で、でもオレ…これからいったいどうすれば。受験だってあるのに」


「それは君自身が決める問題だな。ゆっくり考えるといいよ」


 しかし潮音には、自らを突然見舞った運命の重さを考えると、とてもそこまで考えをめぐらす余裕はなかった。



 それ以来しばらく、潮音は病室の中でただぼんやりと空を見つめるのみだった。病院でもこれは例がないケースだというので、検査ばかりを受けさせられる日が続いていた。それと平行してカウンセリングや生活面での注意も行われていたが、トイレで用を足す時には看護師につきそわれて女性用に行き、坐って用を足す方法を教えてもらったとはいえ、パジャマのズボンを下ろすと、潮音はそこから目をそむけたくなった。


 もちろん潮音も、思春期の少年の常として、性に関することには関心も一通り持っていた。クラスの友達と一緒に下ネタで盛り上がったこともしょっちゅうだったし、こっそり隠れてヌードのグラビアを見たことだってある。しかしこれがまさか自分自身のものになるとは、潮音自身も全く想像できなかった。


 潮音は一人で病室にとり残されると、ベッドの中で胸を高鳴らせながら、何度もパジャマの裾から手を入れて、大きくなった自分の胸に手を触れてみた。そしてその胸をそっと揺らしてみると、今まで感じたこともなかったような感触が心を満たしていくのにどきりとさせられた。しかしいざ我に帰ると、自己嫌悪に陥り毛布の中でうなだれる以外になかった。


 しかし体調そのものは、目が覚めてからしばらくの間こそ重苦しさや違和感がひかなかったものの、病院で検査ばかりを受けさせられるうちに徐々に回復していった。こうなってようやく周囲を見渡す余裕が出てくると、潮音は受験や学校の友達のことが気になり出していた。今ごろはちょうどみんな志望校を選んだり勉強したりしてるのに…。そう思うと心の中で焦りばかりが募る一方だった。



 そうして担当の医師や看護師にも感情的に当り散らすばかりの潮音を見て、黒田もどうすればいいのかずっと考え続けていた。そして黒田は潮音の家に電話をかけて、潮音の家族を病院へと呼び寄せた。


 潮音の病室に黒田が入ると、潮音はベッドの中で、黒田から手渡された「性」についての本を読んでいた。黒田はベッドの傍らに寄ると、潮音に語りかけた。


「藤坂君…この本を読んでいてわかったんじゃないかな。男女の違いは単純にひとくくりにできるものじゃないということに」


「でも先生…わからないんです。自分はこれまで体も心も男だということを疑うことなんかなかったのに、それがこれから何を信じればいいのか…」


「君がそうやって悩むのは当然のことだよ。君はこれまで男として生きてきたんだからね。でもそうして君が君として生きてくることができたのは誰のおかげだと思う?」


 そう言って黒田が合図をすると、病室に潮音の両親と綾乃が入ってきた。潮音はその家族の姿に思わず目を丸くした。入院以来久しぶりに見た家族の顔はやつれていた。潮音が入院している間、みんな夜も眠れぬ不安な日々を過ごしていたのだろう。


 ベッドに寝ている潮音を見て、則子は表情をほころばせた。彼女はそのままベッドの傍らに行くと、潮音の細くなった指を手に取った。


「潮音…なんとか元気になったのね」


 そのまま則子は両目に涙をためながら、潮音の体をしっかりと抱きとめた。潮音も則子に寄り添いながら、両目から涙があふれるのを止めることができなかった。


「母さん…オレ、まさかこんなことになるなんて…受験はいったいどうすれば…」


「潮音が入院している間、みんなすごく心配していたの。黒田先生から話を聞かされたときは、さすがにショックだったわ。でもこうして見てると、いくら女の子になったとはいえ、やはりこの子は潮音よね。どのような形であれ潮音が元気になってくれることに比べれば、受験なんてなんでもないわよ。あと、椎名君が家に来て、病院にお見舞いに行きたいと言ったのよ。様子が悪くて会えないと言ったら、せめてこれを渡してくれって」


 則子は潮音に、浩三の書いたメッセージカードを手渡した。カードにはこのように書かれていた。



「藤坂へ。

 オレはなんとか推薦で南隆に合格することができそうだ。

 でもお前のことが気になって、いまいち喜ぶことができない。

 なあ藤坂、一日も早く元気になってくれ。

 そのためだったらオレは何でもするから。

 そして元気になったら、また一緒に水泳がんばろうぜ」



 カードから目を離すと、潮音はうなだれるしかなかった。浩三は自分のことを気にかけている。しかしこの今のような体で、いったいどのような顔をして浩三に会えばいいのか。「一緒に南稜に行こう」と言っていたのに…そもそも自分が、あのとき土蔵の奥に足を踏み入れたりしなければ…。


 深い苦悩の表情を浮かべる潮音の肩に、則子がそっと手を置いた。


「潮音、この鏡で自分の顔を見てごらん」


 則子はハンドバッグから手鏡を取り出した。「鏡」と聞いて、潮音はあの土蔵の中での事件を思い出して身を引きそうになった。しかし思いきって手鏡で自分の顔を見てみると、そこに映っていた自分の顔は、心なしか以前より頬がきめ細かなものになり、両目がぱっちりとして眉が細くなり、まつげが長くなったような気はするものの、「藤坂潮音」の面影はそっくりそのまま残っていた。潮音はあらためて鏡を見て、自分の顔がさほど変っていなかったことにいささか安堵した一方で、自分の顔が女になってもそれほどの違和感がないということには、別の意味で複雑な気持ちにさせられた。


 しかし潮音が鏡であらためて自分の姿を見て、一番に目を引き付けられたのはその長く伸びた髪だった。その豊かでつややかな黒髪を見ていると、潮音は自分の心の奥底までもがかきむしられるような心地がした。


「潮音、むしろこれからが大変かもしれないけど…私もパパも、綾乃もついてるから」


「母さん…」


 潮音は母親の膝枕で泣き崩れていた。則子はハンカチで潮音の頬の涙をぬぐってやった。


 綾乃もその間、うつむいて唇を噛みしめながら潮音の姿を見守っていた。父親の雄一は無言のまま、潮音ともあまり視線を合わせないようにしていた。日ごろから無口な父親だったが、表情にもありありと疲れが浮かんでいることが潮音の目からも見てとれた。


「父さんはいったい…」


「パパはあなたが入院して、病院からほんとのことを聞かされるとすごく落ち込んでるのよ。パパは潮音に対して、一人息子として期待をかけてたのに」


 これまでは雄一は則子に「パパ」と呼ばれるといやそうな顔をするのが常だったが、今の雄一はそのようなことを気にするそぶりもないほど考えつめた表情をしていた。勇も謹厳だった父親の元気なくしょげた姿を見て、これ以上どのような言葉をかけていいのかわからずに戸惑っていた。そのとき綾乃が潮音に声をかけた。


「潮音、もっと元気出しな。あんたがそんなに落ち込んでるとこなんて見てられないよ」


「でもオレ、これからいったいどうすればいいんだろう」


「それはこれからじっくり考えればいいことだわ。いくら体が変ったからといって、何も朝目が覚めたらへんてこな虫になってたとかいうわけじゃないでしょ。ともかく今は、体を健康にすることを第一に考えな」


 しばらくして黒田が家族に面会時間が終ったことを告げた。あいさつをして家族が病室を出る間際、黒田は潮音に声をかけた。


「これでわかっただろう? ベッドにしばりつけられていることを考えたら、健康な体さえあればその気になれば何でもやれるって。それに君には、君がどうなろうとも君のことをサポートしてくれる家族だっているんだ」


 潮音もうなづいて黒田にお礼を言った。家族が立ち去って病室に一人残されると、潮音はいろいろ考えごとをしてばかりいても仕方ないと思って、ふと息をついて病室の天井を見上げた。

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