[4] 停戦

 5月1日午前4時、陸軍参謀総長クレープス大将らドイツ全権代表一行は第8親衛軍司令官チュイコフ大将と面会した。クレープスは相変わらず全面抗戦論者だったが、毎日ひそかに髭剃り用の鏡を相手にロシア語に磨きをかけていた。

「小官がこれから申し上げることは極秘事項である」クレープスは言った。「貴官がこれを知る最初の外国人となられるわけだが、実は4月30日にアドルフ・ヒトラーは自殺を遂げた」

「それは我々も知っている」

 相手を混乱させようとしてチュイコフは平然と嘘をついた。クレープスは続けてヒトラーの政治遺書と「この戦争で最大の被害を受けた諸国民のための満足できる解決策」を求めるゲッベルスの声明を読み上げた。

 チュイコフはシュトラウスベルクの第1白ロシア正面軍司令部にいるジューコフに電話をかけて経緯を報告した。ジューコフは自分の名代としてソコロフスキー上級大将を第8親衛軍司令部に派遣し、モスクワ郊外の別荘にいるスターリンに電話をした。スターリンの回答はいかなる解釈も必要ないほど断固とした姿勢を示していた。

「クレープスとも、他のヒトラーの子分とも、無条件降伏以外の交渉はするな」

 ジューコフは「最高司令部」と協議した後、ソコロフスキーに対して「ゲッベルスとボルマンが10時までに無条件降伏に応じなければ、こちらは彼らが永久に抗戦意欲を失うほどの強力な打撃を加える」旨をクレープスに回答するよう伝えた。タイムリミットは5月1日午前10時15分と定められた。

 ドイツ側では、総統の死はごく少数の高級将校に知らされただけで、その夜から翌朝まで厳重に秘匿されていた。将校たちは和平交渉再開を期待していたが、第1白ロシア正面軍は日がかなり高く昇った頃―タイムリミットから25分後に都心残存部に対する砲撃を再開した。その意味は自ずと明らかだった。ソ連軍司令部は無条件降伏に固執し、ゲッベルスはそれを拒否したのだ。降伏をほのめかすことさえも頭から拒否したゲッベルスだったが、市内の防御拠点の各地で白旗が揚がり始めていた。

 第79親衛狙撃師団に包囲された動物園ツォーの防空タワーから、ようやくドイツ軍捕虜の1人が回答を携えて戻って来た。ソ連側に渡された回答は「貴官の通告は午後11時に受領した。我々は(本日)夜半に降伏する。守備隊長ハラー」という内容だった。防空タワーから回答が遅れたのは、守備隊がその日の夕刻に脱出する準備を整えるためだった。

 第47軍司令官ペルホローヴィチ中将は対敵宣伝班に対し、シュパンダウ要塞の守備隊長に降伏勧告を送るよう命じた。対敵宣伝班から2人の軍使が出向き、要塞に立てこもるSS将校たちに対して次のように言った。

「もしこの戦闘で多くの兵隊が死ぬことになれば、その結果に対する責任を私は負えない。もう一つ、降伏を拒否するなら、ここ(要塞)にいる全ての民間人の死に対して、あなた方は責任を負うことになるだろう。ドイツはすでにあまりにも大量の血を流しており、1人ひとりの生命はドイツの将来にとってかけがえのない貴重なものになるはずだ」

 SS将校たちは満身の憎悪を込めてソ連兵をじっと睨みつけていた。軍使たちは「午後3時までに決断してもらいたい」と告げて味方の陣地に戻った。軍使たちは敵からまとも回答が得られず不安だった。あとは待つだけ。午後3時が迫るにつれて、緊張が高まった。

 午後3時、要塞からドイツ軍の軍使2名が現れた。ソ連軍の将校も兵士も一斉に走り出て、彼らに祝意を示した。独ソ両軍で降伏に関する文書が作成されて署名が済むと、ソ連兵たちはコニャックで祝杯を挙げた。ロシア人たちは一気に飲み干したが、この1週間ろくに食べていなかったドイツ軍の軍使は用心深くほんのちょっぴりしか飲まなかったのを見て大笑いし、グラスに注ぎ足してこう叫んだ。

戦争はお終いヴァイナー・カプート!」

 帝国議事堂ライヒスタークの内部では、凄惨な戦闘が続いた。埃と煙が立ち込める中、疲労と渇きに苦しみながら、独ソ両軍の兵士は戦い続けた。撃ち合いは午後遅くまで収まらなかった。地階のドイツ兵たちが高級将校と交渉したいと叫んだ。ネウストローエフ大尉はベーレスト中尉に「大佐になりすませ」と言いふくめ、肩章が見えないように羊の毛皮外套を着せ、軍使として送り出した。まもなくドイツ兵が地階からぞろぞろ出てきた。髭ぼうぼうの薄汚れた顔。軍服はボロボロ。怯えた眼つきで辺りをキョロキョロ眺めまわし、「従順な犬みたいにニヤニヤ笑って」いた。300人ほどの敵将兵が武器を捨てた。

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