[5] 開戦前夜

 ベルリンがオーデル河沿岸のソ連軍の攻撃を待っていた4月初旬、市内の雰囲気は熱病に取りつかれたような脱力感、恐怖、絶望が入り混じっていた。狂信的な決意に燃えているのはいかなる形にせよ、降伏すれば処刑されると信じているナチ党員だけだった。

 市民は不吉な予感を覚えながらも敵の襲来に備えた。女性たちには拳銃の射撃訓練が実施された。義勇兵として駆り出された国民突撃隊はすでにレンガや割れたガラスが散乱する道路を塞ごうとして、バリケードの構築に勤めていた。石や瓦礫をいっぱいに詰め込んだ路面電車や貨物列車が市内の要所に配置された。道路の敷石も剥がされた。パンツァー・ファウストで武装した男たちや少年たちが籠るために、1人用の蛸壺壕も掘られた。

 不必要な破壊行為を阻止しようとする動きもあった。ヒトラーは3月19日に「焦土命令」いわゆる「ネロ指令」を発した。鉄道をはじめ橋や工場、上下水道、ガス、発電・送電施設を全て破壊せよという指示だった。軍需相シュペーアはこの命令を批判した。反撃によりその奪還がいまだ可能な施設を破壊しようとする行為は逆に敗北主義の現れであるとして説得しようとした。ヒトラーは批判に耐えきれずシュペーアを軍需相から罷免としようとしたが、シュペーアがこれまで通り恭順する姿勢を見せた。ヒトラーはシュペーアの心変わりに感動し、焦土命令の実施権限を軍需相に付与をすることに同意した。

 ベルリン防衛の責任はヴァイクセル軍集団司令官ハインリキ上級大将に委ねられた。ハインリキとシュペーアは出来るだけ多くの橋の破壊を防ぐ方策を考えた。ベルリン防衛地区司令官ライマン中将は市内の全ての橋を爆破しようと計画していた。そこで、シュペーアは再び敗戦思想の件を持ち出した。シュペーアはライマンに「あなたは勝利を信じますか?」と質問した。ライマンは「いいえ」と言えなかった。シュペーアはハインリキの妥協案を取り入れて赤軍の進撃方向に面した一番外側の橋を破壊するに留め、都心部の橋には手を付けないよう説得した。

 ベルリン攻撃はいつ始まっても不思議ではない状況だった。ヴァイクセル軍集団司令部が4月6日に記した戦闘日誌には「第9軍正面の敵の動き活発。キュストリン南西ライトヴァイン方向および北東キーニッツ近傍にエンジン音と戦車のキャタピラ音あり」とある。攻撃開始は2日以来と判断された。しかし5日が経過しても、ドイツ軍はまだ待機中だった。

 4月12日、ヒトラーはクレープスに命じてヴァイクセル軍集団司令部に電話をかけた。クレープスはハインリキに「敵の攻撃は一両日中、すなわち4月13日または14日」という総統の直感的判断を伝えた。1年前にもヒトラーは連合国軍のノルマンディー上陸の正確な日時を予言しようとして失敗していたが、今度も超自然的な予見能力を見せて崇拝者どもを驚かせようとした。

 4月14日、ヒトラーの予言は外れて敵は攻撃してこなかった。待機中のヴァイクセル軍集団に「日々命令」が発せられた。それは任務完遂を果たせぬ者は「国民に対する裏切り者」として扱うことを強調していた。歴史を歪めて描き出し、トルコ軍によるウィーン包囲の故事を引き合いに出した。「今回もまた、ボリシェヴィキは古のアジア人の運命をたどるであろう」実際にはウィーンは前日―4月13日に陥落していた。奪回の望みは皆無だった。

 オーデル河西方に位置するゼーロウ高地では散発的な攻撃があるだけで静かだった。高地の塹壕に立てこもるドイツ軍の若い訓練兵たちは兵器の点検、食事、洗濯に時を過ごした。時おり東方から戦車のエンジン音を耳にした。ソ連軍は拡声器を使用して、音楽と宣伝文句を最大音量で流し続けていた。

 ドイツ軍のある中尉が塹壕にいた。彼は通信兵や衛生兵といった特技兵を戦闘員に鍛え上げる速成訓練中隊を任されていた。中隊付き特務曹長とともに、中尉は眼下の林の向こうに広がるオーデル湿原と攻撃発起が予想されるソ連軍の陣地を見つめていた。一瞬身震いした中尉が曹長に声をかけた。

「どうだ、お前も寒いか?」

「自分は寒くありません、中尉殿。ただ、怖いだけです」曹長は答えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る