第82話 私の大事な子に手を出すな

(1)


 その日は天候が不安定なこの国には珍しく、雲一つない晴天の空が一日続いていた。


 安息日ということで、シャロンは最近新しくできた恋人と共に、カフェで上質な紅茶を味わいながらまったりと過ごしていた。

 白木の丸テーブルを籐で作られた椅子で囲む形の席に座り、白い塗装を施された広い格子窓から差し込むうららかな日差し。

 華やかな美しさと打てば響く会話力を持つ恋人との談笑を楽しんでいたシャロンだったが、彼の席から通路を挟んだ左斜め前ら辺――、女給に案内されて席に座る人物達を見た途端、危うく紅茶を噴き出しそうになった。

 ちょっとシャロンさん、どうしたのよ、という、恋人の声掛けに適当に返事をしつつ、シャロンの視線はすでに彼女から先程現れた人物達へ注がれ、外せなくなってしまった。


 それもその筈。席に座ったのは上質な三つ揃えのスーツを着たハルと、すっきりとした淡い水色のドレスを着たグレッチェンだったのだ。


 ……こ、これは一体、どういうことなんだ?!?!


 丁度、シャロンに背を向けている状態のため、グレッチェンはシャロンがこの場にいることに露ほども気付いていない。

 熱心に注文票を眺めるグレッチェンを横目でさりげなく注視していると、視線に気付いたハルが勝ち誇ったように、ふん、と鼻を鳴らしてきた。

 あからさまに嫌味たらしい笑い方に、シャロンは眉間に深い皺を寄せ、ぎろりと睨み返す。


「ねぇ、シャロンさん。さっきから何だかおかしいわよ??そんな怖い顔して……」

「え??そうかね??気のせいじゃないかな」


 恋人からの指摘を受け、慌ててシャロンは普段の爽やかな笑顔を浮かべて取り繕う。

 ハルはと言うと、鼻白んだ様子でグレッチェンから注文票を受け取っていた。


 何なんだ、あいつは!

『グレッチェンは美人だが、年下すぎて妹のにしか思えんな。第一、つるぺたな時点で食指が一切動かねぇ』とか何とか言いきっていたじゃないか!


 あいつは、それなりに顔も良ければ人望も厚い。経営者としてもやり手だ。だが!しかし!!あいつはとにかく女癖が悪いんだ!!アドリアナだけは例外だっただけなんだ!!グレッチェン、ハルだけは絶対にやめておくんだ!!保護者として、グレッチェンをあいつの毒牙に掛けさせてなるものか!!


 己を棚に上げているのは大概だが、まぁ、決して間違ってはいない言い分ではある。

 しかし、背後から漂っている筈の、シャロンから醸し出される怨念じみた気配すらグレッチェンは気付かないどころか、女給が運んできた、ティースタンドに乗ったチャーチウィンドウケーキやスコーン、フルーツサンドイッチに目を輝かせている。


「シャロンから聞いていたが、甘い菓子には本当に弱いんだな」

「はい。甘い物は私にとって正義ですから」

「何だそりゃ。まぁ、お前の貴重な笑顔が見れるのは役得っちゃ役得だが。あの馬鹿のために時間を割いてやったのも、これでチャラになる。いや、チャラどころか、釣りが返ってくるくらいだな」

「こちらこそ、折角の貴重なお休みを私なんかのために付き合って頂いて……。本当にありがとうございました。このドレスのお金も少しずつ返します」

「あぁ、いい、いい、気にすんな。こっちも若くて可愛い娘と一日過ごせて楽しかったし。ドレスだって敷居の高い店に入るために必要だから買っただけで、それもデパートの既製品だしな。今後もこういう機会が訪れた時にでも活用すればいいんじゃないか。まぁ、それよりも例のモノ、ちゃんとシャロンに渡せよ。変に遠慮なんかして結局渡せず終いになるのだけは勘弁してくれよ、な??」

「はい」

「頼んだぞ??あと、俺の名前は絶対出すなよ」

「どうしてですか??」

「嫉妬心燃やされでもしたら鬱陶しくてかなわん」

「大丈夫ですよ。シャロンさんは私なんて妹のようにしか思っていませんから」


 一瞬、ハルはもの言いたげな目をして何か言いかけたが、すぐに口を噤んだ。

 代わりに、「まぁ、とりあえず、折角のお茶が冷めちまうから頂こうか……」と、紅茶を啜り始めたのだった。





(2)


 会話内容までは聞こえないが、珍しく朗らかに笑いながら話すグレッチェンの様子に、シャロンはすっかり気が気でない。

 カップの中にはまだ半分ほど冷めた紅茶が残り、菓子に至っては全く手をつけていない。


「ねぇ、シャロンさん。もしかして具合でも悪いの??」

「えっ……、いや、そんなことはない……」


 心配そうに彼を覗き込む恋人を誤魔化そうとするシャロンの視界の端で、ハルとグレッチェンが席を立つのを捉える。


「……す、すまない、キャサリン……。じ、実は……、急に胃が痛くなってきてね……」

「まぁ、何ですって?!具合が悪いのに耐えていたのね……。すぐにお会計を済ませて、帰った方がいいわ!!」


 シャロンよりも余程青ざめた顔をしている恋人に少しだけ申し訳なく思いつつ、シャロンはハルとグレッチェンに続いて、まんまと店を出ることに成功したのだった。


 恋人との別れの挨拶もそこそこに、シャロンは二人が向かったと思われる辻馬車の停留所まで急いで向かう。

 運良く、二人が馬車に乗ったところで、すぐ後ろに並ぶ馬車にシャロンは飛び乗るようにして乗り込む。

 御者に金貨数枚握らせ、「あの馬車の跡を追ってくれ。質の悪い男が。私の大事な妹を騙したあげく、自宅に連れ込むかもしれなくて心配なんだ」と、告げる。

 シャロンの言葉を信じたのか、はたまた職務に忠実なのか、御者は見失うことなく二人を乗せた馬車の後を走った。


 当然だが、シャロンの心配は全くの杞憂に終わった。


 ハルはグレッチェンを、彼女が住むアパートの前へ降ろし、それからラカンターへと馬車を向かわせたからだ。

 とはいえ、シャロンの悶々とした思いは晴れるはしない。帰宅後、憂さ晴らしで飲みに出掛けたのは言うまでもなかった。





(3)


「シャロンさん、いい加減起きて下さい。……って、またお酒を飲みすぎましたね……」


 翌日、目を覚ますと、グレッチェンの存分に蔑みを込めた薄灰色の瞳がシャロンの顔を覗き込んできた。


「いくら昨日が安息日だったとはいえ、羽目を外し過ぎです。もう開店時間はとっくに過ぎているのですから、一〇分で支度を済ませて店へ降りてきてください」

「分かった、分かった……」


 いつも通りの男装姿に説教に……、昨日ハルの前で見せていたあの笑顔は何なんだ……、と、口に出しそうになるもどうにか押し留める。

 憮然とした表情を見せまいと、俯きながらベッドから抜け出し、クローゼットの把手に手を掛ける。

 シャロンの気を知ってか知らずか、「そう言えば……」と、グレッチェンが振り返る。

 よく見ると、視線が泳いでいるし、両手を後ろ手にもじもじと動かしてやけに恥ずかしそうにしている。


「……何だね??」

「あの……、その……」

「??」


 するとグレッチェンは、逸らした視線はそのままに、素早い動きで背中に隠していた白い小箱をシャロンに差し出してきた。

 想定外の出来事に面喰いつつ、シャロンは箱を受け取る。


「これは……」

「あの……、子供の頃、シャロンさんに贈ったネクタイピンが、あまりにもお粗末でしたから……。今度はちゃんと、お給金を少しずつ貯めて高価な物を、買いました……。気に入って頂けるかは分かりませんが……」

「開けてもいいかね??」

「……はい、どうぞ……」


 小箱の蓋を開けると、中には更に小さな黒い箱、ネクタイピンのケースが入っている。

 ケースを取り出し、中を開ける。

 形こそ、何の変哲もない至って簡素な造りだったが、素材は純銀だと思われ、またピンの先端付近には琥珀色に輝く石が埋め込まれていた。


「シャロンさんが、どういうおつもりで、いつまでもあのネクタイピンを付けているのか分かりませんが……、あのような錆びついた安物ではなく、こちらを使って貰えれば、と」

「あれは君からの初めての贈り物だったから嬉しくて使い続けていたんだ。でも、まさか、一度ならず二度までも……。本当にありがとう。勿論、大切に使わせてもらうよ」

 熟れた林檎よりも頬を真っ赤に染め、張りつめた様子で見上げるグレッチェンの表情が明らかに緩む。


 そこで、シャロンは昨日グレッチェンがハルと出掛けていた理由にようやく思い至る。


 ネクタイピンを買うためのお金が貯まったものの、どの店でどんな物を買えばいいのか分からなくて、ハルに付き合って貰ったに違いない。

 大方、高級店に入るためのドレスを持っていないグレッチェンに、ハルがデパートなりで買ってやったのだろう。


 すとんと腑に落ちると共に、つまらない早合点をして取り乱した自分の器の小ささにシャロンは恥じ入りたくなった。

 同時に、ハルとグレッチェンの件が完全に誤解だったことに心から安堵したのだった。

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