最終話 むらさきのこいし
駅前のショッピングモールは、冷房が効きすぎて頭が痛くなるくらいだった。汗がひくと、私もゆいちゃんもトイレに行きたくなった。
たくさんの店舗がひしめき、複雑な構造をしたモール内では、近くを探してもなかなかトイレが見当たらず、そうなると急激に尿意が強まった。尿意は判断力を鈍らせ、私たちはさらに無秩序にさまよい続けた。やがて、モールと直結している鉄道駅の改札に出た。
「あ、あそこ!」
改札と券売機の数十メートル奥の行き止まりに、トイレのマークが見えた。私たちは懸命に走った。振動で、私の膀胱は破裂寸前だ。
トイレの内部へと導く短い階段を素早く上がろうとしたとき、隣接する男子トイレの出入口から出てきた男とぶつかりそうになる。男は私たちをなめとるように睨んだ。ぞっとした。ゆいちゃんは気づいていないようだった。
女子トイレの中は、奥の蛍光灯が切れていて薄暗い。個室が二つあり、奥の個室はドアが閉まったままだ。
「いとちゃん、さきにはいっていいよ」
「いいの?」
「うん、ゆいはまだがまんできるから」
私はありがとうを言うのも忘れ個室に入って鍵をかけ、和式のトイレにまたがった。トイレの床はわずかな泥と水で湿っており、足を踏み入れるとじゃりりと音がした。
やっと許されたというのに、おしっこは最初、出るのをためらっていた。相も変わらず私の身体はひねくれている。ようやくちょろりちょろりと出たかと思うと、水道の蛇口を一気に捻るごとく一気に決壊し、今度は出しても出しても止まらなくなった。ついには身体じゅうの水分が空っぽになるまで出続けた。私はしばし、全身に鳥肌が立つほどの尿意を我慢してトイレを探し回っていたついさっきの極限状態と今の幸福感との対比を楽しみ、しゃがんだまま放心していた。
ようやく出し切ったと膀胱が認識すると、安堵の溜め息と入れ替わり、トイレ全体に染みついたきついアンモニア臭が鼻をついた。トイレットペーパーのホルダーは空だった。リュックからポケットティッシュを取りだす。出しっぱなしの尻が、すーっと冷えていく。ここまで、私はゆいちゃんの存在をいっとき忘れた。
奥のトイレの扉が開き、中から人が出ていく音がした。私は下着を履き、ズボンを引き上げ、足もとの水栓レバーを踏む。
あれ?
レバーは固くて、濡れた靴底でつるりと滑ってしまい、私の力ではなかなか流せない。それでも力いっぱい、何度も踏みしめていると突如、グオオオーッという轟音とともに、すべてが流れていった。ほっとした。
ドアを開け個室を出て、洗面台の蛇口に手をかざそうと背伸びする。ふと目の前の大きな鏡を見る。鏡から見える奥の個室は、ドアが開いていた。私は振り返った。
「ゆいちゃん?」
ゆいちゃんがいない。
私はもう一度、両方の個室をのぞいて確かめた。女子トイレの出入り口から階段を降りて通路へ出て、券売機の前へ戻る。もしかしたら、ゆいちゃんは先に切符を買っているのかもしれない。
券売機にも改札にも、ゆいちゃんはいなかった。ちょうど電車が到着し、たくさんの人が改札口から吐き出されてきた。私は人の流れに飲み込まれないよう踏ん張りながら、目をめいいっぱい凝らしてゆいちゃんの水色のワンピースを探した。
いない。ゆいちゃんがいない。
ショッピングモールに入っているスーパーマーケット、隣接するアーケード街、歩道橋、駅前のバスターミナル。探しても探しても、ゆいちゃんはどこにもいなかった。私はリュックからダイアナを取りだし、握りしめた。
突然、脳が動きを止めた。母に言葉で殴られているときと同じだ。すると世界は私の立っているところだけを残して、地面も天井も景色も人も車も建物も、ゆっくりゆっくり、だんだん速く、ぐるんぐるんぐるんと回りだした。息が、いきが、くるし、く、な、る。
はあ、はあ、はあ、はあ。
私の両脚は固まって棒になり、靴の底が地面にべったりと貼りついて動けない。もしかしたら身体は倒れているのかもしれない。自分が目を開けているのかどうかもわからない。けれど、回り続けている空間の存在だけははっきりと見えていた。砂時計の砂が上から下へ落ちていくように、目に映るものから、世界から、するすると色が抜けていく。
ゆいちゃん。
ゆいちゃん。
ゆいちゃん。
ゆいちゃん。
ゆいちゃん。
薄れゆく意識のなかで、私は何度もゆいちゃんを求め、ゆいちゃんを叫んだ。
ゆいちゃん、あのね。
ほんとうのことは誰かに言っちゃいけないから、ゆいちゃんにも言わなかったんだけどね。「むらさきのこいし」を見つけて、「まほうのとかげ」に会えたら私はね。私は、弟になりたいってお願いするよ。
カイくんになってもう一回、新しく生まれなおしたいんだ。
(了)
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