ハニワ日和
ラゴス
ハニワ日和
雨に濡れた国道に、薄桃色の花びらが散っている。時折り通る車が、おれに一時の眩しさと水しぶきを浴びせては去っていく。その後は、ビニール傘に落ちる雨の音だけが残る。
何か気を紛らわせるようなものがあればよかったのだが、さして街灯もない夜道を一人でずっと歩いていると、どうしても、なんでこんなことに、と考えてしまう。
いくら思案しても事態は変わらないのに、おれはまた堂々巡りに回想をする。
今日、おれは初めてのデートだった。
場所は郊外の水族館。あまり栄えた街ではなく、水族館以外に目ぼしい施設はないのだが、彼女が希望したのだ。
小学生のいつだったか、遠足で訪れた時は昼だった。図鑑でしか見たことのなかった魚たちが泳ぐ姿に、ずいぶんと高揚したものだ。ところが夜の水族館というのはまた違った魅力がある。室内なので影響はないはずなのに、夜の気配がそうさせるのか、ライトアップされた水槽はどれも妖しく、美しく見えるのだ。夜に集合というのも彼女の提案だったが、これは正解だと思った。むろん、魚の群れより彼女の横顔が素敵だったのは言うまでもない。
彼女は学内でも人気で、実際内面と外見に可愛らしさを兼ね備えている。おっとりしているが、媚びない愛嬌があるのだ。その素直さにおれは惹かれた。
はっきり言って今日のおれは舞い上がっていた。距離感の繊細なお友達期間を経て、こちらから告白してOKをもらった時などは、完全に有頂天だった。おれにとっては初めての男女交際だったから、浮足立つのも仕方なかったかもしれない。
とはいえ、紳士なおれは、早めに彼女を帰すつもりでいた。夜スタートという点に対して内なる野獣が咆哮をあげそうになったが、類まれなる理性がそれを抑えた。ねじ伏せたと言ってもいい。とにかく我慢した。
帰り道、バイト先に来る双子のおばさん客の話や、店長がレジ横の募金箱からこっそりくすねている話など、我ながら軽妙な語り口で、沈黙に陥ることなく、会話は弾んだ。駅に着いたら「今日は楽しかったね」と、ごく自然に感想を述べる流れで次の約束を匂わせる。そんな予定だった。
ところが駅を目前にして、彼女が立ち止まった。
「わたしたち別れよう」
耳に入り、脳に達して意味を理解するまで、やや時間を要した。そんなにあっけらかんと言うことじゃないと思ったからだ。しかし彼女にとってはそうじゃないらしい。
「な、なんで?」
「なんでっていうか」
人差し指を口元に当て、ちょっと小首を傾げて、
「なんか瑛二くんは違うって思ったの」
なんかって何!
そもそも自分と他人が違うのは当たり前のことだ。その違う部分を互いに認め、尊重していく。それが愛情で、つまり付き合うってそういうことじゃないのか?
と、いくら理屈に訴えかけてみたところで、一旦意志を固めた乙女というのは、ラバウル要塞のごとき堅牢な力を持ってして一切を撥ね退ける。そこをおれの豆鉄砲のような
彼女が去ってから、おれは近くのベンチに座って考え続けた。連絡先を交換してから今日までのやり取り、そして今日のデート中の出来事を走馬灯のように感じながら、大いに頭を抱えた。ハートマークの絵文字や、相槌の度に見せた笑顔の裏に隠された秘密を見出そうとした。
この期に及んでまだ、原因を究明して改善に乗り出せば復縁の芽が出ると思っていたおれは本物の馬鹿だった。おれは相談されたわけじゃなく、決定事項を聞かされただけに過ぎないのだから。しかしこの時は現実を受け止められなかったんだろう。無い頭をひたすらひねっていた。そう、時間を忘れて。
つむじの辺りに冷たいものを感じて、ようやく顔を上げたおれは雨が降ってきたことに気づいた。いつまで座っていたかはわからない。でもさすがに帰ろうと思い、駅構内に入ったおれは愕然とした。
「本日の運行は終了しました」
看板に描かれた駅員は、憎たらしいほどの笑顔で絶望を告げていた。携帯電話を取り出して時間を確認すると十二時五十分。とっくのとっくだった。
うつろな目で、掲示されていた地図を確認し、駅横のコンビニでビニール傘を買うと、おれはとぼとぼ歩きはじめた。今日という日をひたすらに嘆きながら。
国道は、まだ終わりが見えない。どこまで行っても道があるだけ。足がくたびれて、水たまりを避けて歩くのも億劫になってきた。心を無にすることは、僧でないおれには無理だった。
どうしてこんな日になったのか。横風が吹き、雨粒が頬を伝う。
そう、これは雨粒なのだ。決しておれの体内で生成されたものではない。いやに塩辛いのは、きっと気のせいだともそうだとも。
「……で、ようやくファミレス見つけた! と思ったら、横から始発電車通り過ぎていった時のやるせなさよ」
「この話もう四回目だぞ。しつこい」
「でもさあ」
「うるさい。黙れ」
一口あおると、
「いつまで無駄な時間を過ごすつもりだ。この比類なき阿呆め」
彼の口癖に、おれは肩をすくめる。
大学の同輩である帯本と、今日は呑みにきていた。学部は違うが、たまにこうして酒を酌み交わす仲である。
どうして知り合ったかといえば、帯本の話を小耳に挟んだからだ。いわく、並行処理のプロがいる、と。よくわからなかったが、たまたま食堂にいるというので見に行ってみて驚いた。
右手で携帯電話をいじりながら左手でコーヒーを嗜み、イヤホンでラジオを聞きながらテーブルに置いた新聞を読んでいたのだ。さらによく見ると足でリズムを刻んでいた。有線放送で好みの曲でも流れていたのだろうか。とかく、おれには真似できない芸当だった。
皆が遠巻きに見て近寄ろうとしない中、おれが声をかけたのは何故だったか。たぶん、あまりに自分と違いすぎて気になったのだろう。
「忙しそうだね」
「この方が時間効率がいいからな」
その時の真面目顔を、時々思い出し笑いする。リズムは関係ないだろと。
実際しゃべるようになってわかったが、極端な合理主義というだけで、帯本は冷血なわけじゃない。初めて件の日の話をした際には「それは理不尽な仕打ちを受けたな」と、気遣ってくれたものだ。今にして思えば自業自得な面もあるのに、そこは触れなかった。そして人と話す時は並行動作をやめる。無駄なことをしないと決めてるだけで、根はいい奴なんだと思う。
でも、おれは甘えすぎたようだ。酔っ払ってその度に管を巻かれては、いい加減腹に据えかねるものがあったに違いない。この呑み会以後、帯本からの連絡はぱったり途絶えてしまった。
一個人がいくらへこたれていようと、夏の日差しは容赦なく降り注ぐ。朝方、寝苦しさに目を覚ますと扇風機のタイマーが切れていたので再起動し、二度寝を決め込んだおれは昼前にようやく寝床から這い出した。水道水を一杯飲み、腹の足しにと冷蔵庫を開ける。
中にはバター! そしてマーガリンッ! が入っていた。
……一体どっちをどっちにつけるというのか、メインディッシュの座をどちらが拝命するのか。血で血を洗う戦いになるのは必定。もはや和解の道などない。正々堂々、純粋な罵り合いで雌雄を決することにしよう。
というのはさすがに忍びないので、そっと扉を閉めた。
ため息が漏れる。深刻な物資不足はともかく、無理に気持ちを高めようとしたところで逆効果だ。数ヶ月経ってもわだかまりは消えない。結局おれは、何一つ前に進めていなかった。
だらだらと着替え、アパートを出た。
コンビニで食料品コーナーを物色する。といってもコンビニはちょっとお高いので、あまり選択肢はない。歩いて十五分くらいのところに業務用スーパーはあるが、行く気が起きない。
仕方なくおれは二百九十八円の鶏丼を選んだ。味付けは濃い目だが、少量ながら野菜も載っており、やたらコストパフォーマンスがいい。週に二度は食べている。若干飽きてきているが、所詮学生なので贅沢は言えぬ。
そうだ、今日はバター足してみよう。マーガリン卿には悪いが、今回はバター公の汎用性に軍配が上がったということで。
会計を済ませ、アパートまでの道すがら、ふと自動販売機が目に入った。そういえば飲み物買うの忘れた、と。
水道水で充分じゃないのか? 買ってしまったらケチって鶏丼を選択した意味がなくなるぞ。いや待て、逆に節約したからこそジュースを買う余裕が生まれたとも言える。そこそこの田舎から上京してきたせいか、どうも都会の水道水というのはカルキ臭くてかなわん。さっき飲まなかったか? それはそれ。健康に害はなくとも、できれば気分的には避けたいものだ。むう、致し方あるまい。ならば許可しよう。
ちょっとした葛藤を乗り越え、小銭を投入したおれは、ざっと見渡してから炭酸飲料にすることにした。
ふいに妙な感覚が襲った。
ボタンを押そうとして伸ばした指が遠ざかっていく。これは一体どうしたことか。おれの意思とは無関係に、身体ごと、距離が開いていく。
いや、違う、これは。
両脇から生えてきた腕にがっちり押さえ込まれ、身動きが取れない。後ろにいるのは相当に屈強な人物らしく、おれの足は宙に浮いてすらいる。
「誰だ!」
ぎりぎりまで首を旋回して誰何した途端、おれは「うっ」と言葉に詰まった。無機質な瞳、民族めいた紋様、ぼうっと開いた口が描かれ、日差しにぬらりと光る木の肌。その人物は、白いハニワのお面をしていたのだ。
狼狽しながらも、おれはじたばたともがいた。しかしほとんど効果がない。と、その時小型のバスらしき車両がゆっくり横切った。
藁にもすがる思いでおれは叫んだ。
「助けてください! 捕まってるんです!」
声を振り絞った甲斐あってかバスは止まった。ところが安堵など束の間、出てきたのは黒いハニワのお面をした男だった。
お呼びでない!
一般的にバスの後部座席というのは三人掛けになっていることが多く、このバスも例に漏れなかった。だが、三人とはあくまで標準的な体型の場合だ。右に筋肉もりもりのハニワ、左に筋骨隆々なハニワ。こんな場合は想定していない。
しかも間にいるおれなど意に介さず、両者とも大股開きで座っているものだから余計に狭い。ちなみに断っておくがおれは中肉中背で至って普通である。いちおう抵抗してみたものの案の定動かなかった。タンクトップ姿のハニワに挟まれる……こんな意味不明の苦行に苛まれているのは、全世界的にみてもおれくらいではなかろうか。とりあえず、ややこしいので白い方をハニワA、黒い方をハニワBと呼ぶことにする。
さっき、バスから出てきたハニワBは、おれに猿ぐつわをすると、ハニワAと協力しておれをバス内に放り込んだ。そしてすぐさま発車。どこに向かっているのだか、皆目見当もつかない。
なぜなら、カーテンどころか全面に暗幕が引いてあり、外の様子がわからないからだ。おまけにバスの前面部にも暗幕があり、運転席がまったく見えない。バスが現れた時もハニワが邪魔で外から見ていない。こんなことをする輩に心当たりはないが、どうせ「驚いた? ハニワCだハニ!」とかいうオチだろう。
冷房が効いていることが唯一の救いだ。目的こそ不明だが、ハニワたちは腕組みをしているだけで、危害を加える様子もない。鶏丼を膝に乗せたまま、おれはしばらくむさ苦しい空間に耐えた。
三十分ほど経った頃だろうか。アナウンスが流れた。
「皆さま、本日はまことにありがとうございます」
ボイスチェンジャーか、はたまたヘリウムガスか。ニュース番組の証言VTRなどでよくある、加工された音声だった。
「これより昼食のお時間です」
なんとも意外な知らせだ。安心しそうになったが、たぶん目的地ではないんだろうと思うと喜べない。
ただ良かったのは、バスが停まると、猿ぐつわが外されたことだ。息苦しさからの解放と、ちゃんと口から食べるという知能を持ち合わせていることにほっとした。動物のお面とかならまだしも、ハニワというのが得体の知れなさを増幅させている気がする。これで手ごろな斧でも持っていたら和製ジェイソンと呼べなくない。
降車すると、どこかの山間のようだった。
周囲は林で、駐車場の奥に木造の建物がある。その手前にテーブルや椅子が置いてあることから、ちょっとしたカフェスペースのようだった。
見覚えのない場所だ。おそらく抵抗されても問題ないと思われているために、おれは縛られていない。しかしこれでは、仮に逃げ出したところで無事に帰れる保証がない。結局おれはハニワに促されるまま、カフェの一席に着座した。
ハニワたちが違う席についてから、ちらりとバスを確認すると、外から見えないように暗幕が張られていた。あれじゃ運転できないので、おれが降りるタイミングで隠したのだろう。ご丁寧なことだ。
よそ見をしていたおれの前に、建物から何かが飛び出してきた!
のけぞったおれは、椅子の背もたれが背骨にあたるのを感じながら、相手を見た。正確には見下ろした。その相手はテーブルにすがるように寄りかかり、息を荒げていた。興奮して荒いというより、過呼吸にも似た、高音混じりの、全力疾走でもしてきたような荒げ方だった。五呼吸に一回くらいの割合で「オエッ」と危険な声を漏らしている。よくよく見れば花柄をあしらったフリル付きの可愛らしいエプロンをしていて、本人とのギャップが激しい。おれの眼前で、禿頭の薄い毛がそよいでいたからだ。
まとめると、初対面で満身創痍の禿げたおっさんがフリフリのエプロンを装着して目の前で起爆寸前ということだった。
今すぐにでも逃げ出したかったが、下手に刺激を与えると吐瀉物的なサムシングが横溢する危険性が極まってきていたので、自分でも何言ってるかわからないが、とにかく地味に背中が痛いのを我慢して、ひたすら耐えるしかなかった。心の中では手を組んで空を見上げていた。
祈りが天に通じたか、しばらくすると息が整ってきたおっさんが、ようやくおれを見上げて言った。
「ごお、ごお、ご注文は?」
要らないです。帰ってください。
そう言いたかったが、はにかんだ笑顔とすきっ歯に免じて丁重に断った。
「いえ、結構です。これがあるので」
ところがおれの鶏丼を見るや否や、
「雑魚が」
と、思いっきり蔑まれた。
確かにおれが悪い。席についていながら注文せず、さらに食べ物を店内に持ち込んだのだ。それはいい。それはいいが、雑魚ってなんだよ。
さておき、ハニワの席で耳打ちされたおっさんは、にやりと笑って建物内に戻った。やがて聞こえてくる調理の音。油がはじけている。それから何かを炒めているようだ。音と香りからして、どうも中華らしい。山で中華というのは食べたことがないが、まあ一般的な昼食と思えば悪くない。店員はともかくメニューは意外と普通だった。
そして数分後、運ばれてきたのはジュースだった。なんでだよ!
大きめのグラスに、ピンク色の濃い液体が注がれている。ピーチよりはだいぶ毒々しく見えるが何味なんだろう。しかし特筆すべきはストローだ。飲み口が二つある。しかも中央で湾曲してハートを描いている。まさかとは思う。いくらなんでもそれは、と。
ところがここは予想通りで、ハニワたちの濃厚ラブラブタイムが始まるのだった。
ハニワAB共に、おれなどまるで眼中にないというふうに見つめあっている。世界は二人のためにあるとでも言いたげだ。なのにお面は取らず、下から無理やりストローをくぐらせて飲んでいるのが異様でしかない。おっさんはといえば、空いた席で餃子とチャーハンを掻き込んでいる。
……人は突っ込みどころが多すぎると、かえって絶句してしまうものだ。セルフの水を汲み、ぬるい鶏丼を食べながら、おれは目の前の光景を見るたびに首を傾げた。
おっさんを置き去りにして、バスに戻るとすぐさま発車した。そしてアナウンス。
「昼食はいかがだったでしょうか」
世にも珍しい体験をどうもありがとうございました。
「それではこれより、幻の魚人間の幻を追え! 幻の泉探検ツアーを開始いたします!」
なん……なんだそれは。幻ってそんなに連呼するものじゃないだろ。ていうか魚人間の幻ってそれ幻じゃねえか。
言いたいことはいろいろあったが、届くはずもない。ただ幻の泉というだけあって、山奥の秘境にでもあるのだろう。なぜといって、さっきからバスが頻繁に登り下りし、時々うねるように曲がっているし、道が悪いのか車内がよく揺れているからだ。外が見えずともそれはわかる。
まあ昼飯というか休憩時間があったということは、中間地点くらいには来てるのかもしれない。つまりあと三十分もすれば到着するんじゃないだろうか。いまだに目的はわからんが、すこし待ってみよう。
その後おれの予想に反し、三時間十五分ほど経った頃、ようやくバスが停まった。再びアナウンス。
「ここからはガイドの
すると運転席の暗幕から女性が出てきた。帽子から制服から靴までショッキングピンクで覆われていて、象のお面をしている。そこは兎のお面付けとけよ。
「皆さま初めまして。ガイドの兎田でございます。幻の泉までをご案内させて頂きます」
ベテラン女優か、高級旅館の女将のような、艶っぽい素敵な声だった。その魅力を服装が殺している。
「なお、幻の魚人間は強い音や光に弱いので、ゆめゆめ忘れませぬようお願い申し上げます」
そこは深い森の中だった。心なしか霧がかっていて視界が悪い。しかも道らしい道がないので、けっこう無理にここまで来たようだ。腰に、バスとを繋ぐ命綱を結ばれると、緊張感が出てきた。
ハニワたちは留守番で、おれと兎田さんだけで泉へ向かう。まさかそのショッキングピンクが見失わないためのものだと知って、ちょっと身につまされた。
といってもそう遠くはなく、木々の間を練り歩き、十分ほどで到着した。おれたちは茂みに身を隠しながら泉を窺った。
幻の泉というだけあって、遠目に見てわかるくらい水が澄んでいる。それどころか、きらきらと輝いてすらいるようだ。特殊な成分でも含まれているのだろうか。
その時、風が吹き荒び、周囲をざわざわと揺らした!
「あちらをご覧ください」
どこか緊迫感のある兎田さんの手が示す方、泉の奥に二つの影が現れた。
……マグロの競りを見たことがあるだろうか。堂々と横たわるマグロは、死してなお、大海を渡りきるほどの逞しい肉体を誇っている。おれの脳裏に浮かんだのはまずそれだった。
ただ違っているのは、そのマグロに人間の手足がついているということだ。頭がマグロなのではなく、体全体がマグロのところに手足が生えている。片手に銛を持ち、一匹が赤いハイソックス、もう一匹が緑のハイソックスを履いていた。さらに一点あからさまな特徴があったが、それは触れずにおいた。
「あっ、始まりますよ」
兎田さんに小声で言われ、注視していると、魚人間たちはまず銛を捨てた。それから手を繋ぎ、腕を伸ばし、片足ずつ交互に上げながら、くるくると回転を始めたのだった。
「あれは雨乞いの儀式です。運がいいですね、めったに見られるものじゃないんですよ」
「へえ、神に祈っているわけですか」
「いいえ、彼らは神の怒りに触れたからあの姿にされたそうです。古い文献に記してありました」
なんだその文献。
「雨乞いはかなりの集中を要します。邪魔をしては悪いので私たちもそろそろ……」
そうして我々は引き上げた。幻の魚人間は実在したのである。
バスの後部座席に戻ると思案した。これでおそらくツアーは終わったことになるが、結局おれに魚人間を見せる? のが目的だったのか。それにしては妙にあっさりしているというか、苦労に見合っていない気がする。
まあ今さら考えてもわかるまい。それよりおれは疲れている。忘れがちだが、割と常にハニワに挟まれているのだ。とはいえ、今さら警戒しても無意味だろう。この際むさ苦しさは無視して眠ろうと思い、おれは目をつむった。
……だがおかしい。なかなか発車しない。気になって寝つけない。足音がする。兎田さんか? いや、どうもどたどたとうるさい。それどころかびちゃびちゃと水の滴るような音が混じっている。
不審感に目を開けると、前の座席に魚の身がぎゅうぎゅうに詰まっていた。
え、おまえら。おまえらは来ちゃ駄目だろ。仮にも幻なのに。
心の中の突っ込みもむなしく、発車するバス。それでも訝しげに見ていると、どこからか声が聞こえた。
「何見とんじゃワレこら」
一旦おれが聞こえないふりをしたのも無理からぬ話だった。絶対関わったら碌なことにならないだろう。だが逆効果だった。
「おうにいちゃん、あんまり舐めた態度とりくさっとったらなあ、手と足の爪全部剥がしてアトランダムに入れ替えたるからなあ!」
怖い。発想が怖い。ドスの利いた赤いハイソックスの方はあっち系の人らしい。
「せやであんさん、この人怒らせたら手えつけられへんねんから。昔は大国町の荒獅子って呼ばれてはったさかいに」
狭い。管轄が狭い。「さかいに」って言われても。緑の方は、たぶん妻なのだろう。口調が腹立つ。ていうかおまえら急に喋りだすなよ。
ただ確かに、こういう手合いは絡まれると面倒だ。しかも得てして話が長い。とりあえず形だけでも謝っておこう。
「あの、すみませんでした」
マグロたちは魚の目を合わせて、
「おお、なんやにいちゃんわかる子やんかあ。今度寿司でもいこか。回ってるやつやけどな」
と、急に友好的になった。情緒が激しいな情緒が。しかも寿司って、冗談がブラックすぎる。いいのかそれで。
曖昧に頭を下げてごまかすと、納得したのかあっさり解放された。その後も突っかかってくる様子はない。むしろ、
「いややわあんさん、またそんなこと言うて」
「がっはっは、ええがなええがなあ」
という感じで、夫婦ともに上機嫌だ。そして相変わらず、ハニワは腕組みをしたまま鎮座している。
今なら眠れる。そう確信したおれは再び瞼を閉じた。身を委ねると、まどろみがすぐに立ちこめる。そのままおれは泥のように眠った。
「……ます。まもなく到着です」
意識の淵から声が聞こえて、薄目を開ける。見慣れない景色だと思い、それからバスの中にいることを思い出した。身体が重い。
バスが停まった。時刻盤は九時を表示している。気だるさを引きずって降りると、どうも自宅近くの土手らしかった。右手を下ると市民グラウンドのフェンスがあり、左手を下るとドブ川がある。一目でわかるほど汚れた川だ。
南に向かい、道なりに行けばアパートに着く。よくわからない一日だったが、もう帰れると思うと眠気が覚めてきた。
ここでハニワたちが出てきた。まさかついてこないよな? な? だが身構えるおれをよそに、突如としてクラウチングスタートからのロケット加速で、北に走り去っていった。さらばハニワよ。それにしても美しいフォームで走ってるな……。
次に兎田さん。思えばこの人は唯一まともだった。丁寧にお辞儀をされたので、同じように返す。彼女もまた北へ歩いていった。
最後に魚たち。座席から強引に抜けたのか、擦れた跡がある。幻の泉在住じゃないとしたらどこに住んでるんだって話だが、もういいか。二度と会うこともないだろう。
そうしておれが一歩を踏み出した時だった。
「おうにいちゃん、寿司いこか」
……………………。
え、その話生きてたの? ていうか今日なの?
動揺を隠しきれなかったのか、魚どもがおれをじいっと見てくる。
「あのーにいちゃん、まさかとは思うんやけどな」
「いや、あの、僕は」
「逃がさへんでえ!」
すぐさま緑の方が南に立ちふさがってきた。反対には赤い方がいて、両者ともじりじりと距離を詰めてくる。おれはバスの後ろまで逃げた。バスを挟んでのせめぎ合いが始まった。
魚たちに俊敏性はなく、機動力ならこちらが上だ。しかし二対一は厳しい。片方は南を守りながらではあるが、すきあらば襲ってくる。もう片方はひたすら追ってくる。体力は無駄にあるようで、魚たちの動きは衰えない。そんなマグロらしさ今いらねえよ。
一方でおれの足はもつれはじめ、じり貧になってきた。多少寝たからといって疲れはあまり取れてない。だいたい、おれが何をしたって言うんだ。マグロに追われるってなんだよ。段々腹が立ってきた。
くそっ、くそっ、さっきは黙っててやったけどもう言う。言うからな。
「そもそもおまえら着ぐるみじゃねえかああぁぁぁ!」
おれの叫びが天を
ふと、おれは兎田さんの言葉を思い出した。強い音と光……。気づけば魚たちは互いに目潰しをし合っている。しかも避けない。なんだその発作。
やがてもみ合いになった奴らは、おれが「あっ」という暇もなく、二人してごろごろと土手を転がってどぶ川にダイブした。
しばし呆然として、やがておれは吹き出した。
このことだけじゃない。ハニワたちのラブラブタイム。死にかけのおっさん。セクシーボイスの象仮面。よく見ると覗き穴があるマグロ。今日のすべてが今さらながらツボにはまって、おれは笑った。腹を抱えて地面を叩いて、涙が出るほど笑った。これだけ笑ったのはいつ以来だ。いやむしろ、いつからまともに笑っていなかったのだろう。
しばらくして、ようやく抱腹の最中から抜けようとしていると、バスから運転手が降りてきた。
「思っていたより綺麗に上がったな」
さすが並行処理のプロ。音と形と色を同時に楽しめる花火は、実に帯本らしい。
帯本が渡してくれた、おれが飲むはずだった炭酸飲料を片手に、おれたちは明滅する夜空を見つめた。
なんでこんなことをしたのか、というのは愚問だった。帯本は無駄なことをしない。それに、おれの胸のあたりは、やけにすっとしている。
ただ一言だけ、言ってやりたかった。
「なあ」
「なんだ」
「おまえ、比類なき阿呆だな」
「真似するな、阿呆」
ハニワ日和 ラゴス @spi_MIKKE
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