無常 ~桜子へ、僕からの言葉~

クーイ

無常 ~桜子へ、僕からの言葉~

 思えばあの時だった。僕の人生が決定付けられた瞬間は。

 大学1年の春。無事に入学し、どこか皆浮かれていた。そんな雰囲気の中で僕は、君の横顔を見た。

 甘い風が吹いたような気がした。誰が何と言おうと、僕はあの時の君に惚れた。講義を受ける真剣な眼差し。しなやかに動く右腕。

 かわいいけど、でも。どうせ、僕が惚れてはいけない人間だ。

 僕はいわゆる、“異常性癖”という奴だ。身体の一部、特に下半身が動かない姿に興奮を覚える。いわゆる下半身麻痺と呼ばれるもの。女性が、麻痺した部分を引きずって這うように歩く映像は、幼い頃によく興奮して観たものだ。

 君は確かに、僕が初めて惚れた“健康体の女性”だった。



 時は流れ、大学2年の冬。僕が何もできるわけなかった。性癖はもとより、恋愛には奥手だった。そんな時、講義室で君を見かけた僕は君の二つ隣に座った。

「すみません、消しゴム貸していただけますか」

 君を見つめていた講義中、君がふと話しかけてきた。

「あ、どうぞ」

 僕は平静を装った。左利きなんだと思った僕の目に、車いすが映った。今まで君に夢中で見えていなかったのか、確かに君の隣に桃色の車いすがあった。そういえば、歩いている時に姿を見かけたことはなかったなと思った僕は、君が左利きではないことに気が付いた。扱いづらそうに消しゴムを擦る左手は硬直し、太股の上に置かれた右手は握られていなかった。僕は悟った。この子は進行性の筋疾患か、それに似た病気だと。

 だからではない。君が病気だから恋をしたなんてことは、誓って無い。とうの昔に捨てた倫理観というものが降って湧いた。

 その後の講義は、もう耳に入っていなかった。決心することで手いっぱいだった。ここで声を掛けなければ、その後の人生で後悔する。これは、一世一代の大勝負だと思った。

 講義終わり。僕は、決死の覚悟で声をかけた。

「「あの……」」

 かぶった。よくある“運命”というやつだ。

「あ、どうぞ」

 僕は、相手に譲るように声をかけた。

「すみません。消しゴム、ありがとうございます」

 身体を目いっぱいこちらに向け、丁寧に頭を下げた後頭部からは、どこかいい匂いがした。

「あ、どうも……」

 君は優しそうな目でこちらを見る。惚れそうだ。いや、すでに惚れている。

「あの……」

「よかったら、よかったらでいいんですけど……」

 君に見られると、異様に緊張する。僕は、最高に恋愛をしていた。

「ご飯……とか、一緒に、行きませんか……」

 その言葉に、君は驚いたような目をする。僕はまだ名前も名乗っていなかったことに気が付いた。

「あ、すいません。名も言わず……」

 急いで名乗ると、君が吹き出した。

「いや、名前とかそういうのじゃなくて」

 君はうつむき、自分の身体を見る。

「私こんな体だから。迷惑かけちゃいます」

 君は、どこか悲しそうな眼をする。その表情が嫌で、僕は慌てて取り繕う。

「いや、それが……い、いや。大丈夫です。お手伝いできることはしますし。何よりかわい……あの、えと、はい。大丈夫です」

 自分に嫌気がさす。すると、君がふふっと微笑んだ。

いそ 桜子さくらこです」

「……へ?」

 君が、左手を差し出した。

「ご飯、連れて行ってください」

「あ、ありがとうございます……何が好きですか」

 僕は思わず握手をした。小さなレバーで車いすを操る君の隣で、色々と話した。

 音楽の趣味が意外と合うこと。高校は工業系のところに行ったが、工業が嫌いになって大学進学した僕の話。中学時代は吹奏楽に打ち込んでいた君の話。

「あ、ここがいいです」

 君が見ていたのは、ファミリーレストランの看板であった。一応デートのつもりであった僕は、虚を衝かれた思いがした。

「ここでいいんですか?」

 思わず聞くと、ふふっと笑って君が言う。

「ここがいいんです」

 と言って車いすの向きを変えた君は、押戸の前に着けた。君が銀の取っ手に手を掛ける。僕が開けようと手を伸ばすと、目が合った店員が飛んできて内側から戸を引く。

席に案内され、真剣な表情でメニューを見つめる君の顔を眺めていた。

「ん?」

 ふと顔を上げた君と目が合う。鼓動が暴れ、思わず頬が緩む。つられて笑った君の目尻を愛おしみながら、僕はメニューを決めかねていた。

 注文を済ませ料理を待っている間の会話に困っていると、君から話を始めてくれた。

「こういうところ、一人ではなかなか来づらくて」

 苦笑いにも似た表情の君は、何かを思い出しているように目を伏せる。

「僕も一人ではなかなか......」

第一、 友達ともなかなか来ない場所ではある。そう言うと、君は目を開いて話を続ける。

「なんかワクワクしませんか、ファミレスって」

 車いすの中で体を捻り、店内をぐるぐると見回す君は、本当にかわいかった。

 料理が到着し、君を視界に入れながらパスタを食べていた。君は、不自由そうにしつつも左手で器用にパエリアを頬張っていた。口角を上げ、うんうんと頷く君にもう一度惚れた。

 君より少し早く食べ終わった僕は、暫く君を観察していた。本当に、心から守りたいと思った。君の笑顔をいつまでも眺めていたい。そんなことを考えながら、君の不自由な右手をぼんやりと見ていた。

「ごちそうさまでした」

 呟くように言った君は、合わせた手を下ろして僕の方を見た。

「お待たせしました」

「いえ」

 人がものを食べるのを面白がって見たことはなかったが、これが恋というやつなのだろう。この後どこかに誘ってみようと思った僕が尋ねると、君は少し考えて言った。

「この後ですか、空いてますよ」

 待っていた返事が来た。ここですかさず行き先を……とならないのが僕の悪いところ。どこか行きませんかと言って黙った僕に、君が提案をしてくれた。

「それなら……水族館はどうですか」

 この辺りで水族館と言ったらあそこだろう。僕は断るわけもなく承諾した。

 ファミレスを出て、寒空の下を君と一緒に歩く。必死に話題を探しながら他愛もない話をしていると、君がふと言った。

「私、全身の筋肉が弱っていく病気なんです」

 言いにくいことを打ち明けようとしてくれているのが分かった。なるべく平静に、はいとだけ返した。

「驚かないんですね」

 見れば大体分かりますから、とは言わなかった。性癖が性癖なので、君の患っている病に関してはなんとなく察しがついていた。君が辿るであろう未来も、なんとなく分かっていた。

「母親が障がい者支援のボランティアをしていたんです。その関係でいろんな人を見てきたので」

 だからといって、完全に理解しているとも思わなかった。

「そうなんですね」

 はいと答え、次の言葉を探す。

「話してくれてありがとうございます、言いにくいことですよね」

 そう言うと、君は少し考えてこう言ってくれた。

「あなたとは、真剣に向き合えるかなって。不思議です」

 じゃあ僕も、君と真剣に。そんなことを考えながら、漂ってきた潮の香りを感じていた。

水族館に着く。チケットを買おうとした僕を引き留め、君が手帳を差し出す。君と僕、合わせて一人分の会計で済むようで、君がここは払わせてと譲らなかったので払ってもらった。

「わぁ……!」

 イルカの水槽の前で立ち止まったとき、君は感嘆の声を上げた。僕もつられて声を出してしまうほど美しかった。

「イルカさん、自由に泳ぎ回って、気持ちよさそう」

 自由な世界とこちらを分厚く遮る水槽を撫でながら、君は長い間イルカを見ていた。

 その後、いろんな魚を見た。群れを成すイワシ、優雅に泳ぐエイ。どの水槽の前でも、君は目を輝かせていた。

 帰り際、僕たちはお揃いでイルカのキーホルダーを買った。今日の思い出、自由なイルカ。

「買ってくれてありがとうございます」

 君が、イルカのキーホルダーを手のひらに乗せて嬉しそうに言った。僕はまるで幸せという鈍器で殴られたような気がした。

「あの……」

 帰り道。僕はついに決心して立ち止まり、そう切り出した。

「はい?」

 君は、首を傾けてこちらを見る。

「恋って、衝撃的なものだと思うんです」

「あなたを一目見たとき、僕には衝撃が走った」

 君は、時折相槌を打ちながら黙って聞いていてくれた。

「僕はあなたに、恋をしてしまいました」

「僕と付き合ってください」

 君は、僕の顔を見ながら、つらつらと話し始めた。

「私はイルカじゃないんです。私は、鍵をかけられた籠の鳥。いずれ死にゆく運命なんです」

「だから……だから、もっと。あなたには、もっといい方がいます」

 君の目元が光ったような気がした。

「じゃあ、鍵を開けます。僕がその籠の鍵を開けて、あなたを飛び立たせて見せます」

「たとえあなたが飛べなくても、あなたを背中に乗せて僕が飛びます」

「命を張ったっていい。あなたのためなら、どこまでも飛びます。あなたが好きです。あなた以外にあり得ません」

 一気に吐き出した僕に、君が語り掛ける。

「私の何がそんなに。私が、何かあなたに思わせぶりなことをしたのなら謝ります」

「でも、あなたに好きになってもらった。それだけで、私も捨てたもんじゃないって思います。だけど、あなたの相手は私じゃない」

 それを聞いた僕は、思わず言った。

「理屈より、好きじゃダメなんですか。はっきりしてください。あなたは、磯木桜子さんは、僕のことをどう思うんですか、それだけ聞かせてください」

 君はもう泣いていた。僕も半泣きだった。二人とも、むきになっていた。

「好き……です」

 君がぽつりと言った。堰を切ったように、君の口から言葉があふれてきた。

「好きに決まってるじゃないですか。私も、あなたを素敵だと思っていました。そんな人が突然デートに誘ってきて、こんな優しい方で、こんな……こんな」

「でも、私はあなたより早く死ぬ。絶対に。あなたがいるのに、私は生きるべき寿命を全うできない。それが、何よりつらいんです」

 道端で向かい合って言い争いをしている男女に好奇の目を向ける民衆など、どうでもよくなっていた。僕は、ようやく掴んだ君の言葉を離さぬよう、ここぞとばかりに畳みかけた。

「じゃあ、もっと濃くすればいい。濃厚で詰まった恋をすればいい。そうすれば、人の何倍も一緒に生きたことになる」

 君がうつむく。僕は君の細い身体を抱く。

「付き合ってください……桜子さん」

 君の腕が僕の背に回るのが分かる。弱った筋力で、一生懸命に抱き返そうとしてくれていた。

「よろしくお願いします…………」



「ここでいいんだよな……」

 僕は、スマートフォンを見ながら何とか君の家にたどり着いた。

『家の前まで来ました。立派なお家』

 立派な一軒家だった。庭が広くていい感じ。

『開いているので入っていいよ』

 どうやらこれらしい。僕は意を決し、チャイムを鳴らして引き戸を開けた。

「こんにちはー……桜子、さん……?」

 玄関に置かれた車いすを横目に、君を控えめに呼んでみた。すると、奥から綺麗な声が聞こえてきた。

「はーい」

 出てきたのは初老くらいの女性。お母さんらしい。

「あらま」

 そう言ったお母さんは、ちょっと待っててねの言葉を残して家の中へ消えた。玄関は段差がなくフラットで、細かいところへの配慮が見えた。

「そうそう、そうだよ」

君はそう言いながら、僕の隣にある車いすとは違うもので家の奥から出てきた。家用の車いすだろう。

「まさか桜子に彼氏さんがねぇ......」

そう言う母親を諫めながら、君が外出用と思われる車いすに乗り移るようなので、慌てて玄関側の車いすを後ろから押さえた。君の動きはとても美しく、洗練されていて官能的だと思った。

「よいっしょ……っと」

 君はフットプレートに足を乗せ、ぱぱっと衣服を整える。

「じゃあ、行こうか」

 レバーを倒しくるりと方向を変えた君が言う。

「行ってきます」

 僕もお母さんに一礼した。

「また改めてご挨拶に伺います」

 まあっ、の声を聞きながら、桜子の合図で外へ出た。

「いいお母さんだね」

 僕が言うと、君は照れ臭そうにこう言う。

「恋愛関係に関してはちょっと過保護かも」

 みたいだね、の言葉を抑えて君の話を聞く。

「でも、私ができることはやらせてくれるの。いい意味で放任主義って感じ」

 なるほど。あのお母さんに育てられたから、この君がいるわけだ。

 大学に着くと、僕たちは別講義のため一旦別れる。同じ講義の時はそのまま一緒に行くというのが流れになっていた。

 長い一日の講義が終わり、僕は君を待っていた。その日は一度も一緒になれず、さみしい一日だった。

「あ、あいつ。車いすの女と付き合ってるやつだよ、例の」

 一人で君を待っていると、どこからともなく声がした。

「あんな奴のどこがいいんだろうね、あいつ」

「かわいそうで付き合ってやってるんじゃないの」

「いやいや、異常性癖ってやつでしょ」

 女たちは、陰口を叩きながら笑う。ここに君が居なくてよかったと思うだけの僕は、特に反論せずに去る。かわいそうである、ということは絶対にないが、異常性癖であることは事実なのだから、反論する余地がない。それに、ここで騒ぎになったら迷惑を被るのは僕じゃない。

 実のところ、こういう陰口は初めてではない。こういうことを聞いていると、なんだか本当にかわいそうだから付き合ってやっているのではないかという錯覚に陥りそうになる。そんなことはないのだからと自分に言い聞かせても、自分は悪いやつなのではないかという妄想に駆られる。君といる時は話で遮るが、君が気づいていないという根拠はどこにもない。あれを聞くことで君の感情に変化があり、僕から離れてしまうのが何より怖かった。

「なんで何も言わないの」

 声がして、僕は思わず振り向いた。君がそこにいた。

「私のせいであんなこと言われて、なんであなたは平気で私のそばにいてくれるの」

 僕が煮え切らない態度を取ると、君がまくしたてた。

「かわいそうだから?」

「私の事がかわいそうだから、そばにいてやってるつもりなんでしょ」

 君からそんな言葉は聞きたくなかった。僕は、思わず言った。

「そんなことあるわけないだろう。僕が君の身体に惚れたとでも言うのか。違うね、断じて違う!」

「結局あなたは私の身体が好きなんでしょ!」

 半分図星だった。だからこそ、言い返さないわけにはいかなかった。

「違う!性格、綺麗な笑顔、そういうところが好きなんだ、君の」

「初めて見た時から好きだった。一目惚れしたんだ」

「嘘!」

「嘘じゃない、好きだ、君が!」

 なんという喧嘩か。人だかりができているのを見て、激高していた僕と君は思わず目を合わせた。

「す、すみません」

 僕は思わず言った。君にも。

「ごめんね、桜子。言い過ぎた」

 僕がそう言うと、君も謝ってくれた。

「私こそごめん。好きだって、言ってくれたのにね」

 周囲が沸き立つ。どうやら、僕たちは激しく恋愛をしているようだ。

「行こうか」

 その場から逃げるように、僕と君はすごすごとその場を後にした。

「私ね、まだ歩けたころに仲が良かった友達がいたの」

 夕暮れの帰り道、君が切り出す。

「うん」

 僕が相槌を打つと、君はうつむきながら微笑んで話を続ける。

「本当に仲が良かった。一緒にいろんなところに行った」

「だけどね」

 君の表情が曇る。

「歩けなくなって、変わってしまった」

「その子は、私といる時に注がれる視線に耐えられなくなったの」

「結局、その子は私から離れて行って、大学も別々になった」

 君が僕に振り向く。

「だから、怖かったの」

「私の病気が悪くなって、またあなたが私から離れていくんじゃないかって」

「……ごめんなさい」

 僕は、まず話してくれたことに感謝し、言葉をつづけた。

「僕は君から離れないよ。君が僕から離れない限り」

「もし君が僕から離れても、追いかけて行っちゃうから覚悟してね」

 僕は笑った。

「えー?」

 君がそう言って笑うのを見て、僕は心が満たされたような思いになった。君がこの言葉を聞いて、少しでも不安をなくしてくれたら。その思いでいっぱいだった。

「今度、デートしよう」

「デート?」

 君の顔が明るくなった。それが狙いだったが、デートに行きたいのも本音だ。日程を提案し、お互いに空いていることを確認した。

「お昼ご飯食べて、公園にでも行ってのんびり、なんてどう?」

「うふふ、楽しそう」

 僕は、この機会にと決心する。

「ご両親にも挨拶したいな」

 君は、少し笑って言った。

「生真面目だね。いいよ、じゃあデートの日、お父さんいるからそこで」

 そこから、その日までイメージトレーニングを重ねる日々が始まった。



 後日、僕は君の家の前にいた。いつもより緊張していた。

 チャイムを鳴らすと、お母さんが出た。

「はーい、ちょっと待ってねー」

 すべて聞いているのか、少し楽しそうな声だった。

 客間に通された僕は、正面のお父さんに固められていた。

「き、君かね。その……桜子の彼……というのは」

 僕は、お父さんの重い言葉を受け止める。

「はい。お世話になっております」

 隣のお母さんは、僕の隣にしゃがんでいる君と目を合わせて笑っていた。

「……」

「…………」

 何を話すべきなのか。困っていると、お母さんが僕とお父さんを見ながら口を開いた。

「終わった?“男同士の会話”は」

 その言葉に君が吹き出す。

「もうお母さん、雰囲気壊すようなこと言わないの」

 お父さんはやや照れ気味に、頭を掻きながらこう言った。

「いや、いい人そうで良かったよ。すまんね、こういうのは慣れないものだから」

 いえ。と言い、僕も少し笑みを浮かべた。

「いやー、まさかお父さんにあんな一面があるとは」

 君の実家から出て、僕らはお昼を食べるために例のファミリーレストランに向かった。今日もここがいいと君が言った。ファミリーレストランを出ると、僕らは近くの公園に向かう。途中、君が疲れているようだったので、僕が切り出して何度か休憩した。

 公園を歩きながら、僕らは遊んでいる子供を見ていた。

「いいね、子供って」

 君が言った。

「うん」

 僕もそれに返した。もう何も言うまい。お互いに分かっていたと思う。

 君とのんびり過ごす時間が何より好きだった。公園を散策しているとき、君がふとブランコを指さした。

「あれ、やってみてもいい?」

 もちろん。車いすを柵の外に停めた君を抱え、ブランコに座らせる。

「わぁ……!」

 僕が後ろから押すと、君は何とも言えない表情で感嘆の声をあげた。

 暫く風を切った後、鎖を持つ手が辛そうだったので、止めるついでに後ろから抱きしめてみた。

「うふふ、なーに?」

 なんでもない、そう言いつつ、君の背に顔を埋める。

「ふふ、今度は甘えん坊さんなの?」

 そう言い、肩越しにそっと頭を撫でてくれた。幸せを具現化したかのような時間を、ゆっくりと味わっていた。

 ブランコを降りて車いすに戻った君と、公園を再び歩いていた。

「明日、検査の結果が出るんだ」

 君が切り出す。

「結果次第で大学を休学するかも、って」

 残念そうにしている君の横顔を見ながら、僕は言葉を探す。

「そうなんだ。でも、会いに行くよ」

 そう言うと、君は少し微笑んでくれた。

「ありがとう」

 君の家にたどり着く。結果を教えるね、と言い、君は家へ入る。

「そうだ」

 そう言うと、君が振り返って顔を僕の方に出す。

 意図を汲んだ僕は、そっと頬に接吻をした。

「じゃあまたね」

 顔を赤らめて、君は家の中へ消えた。



 次の日の昼頃、大学が休みで家にいた僕に、君から一通のメッセージが届いた。

『やっぱり休学だって。ごめんね』

 そこには、謝罪が含まれていた。何についての謝罪なのかは置いておいて、今僕が言えることは一つだ。

『そうなんだ、会いには行っても大丈夫?』

『うん、外出もOKだって』

『そうか、じゃあ今度は実家デートにする?』

『楽しみにしてるね』

 自分で言っておいて難だが、実家デートとはまた気を使うものを提案してしまったような気がする。

 今度の休みはどうかと言ったところ、予定が合うらしいので、その日に決めた。

 休みの日の昼過ぎ、僕は君の家の前にいた。意を決し、チャイムを鳴らす。

「はーい」

 お母さんだ。君に会いに来たことを伝えると、中からは君が出てきた。

「いらっしゃい」

 家用の車いすで登場した君は、僕を自分の部屋に案内してくれた。

 薄桃色を基調としたシンプルな部屋は、一階のリビングの一番近くにあった。

「綺麗な部屋だね」

 僕が言うと、君は照れ臭そうに言った。

「えへへ、ちょっと掃除したの」

 すると、お母さんが後ろから声をかけてきた。

「はい、じゃあ後は二人で、ゆっくりしてってね」

 お母さんは、グラスに入ったお茶をお盆ごと僕に渡すと、ぱっぱと去っていった。

 僕は君に促されて君を車いすから降ろし、僕も座布団に座る。折れた君の脚を横目に、君と他愛もない話をした。病院で出会った子供が可愛かったこと、新しいドラマの話、君のお母さんのうっかりエピソードなど。

 時間は体感よりも早く過ぎた。気が付けばもう夕方であった。

 そろそろ帰ろうかな、と言ったとき、君が僕の袖を掴んだ。時計の針が、僕たちの動向をゆっくりと見つめていた。

 たまらなくなった僕は、君の身を丸ごと抱き締めた。ぺたりと座る君を膝立ちまで持ち上げ、君の吐息を耳元で感じる。周囲の温度が上がり、二人とも高まっていくのが分かった。

 耳に接吻をすると、君の喉が啼く。温もりを感じながら、僕はゆっくりと口づけをした。

 君が僕の唇を吸い、歯に君の舌が当たるのを感じた。それを迎え、お互いに絡め合う。ぬるい空気を入れながら、一心に舌先を貪っていた。

 口を離して目を開くと、感覚が一気に全身へ分散する。

目を閉じる君の顔を見たとき、緩みきったメスを丸ごと喰わんとする“獣”の咆哮が聴こえ、反射的に君の肩を開放した。

 バランスを崩してふらつく君を支え、目を伏せる。

「…………ごめん」

 思わず言うと、君がふと微笑んだ。

「引き止めちゃったね」


「お邪魔しました」

 車いすに座る君の横で、お母さんが手を振っている。

 すっかり遅くなってしまったため、夕飯に誘われたものの、さすがにお断りした。

 自宅に向かって歩を進めていたところ、僕の携帯が鳴った。桜子からだった。

『今日はありがとう、また会おうね』

 星のない夜空の下で、僕はコートのファスナーを上げた。



 しばらく経ったある日、講義がなかった僕は自宅でニュースサイトを眺めていた。日々の日課ではあったが、最近はデートスポットの探索も兼ねていた。そろそろ眠気が襲ってきたころ、あるタイトルに目を奪われた。

《心のバリア撤廃へ ラブホテル全面バリアフリー化》

 思わずタップして記事を読み進めると、地元のホテルだということが分かった。一部の部屋、および施設のほとんどをバリアフリー化したらしい。否が応でも先日の咆哮を思い出す。

 愛なのか欲望なのか分からぬまま、僕はラブホテルからほど近くに動物園を見つけた。

『今度、動物園に行ってみない?』

しばらく経ったころ、君から返事が来た。

『行く行く!』

 決まりだ。行く日を確認し、愛してるよと送って携帯を閉じた。

 次の休日。君の家に行くと、いつも通りお母さんが出た。

「いらっしゃい、ちょっと待っててね」

 お母さんが家の中に消えると、入れ替わるように君が車いすで出てきた。

「おはよう」

 挨拶を返しながら、君の服装を眺めていた。いつもよりかわいい気がするのは気のせいだろうか。

 室内用の車いすで外出用の車いすの隣に着け、ストッパーを掛ける。君は慣れた動きで乗り移ろうとしていたが、腕が辛そうで見ていられなかったので手伝った。君の柔らかい感触が伝わってくる。

「よいっしょっと……ありがとう」

 隣に残った脚をフットプレートに乗せた君は、かわいい笑顔を向けてくれた。

「行こうか」

 僕はそう言い、手に残った感触を振り払って君の家を出た。

「最近はどう、体調とか崩してない?」

 歩きながら訪ねると、君は笑って言う。

「大丈夫。デート楽しみだったし」

 それは嬉しいことだ。この流れで聞きたかったことを聞いてみる。

「今日は一日空いているの?」

 そう言うと、君は首を縦に振る。

「うん。夜まで空いているよ」

 じゃあのんびりできるね、と言いつつ君の頭を撫でてみる。

「んふふ」

悪魔的に笑う君の横顔を見ていると、今にも叫び狂いそうな感情に支配される。ああ、やっぱり大好きだ。僕は君の隣で、そんなことを考えていた。

 動物園に着く。君はやっぱり手帳を差し出し、僕たちは通常の半額で入園した。

「あ、キリンだ!」

 少し加速した君に合わせて早足になる。君は、のそのそと歩くキリンに小さく挨拶をした。

「首長いねー」

 そういえば、キリンと人間で首の骨は一緒の数だったっけ。そんなことを思い出しながら、君の言葉に付け加える。

「お母さんも長いからね」

 君がふふっと笑う。

「じゃあ、あの子の子供もきっと長いね」

 キリン舎を離れた僕たちは、時々カフェで休憩を取りながらのんびりと園内を見て回った。ゾウに驚き、ライオンに興奮し、コアラに微笑む君の顔を見ていた。その中で印象に残ったのは、最後に見たパンダ舎だろう。

 パンダ舎の前に立ち止まった僕たちは、若干の疲れもあってか、パンダに見入るように無言になっていた。僕が意外と動かないんだね、と呟くと、君がふと言った。

「この子たち、死ぬのとか怖くなったりしないのかな」

 君は僕よりも、確実にその近くにいる。僕なんかよりもずっと、その事実に気付かされる瞬間が多いであろう君に、容易に返すことはできなかった。

「怖いと思うよ」

 ようやく口を開くことができた。君は、パンダを見ながら相槌を打っている。

「怖いから生きるんだ」

 君が僕を見た。僕はその場に膝をつく。

「……僕も」

 君の肩を抱き寄せ、全身に君を感じる。君の匂いを鼻腔に迎えると、頭蓋に到達し全身に広がっていくのが分かる。

 君は真に愛おしく、生涯で一番のひとだと思った。

 僕たちはパンダ舎を離れ、北出入り口に向かって歩く。かわいかったねと言う君の横で、今からの行き先を言うべきか迷っていた。

「……駅前にラブホテルがあるのって知ってる?」

 この辺りに住んでいるのならば大体知っているとは思ったが、話の切り出しとして聞いてみた。君は少し間を開けて肯定した。

「あそこ改装したらしくてさ、バリアフリーになったみたいだから行ってみない?」

 そう言うと君はふふ、と笑って僕を見た。

「別に気にしなくていいのに。いいよ、行こう」

 動物園を出てしばらく歩くと、仰々しい建屋が見えてきた。歩いている間も話題を途切れさせずに話しかけてくれたのは本当にありがたかった。

 普通のホテルとは異なるチェックインシステムに戸惑いながら、何とかバリアフリールームに辿り着いた。

 僕はいつもの癖でバスルームを覗いてみた。洗面台のある小さな脱衣所の奥、ユニットバスだが割と広く、各所に手すりが設置され浴槽の隣に椅子が置いてあった。車いすの後ろに掛かっていたバッグを置いて一息ついていた君を呼び、バスルームを見せながら聞いてみた。

「一緒に入る?」

 僕としては介助的な意味で聞いたので真顔だったが、よく考えればとんでもないことを平然と聞いていたような気がする。君はいたずらっ子のような笑顔でいいよ、と言った。

 先にお湯張ってくるね、と言ってバスルームに入り、蛇口を捻って温度をみる。流れる湯を見ながら、僕を見つめる“獣”と睨み合っていた。

 湯が溜まったころ、脱衣所から君を呼ぶ。君は車いすを降り、床に座って這うようにして脱衣所に入る。

 お互い裸になると、思ったより気恥ずかしい。緩い曲線を描く君の身体を見ながら、僕は君を後ろから抱く。

「行こうか」

 垂れた脚は微動だにせず、ただぷらんとそこに付いているだけのようだった。

 赤ちゃんじゃないんだから、と言う君の後ろ髪を嗅ぎながら、バスルームに入って君を椅子に座らせる。

 シャワーを出して温度を調整し、君に渡す。僕は張った湯を風呂桶で掬い、頭から被る。

 お互い身体を洗い終え、君は手すりを頼ってふらふらと椅子から離れる。慌てて君の身体を支え、折れた君の足首を見ていた。

 二人で湯船につかる。張った湯が流れ、バスルームに湯気が回る。君と向き合う形で、手を握りながら互いに見つめ合っていた。

 自宅でもあまり長風呂をしない僕は、湯船から出て浴槽の縁に座った。

「出ようか」

 と君が言ったので、君を支えながらバスルームを出た。

 壁を背もたれにして足を伸ばし、バスタオルで身体を拭く君を見ていた。理性で抑えきれるはずがなかった。僕は、生まれて初めて“獣”に噛まれた。

 君の視界まで降り、肩を抱いて口づけをする。貪るような接吻の後、火照った君の果実に手を伸ばしてみる。至近距離で吐息を浴び、僕はすっかり女神に絆されてしまったようだ。

 蜜が漏れてくるのを感じ、今度は耳にキスをする。君の喉が鳴り、細い手が僕の胸で震えている。

 僕は、ふと君から離れてゆっくりと後ずさる。少し驚いたような顔をした君は、蕩けたまま足を引きずって追いかけてくる。

 ベッドに座り、ずるずると近づいてくる君を迎える。僕の膝に寄りかかった君は僕の下を頬張り、丁寧に味わいながら目を合わせてくる。

 足で君の陰裂をなぞると、口が止まり身体が一つ波打つ。撫でるように刺激し続けると、核が屹立し君の息が荒くなる。ようやく舌を動かした君は、脈打ちながら丁寧に刺激し続けてくれている。

 互いに吐息が多くなってきたころ、僕は君を抱いてベッドに寝かせた。細い身体は湯冷めを知らず、目は焦点を失っていた。

 極薄いラテックスの壁を感じながら、僕は君の全身を支配した。


 暗い寒空の下を、君と二人で歩いていた。すっかり見慣れた家の前に着くと、君が僕を見上げた。

「今日はありがとう、またね」

 僕は挨拶を返し、ゆっくりと口づけをして君を送った。



 それからしばらく。その日は僕が休みで君も空いていたので、君の家にお邪魔することにした。

 チャイムを鳴らすと、明るいお母さんの声が聞こえ、暫くして君が出てくる。

「いらっしゃい、どうぞ」

 君の部屋に上がる。促され、君を車いすから降ろして座椅子に座らせる。何とも言えない甘い香りを感じていると、部屋の戸がノックされた。

「はい、ごゆっくり」

 お茶が載ったお盆を渡したお母さんが、何か鼻歌を歌いながら去っていく。君の向かいに座布団を置いて座り、部屋を見回す。

「相変わらず綺麗だね」

 ふと自分の部屋を思い浮かべながら言うと、君はえへへと笑う。

「お部屋、片付けに行ってあげようか」

 からかうような笑顔で君が言う。僕だって少しは片付けてるよと返すと、本当に?と君が笑う。こんなときが好きだった。君と他愛もないことを話しながら、君の顔を見ている時間が幸せだった。

取り留めのない話をしていると、僕たちの思い出を話す流れになった。

「そういえば、突然告白されて。でも嬉しかったんだよ」

 まあ突然であったことは認めざるを得ない。元々は後悔したくないという僕のエゴである。もしパラレルワールドというものが存在するのなら、告白して失恋する世界の僕も多く存在するだろうと思う。

 君はふと思い出したようにドレッサーへ体を寄せ、鏡の前に置かれたものを僕に見せる。

「これも」

 あのとき買ったイルカのキーホルダー。僕のスマホにも付いているやつだ。

「大学で喧嘩しちゃったこともあったっけ」

「ふふ、恥ずかしかった」

 君は照れくさそうに笑う。

「いろんなところに行ったりもしたけど、こうやって会うだけでも嬉しいな」

 君はそう言ってくれているが、二人で出掛けるとなると行くのは近所の公園かランチ。まだまだ行きたいところはあった。今思い付いているところ全部、君と行くつもりだ。

「これからも、たくさん思い出を……」

 僕がそう言いかけると、君は何かに気が付いたように車いすに寄る。ストッパーを確認し、僕を見てごめん、と言った。意図を汲んだ僕が君を抱いて持ち上げようと足に力を入れると、君は驚いたように下を見た。

「嘘……」

 君が穿いているスカートの裾から、ぽたぽたと零れるものがあった。名を呼ぶと、君は黙って僕の胸を押した。

 ぺたりと座り込んで俯く君に、本能が静かに反応していた。濡れたスカートを握りしめる君を、励ますこともできずに抱き締めることしかできなかった。

 しばらくして、僕の耳元で君が言った。

「ありがとう、もう大丈夫」

 少し震えた声で、君はお母さんを呼んだ。

 僕は少し部屋を出て、中でお母さんと何か話す君を心配していた。中から僕を呼ぶ声がした。終わったらしく、お母さんが部屋を出て入れ違いになった。すれ違い際。

「ありがとうね」

 と、ビニール袋を持ったお母さんが微かな声で呟いた。

 着替えた君が僕の目を見る。部屋の戸を閉じ、君に微笑みかける。君の目が暗いような気がした。

「ごめんね。やっぱり私たち……もうわかれ」

「言ったよね」

 君が何か良くないことを口走るので、僕は冷静に言葉を被せた。面食らった君が疑問の表情を浮かべる。

「君が僕から離れても追いかけるって」

 そう言うと、君は僕から目を逸らす。

「でも……これからもいっぱい迷惑かけるし」

「追いかけられる覚悟もなしに、僕とこうなったの?」

 君がもう一度目を合わせてくれた。

「いいの?」

 論ずるまでもない。僕が君の身体を抱くと、君はありがとうと言ってくれた。

 陽は紅く輝き、僕は君の見送りを受けて帰路についた。



 しばらくは、そんな日々が続いた。平日は大学へ通い、休みの日は君の家に通う。そんな毎日だったが、これはこれで楽しかった。たまにお出かけして、ランチやディナーを一緒に食べたりもした。

 様々な笑顔が僕の脳に焼き付いた。こんな日々が永遠に続くと思っていた。

 進級目前となって忙しくなり、しばらく君と会えなくなっていたある日の講義中、僕のもとに一本の連絡が入った。

君が倒れて入院したというお母さんからの電話だった。

 肩を弾ませながら病室に行くと、君は点滴を受けながらベッドの上でご両親と談笑していた。

「あ、来てくれたんだ」

 君は、実にあっけらかんとしていた。一時意識不明だったものの、すぐに回復したらしい。とりあえず胸を撫で下ろすと、ご両親が「ごゆっくり」の言葉を残して病室を出た。

「病院でごゆっくり、って……ね?」

 君が笑う。いつもと変わらないその笑顔に安心し、ベッドの横にあった丸椅子に腰掛けた。

「ごめんね、わざわざ」

 いいんだよと言い、君の頭を撫でた。目を閉じ、小動物のように笑う。

「本当に大丈夫?」

 僕が聞くと、君は頷いた。

「大丈夫。ちょっと様子見るって言ってたけど、割と早めに退院できるかもって」

 割と早め、がどのくらいか分からなかったが、君が僕を安心させようとしてくれていることだけは分かった。

 会えなかった分、思いが溜まっていた僕は、思わず君を抱きしめる。

「もう……また甘えん坊さんモード?」

 君の香りを鼻いっぱいに広げ、肩をしっかりと抱き締める。少し細くなったかな、そんなことを思っていた。

「ありがとね」

 君は僕の頭を撫でる。本当の幸せを掴んだ時、人はそれを失うことを恐れるのだと、頭の片隅で考えていた。

「じゃあね」

 暫く君と話した僕は、手を振って病室を出て、ロビーに向かう。その途中、飲食スペースに座っていた君のご両親に止められた。

「ちょっといいかな」

 僕の横に座ったお父さんは、重々しい表情で打ち明けた。

「桜子の筋萎縮が進んでいる」

 頷きながら、懸命に言の葉を整理していた。

「桜子の首から下は、もうすでにほとんど動いていないようだ」

「今回倒れたのもそれが原因でね、乗り移れると思った車いすに乗り移れなくて落ちたらしい」

「だが、体力が回復して手術を受けられれば、或いは……」

 僕が何度か首を縦に動かすと、お母さんが言った。

「でも、手術ができる状態になるかどうかは分からないから、桜子にはまだ言ってないの」

 残酷な言い方だが、余計な希望を与えない。ご両親のその言葉が、胸に重くのしかかった。

 帰り道、僕は君と出会ってからのことを想っていた。君は、確実に僕の理想に近づいて行っている。自分の性癖を呪ったのは人生で何度目だろうか。君が僕から離れる度、僕の性癖が唸り声を上げた。

 目を背けていた性癖と、もう一度対峙する。僕が忘れようとしても、その“獣”は僕を虎視眈々と見つめていた。

 自宅のアパートに帰り、ドアを勢いよく締めて座り込む。

 どうにかなりそうだった。弱っていく君を憐れむ僕と、もう一人の“獣”がいた。君が辛い思いをすれば、それだけ“獣”が涎を零す。

 叫び出したい衝動を抑え、その日は横になった。



 無事に進級してからは、しばらく君の病院に通った。僕が何もできることはなかったが、僕と話すことで君の気持ちが休まればそれでいいと思っていた。少しでも君と長い時間を共にしたかった。

その日は、朝早くの講義がなかったため、朝起きて暫くした後、病院に向かった。

「早いね?」

 病室に入ると、君の明るい声が聞こえた。さっきまでお母さんが来ていたらしく、ベッドの横には新しい着替えが置いてあった。

 君の布団からは、点滴の管がスタンドに延びている。そして、カテーテルだろうか、ベッドの下に延びている管が、余計な想像をさせた。

「退院したら、旅行に行こうか」

 僕は、持ってきた話を切り出した。雑誌で、車いすのまま入れる温泉を見つけた僕は、その雑誌を君に見せた。

「こんなところあるんだね」

 君の表情が若干明るくなる。が、すぐに曇りの影を見せる。一応笑顔は見せるが、その裏に笑顔がないことは簡単に見抜くことができた。きっと、きっと行けるよ。口には出さないが、僕はそんなことを語りかけていた。

「これ、もらってもいい?」

 君がその雑誌を欲しがったので、あげた。君は、雑誌のそのページを見ながら、いつか行こうね、と言った。

「またね」

 しばらく君と話した後、僕は講義があるからと病室を出た。

 大学に着いた頃、君のお母さんから連絡があった。君が急変したらしい。なんで病室を出たんだ、なんで大学に来たんだと思いながら、反対行きのバスに飛び乗った。

 病室に着くと、医師が懸命に蘇生措置を施していた。お父さんに促されて君のもとへ行く。君の鼓動が耳に響き、まだ戦っていることを知らせていた。

 心臓マッサージに合わせて跳ねる君を見ていられず、しゃがみ込んで君の手を握り目を伏せた。反対側では、お母さんが必死に声を掛けていた。

 何かの警告音が鳴る。この音が何を示すか分からない分、君の手をしっかり握る。そして、意を決して伏せた目を上げた。

 必死に呼びかけた。人生で、最も長い時間だった。

「一緒に温泉に行くんだろ、二人で露天風呂に浸かって、将来設計でもしようよ」

「頼む……!」

 その時だった。忘れられない、あの声。

 その声は、君の灯が消えたことを知らせる、死神の声。

 膝をベッドの上に上げていた医師が膝を下ろし、君の目をライトで照らす。

 その日、僕は君を失った。絶望、そういう感情はなかった。

無。真っ新な無が、僕を包み込んだ。



 後日、君の葬儀に参列した。お焼香を終え君の顔を見る。薄白く彩られた君は、もう二度と目を覚ますことはない。

 僕の手の中にあるイルカと共に、君が遠いところへ行ってしまった現実をまざまざと見せつけられた。

 席に戻る際、君のご両親に一礼すると、お父さんが僕の肩を叩いた。

「生きてくれ。あの子の分まで、幸せになってくれ」

 そう言うと、僕の手に一通の封筒が握られた。

『桜子より』

 ご両親を見上げると、二人とも強く頷いた。

 夜風が冷たく僕の頬を刺した。自宅に戻ると、僕は君からの手紙を開いた。



 私はもうダメみたいなので、この手紙を残します。

 知っているかもしれないけど、この病気は手術や治療で何とかなるものではありません。

 先日、心肺が停止しました。お医者さんは、もうすぐ呼吸器を付ける必要があるって言いました。

 でも、できればそこまでして生きたくはない。あなたと過ごした時間より、機械で生かされる時間の方が長くなるのは嫌です。

 あなたは悲しんでくれるかもしれないけど、前に進んでほしいです。私以外の誰かと幸せになって、子供でも作って、家でも買って。十分幸せになってから、覚えていたら私に会いに来てください。

今までありがとう。


桜子



 君が亡くなって、今日で16年経った。

 今日君の十七回忌法要に呼ばれて、久しぶりにご両親と会った。今日知った話だけど、ご両親がしていた手術の話は、君にも内緒で僕に希望を与えようとしてくれていたらしい。しきりに謝られたので、君からの手紙で知ったことも伝えておいた。

 あれから色々あったけど、君の望んだことはすべて叶えた。

 大学を卒業して入社した会社で出会った女性と結婚し、子供もできた。賃貸でいいというから焦ったけど、一生懸命働いて何とか家も買った。郊外の小さな家だけど、ローンは組みたくなかったから一括で払った。

 君の葬儀の日にご両親にも言われたことだけど、どうやら僕は幸せになれたようだ。しばらくは自覚していなかったけど、同僚から幸せな人生だと言われて自信がついた。

 だから、もういいよね。そろそろ君に会いに行くよ。随分と待たせてごめんね。



 男は、確かな目である橋の上にいた。手にはナイフと、紙束が握られていた。

『桜子へ』

 男から彼女に向け、思い出を綴った恋文だった。

 紙束を地面に置き、持っているナイフで自分の陰茎を切断した。

 大量の血が流れた。血を失い、背筋が凍るのを感じながら、男は自分の手首を切る。

 そして、最後の力で欄干によじ登り、蹴った。

 次の瞬間、男は真っ暗な闇の中にいた。何も見えず、何も聞こえない空間。そこに、人間の声が響く。

「植物状態です。目覚める可能性は……低いと思われます」

「このまま生命維持を続けるか、生命維持装置を切るか……」

 しばらく間を開け、聞きなれた声がした。

「生かしてください……」

 妻だった。自分の妻が未来を決定した瞬間だった。

 男はこれから、生き続けることになる。

 何の希望もない地獄を、殺される日を待ちわびながら。

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無常 ~桜子へ、僕からの言葉~ クーイ @kuieleph

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