深紅の竜血

江渡由太郎

プロローグ

プロローグ

 ディヴィナ・ウィートリーは絶望していた。


 繊細な細工を施された重厚な石壁の寝室は、今夜だけは冷たい石棺に感じられた。


 果実の汁の染料で淡い緑に染められた絹の衣装を身に纏い、思い詰めた表情で少女は体の震えを必死に抑えながら窓際へとゆっくり歩き出した。


 陶器のように真っ白な細く小さな手で己の身の丈以上あるであろう大きな窓を両手で押し開ける。開け放たれた窓は外から吹き込む風は荒れ狂いながら寝室のカーテンを波打ち立たせる。荒々しい風は磯の匂いを含んでおり、冬の寒風に少女の陶器のような白い肌がなぶられている。


 夜空には、厚い暗雲の狭間から月光がその存在を誇示しようと、力強く照らしている。


 月明かりに照らし出された少女の美しい黄金色の長い髪は、荒れ狂う風を司る精霊シルフに激しく乱され神秘的な輝きを放っている。


 ディヴィナは今、開け放たれた窓の縁に立っている現実と扉の向こうから聞こえてくる慌ただしく迫ってくる複数の足音のどちらが、真の恐怖なのかも考えられない。


 それほど、十四歳の少女の思考は麻痺していたのだ。


 自分の震える足元の眼下に広がるのは、果てしない闇色の深海である。


 足を一歩踏み出せば間違いなくその漆黒の闇の底に呑み込まれ、即座に命はないことだけは幼い少女にも容易に理解ができた。


 黒い海の波が海岸に衝突するたびに生ずる、水の飛沫はまるで古の海の魔獣クラーケンの触手が蠢く影のようにも感じられた。


 恐怖、絶望、悲壮……


 あらゆる感情が飽和状態となる。


 自己防衛のため己の僅かに残っていた思考が停止し、頭の中が真っ白になり、感情希薄現象に陥った。


 そして、ディヴィナは頬から伝う涙が闇の中へと堕ちて行くのを目にし、そこで初めて自分が今、涙を流していたことに気づいた。


 だが、そこにはもう何の感情の欠片も感じられない。


 何故このようなことになったのだろう。


 ふと、ひとつの疑問が脳裏を過った。


 誰もが父を恨んでいた。


 誰もが母を憎んでいた。


 誰もがわたしを……


 突然、背後の扉が激しい音をたてて勢いよく開け放たれた。


 揃いの銀色の甲冑を身に纏った数人の男たちが、甲冑のぶつかり合う耳障りな金属音をさせながら勢いよく寝室へと駆け込んできたのだ。


 そのうちの甲冑の男の一人が、荒々しい声で少女の名を叫んだ。


 ディヴィナは静かに振り返ると、その男の手には無惨にも胴体から切り離された、父親の生首が掴まれていた。


 男はそれを無造作に少女の方へ投げてよこした。


 放物線を描いてそれは鈍い音とともに大理石の床面に着床した。


 それから頭は床の上を三回転ほど不快な音をたてて転がり、やがて少女の足元近くでその回転を止めた。


 父親の目にはかつての生気は感じられず、顔は血塗れの形相で歪んでいたのだった。


 その虚ろな視線は、幼い少女を責めているように語りかけている。


 ディヴィナを愛してくれた父親の面影は、もうそこにはなかった。


 甲冑を身につけた他の男たちは、ディヴィナの母親を隣の寝室から連れてきた。


 髪を振り乱し我を忘れて必死に抵抗する母親を、二人の男たちが両腕を力強く押さえ付けている。


「お願い! ディヴィナには手を出さないで! あなたたちの望む物は何でもあげます。古今の神々に誓います! 全ての光の神々に誓います! だから! ……だから……お願い……ディヴィナだけは……」


 王妃は、愛娘の目の前で涙ながらに懇願した。


「王女にも見ていていただこう! 目の前で己れの肉親が殺されるさまを!」


 氷のように冷たい無表情のまま男は、腰から短剣を素早く抜くと、水銀のような鋼の刃は一瞬のうちに王妃の喉を深く切り裂いた。


 赤色の葡萄酒のような血が、裂けた喉の傷口から脈打つように溢れだし、ディヴィナの目の前で母親の命の灯火が徐々に消えていった。


 男たちの銀色の甲冑には竜の紋章が刻まれている。


 それはこの国の国旗にもあり、ディヴィナの愛した紋章である。


 本来ならば、王国の王族とその民を護るはずの騎士たちに、王女の両親は殺されたのだ。


 無力な王女を護る者は、この国にはもう誰一人いないのである。


 ディヴィナは、全てが終わったのだとはっきりと悟った。


 王女は、王と王妃を殺害したその近衛騎士隊長の目をじっと見つめたまま、窓の縁から足を一歩踏み出し掴んでいた窓枠からそっと手を放した。


 次の瞬間、少女の小さな姿は漆黒の闇の底へと掻き消された。


 近衛騎士たちは、目の前で起きた出来事を理解する時間も与えられないまま、その場の時間が止まったかのような錯覚をあじわった。


 幼き王女が闇色の海へと投身したその一瞬の出来事は、近衛騎士隊長にとってまるで永遠の一秒のようにも感じられたに違いない。


 誰もがその場から身動きできずにいた。呼吸をするのを忘れてしまうかの様な沈黙が暫くの間続いてた。


 暫くして近衛騎士隊長は我に返り、憤りと失意が己の魂の中から溢れだした。


 そして心の中で、自ら命を絶った哀れな幼い王女の冥福を光の神々に祈りを捧げた。


 正義は成されたという実感よりも、何か虚しさが騎士たちの心に重苦しくのし掛かった。


 これからこの国の行く末がどうなるのか、誰も想像できなかった。


 王位継承権を有する幼い王女を、女王として即位させる段取りだったからなのだ。


 結果的に騎士たちは、取り返しのつかない大失態をおかしたため、本来の思惑どおりとはいかなかったのである。


 突然、城全体が激しく揺れた。無機質の岩が悲鳴を上げているかのような甲高い音が城の隅々まで響き渡る。甲冑を身に纏った騎士たちはたまらずその場に崩れ落ちる。四つん這いの姿勢で必死に己の今の体位を維持するので精一杯であった。先程まで王女がいた窓の外から、巨大な黒い影と大翼の羽ばたきの音が夜空の静寂を破り、遠くの空へと飛び去って行った。


 その場にいた誰もが言葉を失ったかのように、再び沈黙だけがこの部屋の中を支配したのだった。

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