あの子の扁桃腺
あきたけ
第1話 前編
始まりは、僕らが文芸部の部室で、たった二人きりとなった時だった。
静かなこの部屋に古めかしい本の香りが漂っている。
空調の音が微かに聞こえる。カーテンの隙間から差し込む太陽の光が、ホコリに反射してふわふわと映している。
「ねえ、人間の体内って、魅力的だと思わない?」
少女は僕の瞳を見つめながら囁くようにそう言った。
「体内……例えば?」
「例えば扁桃腺」
高校二年生の春の季節の事だった。
僕は文芸部に所属していて、この日は部活が休みだったのだけれど、特にするべきことも無かったので、僕の足取りは自然と部室に向かった。
いつも部室には彼女がいる。彼女は色白で、華奢で、セミロングの黒髪がとても美しかった。今その手には『人体の不思議』をテーマとした本が握られている。彼女は本にしおりを挟んで、机に置いて、こう言った。
「そう。扁桃線」
少女が扁桃腺について語るとき、その表情には必ず深刻なものが映った。
彼女の扁桃腺は大きい。
そのおかげで小さい頃からたびたび熱を出して寝込んだ、という話を僕は何度か聞いているその度に「ああ、気の毒だなぁ」と僕は言うのだったが、彼女にとってはもう慣れっこという事らしい。
これは彼女に限った話では無いのかも知れないし、それが大きいおかげで熱を出す人というのも全然、珍しくないのかも知れない。
けれども僕はそんなありきたりな話ではない、もっと別の衝撃を彼女の扁桃腺から見出す事になる。
きっかけは、この日。
少女との対話を通してこの世界の、あらん限りの煽情的リアリズムを経験する日。
彼女は一言「私って、扁桃腺が少し大きいじゃない」
と言った。
「口の中にあるモノだから、分からないよ」
と、僕は言う。
「そっか」
彼女はまた少し悲しい顔をした。彼女は、その瞳の奥に何か悲惨なモノを隠しているようそれを目の前の信頼できる男子に打ち明けてしまいたくてたまらないような、そういう深刻な表情をしているのだ。
「扁桃腺」
僕は、その単語を噛みしめるように一言声に出して呟いた。
「聞きたい?」
彼女の声のトーンが上がった。前のめりになって、僕のことを真剣に見つめた。
この可憐な少女に見つめられて、僕はゴクリと唾を飲み込んだ。
「君の扁桃腺が、どうかしたのかい?」
「……驚かないでね。私の扁桃腺は、人より少し、大きいの」
その時、顧問の先生がいきなり部室に入ってきて、換気のために窓を開け放った。暖かい風がこちらの方に吹いてきて少女の髪の毛をふわっと揺らした。その髪の柔らかな匂いが僕の鼻から肺へと伝わり全身をかけ巡った。
彼女は先生が入ってきた事に驚いて、目をギョッと大きく見開いた。先生の事を睨んでいるようにも思われた。
「どうしたの」
僕は、尋ねた。
「なんでもない」
そのうち先生は、あと三十分で部室を閉めるということを言って、出て行ってしまったのでまたこの部屋は二人きりの空間となった。でも、窓が開け放たれていたので、外から車の音とか、廃品回収車の声とかの雑音が入り込んできた。
「ねえ。私の扁桃腺、大きくてさ。ベロで触る事もできるんだよね」
少女の声はなぜか非常に慎重だった。
「扁桃腺って、ベロで触れるものなの?」
「のどちんこの横に、出っ張りがあるの。喉に力を入れると、扁桃腺が口の方へ動く」
彼女はそんな事を言う。僕は試しにベロを喉の方へ動かしてみた。言われた通りに。のどちんこは、存在する。少し力を入れてベロを横に動かす。ひだのような物にベロがふれる。でも、扁桃腺を触る事はできなかった。仮に、熱を出して扁桃腺が腫れていたのなら、もしかすると少しは触れる事が出来たのかもしれない、と僕は思う。
「そうだね。まだ、僕は触れないかな」
「私が特別なのかもしれない。世の中には、目玉を飛び出させたり、刀を飲み込んだり一度飲み込んだ飴玉を、いくつも好きな種類を戻したり、できる人がいる」
「それで君の場合、扁桃腺を」
「触れるだけじゃない。口の中に、移動できる……本当よ」
僕は「まさか」と否定しかけたけど、それはやめた。彼女は、彼女自身の人体の不思議を、自分だけに打ち明けてくれたのである。このように奇怪な現象を他人に打ち明けるというのは、多大な勇気が必要だったのだろう。 そう僕は思った。
「……それは、すごいね」
僕は一言だけそう言って、会話を終わらせようと思った。
「……ねえ」
「ん?」
「信じていないでしょう。私の事」
彼女がそんな事を言って僕の事をジッと見つめたので少し驚いた。僕は頭ではそういう事があるかもしれないと理解していたのであるが、心から信じているとはとても言い難かった。
それは今、目の前で前髪をなびかせている可愛らしい少女が、その清らかな口から、大きな扁桃腺を「オエッ」と吐き出すさまを、想像できなかったから。
「……いや、信じていないというか、頭では理解できているんだけど、なんていうか、実際に見てみないと、分からないでしょ?」
「そうね。それは確かにそう」
少女はそう言って目を反らした。でもその表情は、決して嘘をついているようには見えない。むしろ口から扁桃腺を取り出す、というあり得ない出来事を、実際にやってのけてしまうのだ、というある種の諦めと、落胆のようなものを僕ははっきりと感じ取った。
「できるの? 扁桃腺」
僕は言った。すると窓から、数人の男子生徒たちの大きな笑い声が流れ込んできた。その声は、まだ遠いところにあるな、と僕らは理解していたと思う。
部室は職員室の奥の方にあったので、この場所へ足を踏み入れる生徒はあまりいない。
「……できるよ。今、すぐにでも」
少女はより一層、真剣な表情をした。
そうして唇を少し開いた。彼女の唇を見るとき、僕は決まって見とれてしまう。それは彼女が解き放っている美しさであり、艶やかさであり、そして芸術であり、愛だった。
「んーーーー」
彼女は喉の奥から声を出している。その音は、声というよりはむしろ機械音に近かったが、可憐な音色とその旋律は、ただ部室に反響する。
その時、彼女の口の中に、ほんのわずか、ピンク色の粘膜のような物体が見えた。
その時だった。
部室を叩くノックの音が聞こえた。その音にギョッとして二人は、扉の方を見る。
入って来たのは先生だった。二人は、この場面を見られたかな、と思い血が凍るような思いをした。
「……学園祭の冊子、早めに頼むな」
「ええ。分かっています」
少女がそう返事をすると、先生はすぐに部室を出て行ってしまったので、またこの部屋は二人きりになった。
「ねえ。ここで見せるのは、人が入ってきた時にリスクが大きいの。どこか別の場所に移動しようよ」
少し焦った表情でこう言った。彼女は、自分の扁桃腺の秘密を人に知られてしまう事が怖かったようである。これは彼女のプライベートの問題なのだ。
「確かにそうだ。そうだよね……一階の多目的トイレはどうかな。中から鍵を閉めれば誰にも入られない。入る所と出る所を見られさえしなければ、大丈夫だと思うけど」
「うん。良いと思う」
少女は頷きながら少しだけ顔を赤らめた。それを見た僕は、自分と二人きりで多目的トイレという密室に入る事がそんなに恥ずかしいのかな、と思った。
けれども、僕はそんな事よりも、目の前の少女の扁桃腺の神秘を、ぜひこの目で見たいと感じていた。どのような人体の不思議、どのような煽情的な気持ちを感じられるか、それが僕にとっての一番の問題だった。
そうして僕らは移動する。
一階の多目的トイレは、もう長い間使われていなくて、古めかしい。僕が扉を開けるとハイターの匂いがした。僕は電気を付けて中を見る。
多目的トイレには赤ちゃん用のシートが取り付けてあって、鏡があって、非常に広々としていたけれど、少しうす暗い。
「……入って、鍵をしめちゃおう?」
少女が素早く扉を閉めて、ガチャリと鍵をかけてしまった。この不気味な空間にはもうすでに、僕と彼女がタッタ二人で立ち尽くしているばかりであった。
「……これからどうしよう」
僕は言った。その言葉が、多目的トイレの全体に反響する。
「座ろう?」
彼女がそう言ってスカートの裾を気にしながらその場でしゃがみ込んだから、僕も同じく地べたに座った。
「まず、喉に力を入れるの」
彼女はいきなり、自分の扁桃腺の取り出し方を教え始めたので、少しギョッとした。
もう始まるのである。僕が今まで一度として拝見したことの無い彼女の扁桃腺を、今、この瞬間に感じることができるのである。それは生命の神秘であり、不可解な現象であり、そして何よりも少女との心の距離を縮める最高の機会であった。その僕の食い入るような視線を感じたのか、彼女はより前のめりになった。うるうるとした瞳が、僕の事を覗き込んでいる。
「んーーーー」
また始まった。
彼女の喉の奥から発せられるこの声は、どことなく不気味であり、妖艶であり、かつ狂気的でもあった。少女のあまりにも斬新な行為は、少年の目を釘付けにした。特に、先ほど彼女の唇から一瞬だけ姿を見せたピンク色の物体が、もしかすると彼女の扁桃腺かもしれないという直感は直後、的中する事になる。
見えた。
彼女の口から、扁桃腺がダラリと垂れ下がっている。細かいデコボコがあるそれは、少女の唾液と絡まり合って糸を引いている。
彼女は、少し俯きながら、前髪を垂らしながら、口元を気にしながら、喉の奥のヒダで繋ぎ止められていると思われる扁桃腺を口から取り出している。僕は、このような事が現実に起こって良いのだろうかと不思議に思った。一体、彼女は扁桃腺を喉の奥から取り出して、何がしたいというのだろうか、という疑問に駆られて非常に困惑した。
艶めかしく輝く彼女の扁桃腺を目撃して、現実世界にはびこる常識という観念を根底から疑った。それぐらい常軌を逸していると考えられる現象だった。僕は見事に動揺し、脈拍は上昇し、通常では考えられない事態に恐れおののいた。
しばらくこの奇妙な状況は続いた。少女は飛び出したままの扁桃腺を覗かせながらニヤリと笑った。その笑顔は、僕を大いに動揺させた。気を動転させた。
自分の呼吸が乱れるのを感じた。でも、それは彼女に気づかれてはならない。そもそも扁桃腺を見てみたいと言ったのはこの僕なのだ。ここで取り乱すというのは、男としての恥を意味するのだと、動揺を必死で隠した。
すぐに扁桃腺は、彼女の口の奥へとまた戻っていったけれど、そのあまりにも艶めかしい残像が僕の瞳の奥へと張り付いて取れなかった。
「分かった? これが私なの。これが私のアイデンティティー」
少女は強めの口調でそう言った。
「始まりは、小学校2年生の時だったの」
彼女は、僕の瞳から少し目を反らしたまま、過去の話を始めた。
「のどちんこ、ベロで触れる? って男子たちがその話題で盛り上がっていたの。その時は、みんな触れるとか触れないとか話していて、私も混ぜてほしかったけど、男子だけだったから恥ずかしくて、それで一人の時に、のどちんこをベロでさわれるか試してみたの」
「……それで? 触れたの?」
「そのとき、私がベロで触ったのは、喉ちんこじゃなかった」
「なるほど、そのときに触ったのが」
「そう、扁桃腺だった」
多目的トイレの中に、僕らの話し声が反響している。
彼女は再び、自身の思い出話しを始める。
「それから私は、喉に力を入れると、扁桃線が少し動く事に気がついたの。毎日、毎日、親とか、兄弟とか寝静まったあと練習した。それで、だんだんと、口の中に移動できるようになった」
「……そうだったんだ」
しばらく多目的トイレには沈黙があった。そこにはただ換気扇の音が低く鳴るだけだった。気まずさに耐えられなくなって僕は言う。
「ありがとう。今日は扁桃腺を見ることができてうれしかったよ」
そう言うと彼女は微笑んだ。
「ありがとう」
それで今日は解散となった。僕は帰り道、ずっとあの子の扁桃腺の事を考えていた。僕が見たあの扁桃腺は本当に彼女のものだったのか。何かの手品ではないのだろうか。でも僕には、どうしても彼女が嘘を言っているようには見えない。たぶんあれは本当に彼女自身の扁桃腺なのだ。
まるで神秘体験だ。
ありえないものを見てしまった動揺は、いつまでも心に糸を引いて消えなかった。
目に映る景色はぜんぜん変わらなくて、町を歩く人々の雑踏も、暖かい風に揺られる街路樹も、仁王立ちした自販機も、赤ばかりの信号機も、まったく同じ表情なのに、僕の心だけが脈打っていた。
恐怖にも似たトキメキを感じるうちに、いつしか僕の中で、あの子は神聖な存在になっていた。あの子は、人間の体内って神秘的だと思わない? と聞いてきたが、神秘的なのは彼女の存在そのものだった。
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