カラスの子
河原 藍
第1話 ガラスの扉
記憶は留めておくものであるらしいことを知ったときには、すでに私の脳はそうできない仕組みになっていた。だから今もやり方を知らぬまま、ただ目の前の瞬間を見つめて息をしている。どうやら私以外の多くの人は、留めた記憶は「おもいで」という名前できれいに包み、いつまでも大切に取っておくようだ。そして、わざわざ「おもいで」を作るために遊んだり、楽しんだり、なにかを作ったり、どこかへ行ったりするという。
わからない。私にはさっぱりわからない。
スカートをまくり上げると、ガラス扉の硬さが肌にひやりと吸いついた。履いていた下着を右手で尻の真ん中に集めてふんどしみたいなかっこうになるまで後ろにひっぱり上げ、むきだしになった尻をぐっとガラスに押しつける。いままで〝あれ〟を外でしたことなどなかったのに、私は今、どうしようもなく、してしまっている。いけないことをしているという気持ちが、心臓を急速に冷やす。それなのに、私は私を止められない。腰を前後に動かす。小さく、炎のような刺激がともり、最下部の一点に集まり、のぼり、つんと身体を貫いていく。ぐい、もっと、ぐい、もっと。私の動きに呼応して、背後のガラス扉が揺れ、ずん、ずん、と地響きみたいな音をたてる。
気配を感じてふりむくと、扉の中に伸びる暗い廊下の向こうから、私より小さい男の子が口をぽかんと開けてこちらを見ていた。私は素早くスカートを下ろし、なにくわぬ顔をしてその場を離れる。歩きながら、腰骨まで上がってしまった下着の裾をつまんで元に戻す。両脚の間が、ひりりとする。さっきの感触を思い出し、下腹部がぐわりと波打つ。
保育園の裏手から正面玄関に戻り、水色のペンキがはげかかっている小さなベンチに腰掛け、誰もいない園庭を眺める。園内は昼寝の時間らしく、あたり一面、時間が止まり、ひっそりと眠っていた。『ねむりひめ』の姫が魔女の呪いにかかって百年の眠りについたとき、お城はきっとこんなふうだったのかもしれない。黄色い太陽の光はシャーベットみたいな甘えた色をした丸っこい遊具たちを優しくあたためていて、冬の終わりのやわらかな風が落ち葉を転がす微かな音だけがする。このままここで、私も百年の眠りに落ちたらどれだけいいだろう。
ついさっき、園長先生だという、太った優しそうな女の人と話をした。
「あらまあ、〝愛〟って書いていとちゃん、ていうの。すてきなおなまえねえ。いとちゃん、四月になったら先生や、ここにいるたくさんのお友だちと一緒に、楽しい思い出、いっぱい作りましょうね」
園長先生はしゃがんで私と目線を合わせ、にっこりと微笑んだ。私はどう返してよいかわからずに口をつぐみ、ただじっと、先生の瞳の奥の黒い球を見つめた。
「もーすいませんこの子、すっごく人見知りで。いつもちゃんと挨拶はするようしつけているんですけど」
頭の上で母の尖った声がする。心臓がぴりりと震え、私は慌ててこくりと頷く。園長先生はうふふ、と笑って、太い腕の先に咲いたふくよかな手のひらで、ぽんぽん、と私の頭を撫でた。身体が勝手に反応して、肩が動いた。
妹はバギーの中で、弟は母の背中で眠ってしまった。
「これからお母さんと少しお話があるから、終わるまで、いとちゃんはお庭をみていらっしゃい」
私は母の顔を窺いながら「はい」と小さく返事をして部屋を出た。母はこちらを見なかった。
園長室から玄関まで、音をたてないよう、鈍い光沢のある廊下を走る。来客用の靴箱に揃えておいた自分の靴にかかとを押し込み、玄関の重い扉を背中で押して開け、ころりと身体を回転させて外に出た。目の前にひらけた園庭を横目に、コンクリートの壁に指を滑らせながら建物に沿って歩く。土だけの小さな花壇、続いて現れたネコヤナギのふわふわを手のひらでひとつひとつ握って通り抜けると、むっと動物の匂いがした。網の目の細かい頑丈そうな飼育小屋に、茶色いのと白いのと黒いウサギが三匹。ウサギたちは私の足音に耳をぴくりと動かし、いっせいにこちらを見た。私はとっさに目をそらす。その視線の先に、一羽のカラスがいた。カラスは顔を横に向け、小さく光る片方の目玉でこちらをじっと見ている。黒く長いくちばしを上へ、下へと向けながら、焦点は決して動かさない。カラスは、母がいちばん嫌いな鳥だ。私は、小走りで先を急ぐ。だいじょうぶ、追いかけてはこない。
重たく甘い香りをいっぱいに含んだつぼみをつけた沈丁花の垣根が終わるとそこは、園舎の裏側だった。縦に細長い、両開きのガラス扉が見える。玄関とは違う、秘密の入り口かもしれない。私は大きく息を吸うと、にわかに高揚した。今日は珍しくスカートを穿いていて、脚の間から風が抜ける感じが、まるで裸になっているような錯覚を起こす。そうしたらもう、手が勝手に下着へと伸びていた。
四月になったら、私はこの保育園に通う。あの家の中から外に出て、新しい生活が始まる。
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