第28話 毎日正気生活~時のカナタ空のハルカ~
八畳の和室に寝転んで
古い、すっかり黄ばんだ畳のにおいを嗅ぎながら
見上げた天井の木目がゆらり
脳裏に染み出した無数の顔が視界に渦巻いて螺旋を描く
思い出すだけ思い出したら薄れていく意識の映写機が止まる
JR多治見駅からガードをくぐって西へ。県道に沿って道なりに歩く。空は曇っているが初夏とはいえ少し汗ばんで来た。汗を拭きながら白い、明るい曇り空の下をとぼとぼ歩く。信号を二つ超えて三つ目の交差点を左に。カーブを描く橋を渡ればすぐ、自動車ディーラーと赤い看板のドラッグストアが見えてくる。その次の交差点をまっすぐ進むと、家具屋の建物を無理やり改装した古いアパートが見えてくる。一階はその店と会社の看板が出たままになっているが、とっくに廃業しているらしい。シャッターが下りたまま月日が過ぎて雨風にさらされて、すっかり錆びついて、じっと閉まっている。
ひび割れたアスファルトの狭い駐車場をぐるっと回りこんでひしゃげた郵便受けの群れを左目で追いかけて落ち葉とチラシの吹き溜まりを踏んづけて、急な階段を三階まで登る。
振り向くとさっき電車で渡ってきた川が流れている。遠くでなにか建物の工事をしている。その向こうには大きな、真新しい病院。いかつい建物が風光明媚な景色を威圧して、重くのしかかる。
鉄製のドアを軽く引くと、ガチャリと大げさな音がして呆気なく開いた。
「ねえ、いる?」
「あっ、早かったね」
奥に尋ねるとすぐに出てきたのは小柄でむっちりした女の子。黒くてツヤツヤした髪の毛をヘアバンドで留めて肩まで下ろしている。黒縁メガネをかけて目鼻立ちのハッキリした、少し気の強そうな顔をしているが心根は優しくて親切な子だ。ゴスロリ趣味はいつものことだが、濃い顔によく似合っていると思う。
彼女に会いに来るのは、これで何度目だろう。煩雑な乗り換えも混雑する駅も苦にならないし、彼女の澄んだ目が死んだところが大好きだ。それに部屋の中に漂うシーシャの香りに交じってふわりと鼻先をくすぐる、彼女の軽くて心地よい腋臭も。
家具屋の倉庫を無理やり住居にしているので彼女の部屋は細長い。通りに面した部屋には空調もなく、トイレも無理やり後付けで設置してある。そんないびつな物件ではあるがさほど不自由はなさそうで、彼女は背伸びして戸棚にしまったシーシャフレーバーを取り出していそいそとテーブルに並べ始めた。
丸いフラスコのなかに浮かぶ銀のあぶく
胸にこだまする銀のあぶく
丸いフラスコの向こうで沈む体
胸を寄せ合って抱き合ってる体
黒と白の細いストライプのシャツ
ボタンを一つ一つ外す
はだけた素肌に水色の下着
まくり上げた黒いスカートの向こうにも同じ色の下着
丸いフラスコのなかで沈む二人のきおく
胸にこだまする君のきおく
指先に残ってる君のきおく
鼻先に残ってる君のきおく
天井に浮かんで消える銀のあぶく
部屋いっぱいに広がる銀のあぶく
古いアパート、僕の八畳間、多治見駅、僕の家、JR、路面電車、乗り換え、県境、古虎渓、自動車ディーラーとドラッグストア、古い橋、舗装のひび割れたアスファルト、ひしゃげた郵便受け、彼女の笑顔、彼女の体、彼女の傷跡、彼女の死んだ目、彼女のにおい、曇り空、窓の外は季節外れの夕立
雨が止んだので、彼女のアパートを後にした。小さな傘を、彼女がドラッグストアに行ったついでに買ってきてくれた。よく気が利くうえに親切な子だ。傘代は受け取らなかった。でも、シーシャ代を多めに置いてきた。将来はお店を始めたいから、今は気持ちでいい。500円くらいでもうれしい、と彼女は言った。僕の支払った額と日付を大学ノートに書き留めて、小さなカードを渡してくれた。それが彼女との初対面で、雨上がりのアスファルトと鼻先に残った彼女の名残がまじりあって、あの日の帰り道の曇り空と強烈に結びついている。今も。
天井が止まった
木目の揺らぎも
畳のうねりも
呼吸が深く、静かになってゆく
脳に流れ込む赤い血液と
青いオキシジェン
彼女の記憶をまた一つ消費した
彼女の記憶がまた一つ薄れてく
憂鬱な時のカナタ
曇り空のハルカ
煙の向こうに、あぶくのなかに
彼女が笑って消えていった
ハルカちゃん、と僕は思わず彼女を呼んだ
彼女はなんにも答えなかった
君のいない毎日が、正気であるために、今日も続く生活。
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