「打ち言葉」って何だ?
2024年03月01日
どうも、あじさいです。
主に古典的な文芸や論考を扱い、文字が小さいイメージがある岩波文庫や、(近年は)赤い表紙が特徴で、学者が小難しいことを論じている岩波新書。
それらを出版している岩波書店には、『世界』という月刊誌があります。
感覚としては新聞と学術雑誌の中間、と言ってよいと思います。
学術論文ほど厳密ではないにせよ、学者やジャーナリストが書いた、一般人にもある程度分かりやすい形の短い評論文を集めているようなイメージです。
恥ずかしながら、筆者はこの歳になるまで読んだことがなく、つい最近になって、自民党政治や能登半島地震などについて考えたいと思い、何冊か買って読み始めました。
どの記事も興味深くて、とても面白いです。
たとえば、芥川賞受賞作が掲載されるという理由で筆者(あじさい)がごくたまにだけ買う月刊誌『文藝春秋』の場合、読み応えがある記事も複数ある一方で、ドン引きするくらい前時代的な本音エッセイや、いかにもテキトーなことを言っている人たちの対談記事なども載っているので、1冊を通して全てが面白いと思える人は少ないと思います。
一方、『世界』の場合は、「天地がひっくり返ろうとも、自民党に対する不満や批判は一切受け付けない」というスタンスの人以外は、どの記事も――書店では手に取らないようなタイトル・テーマの記事であっても――知的で刺激的な論考として楽しめるはずです。
ところで、近況ノートでお騒がせした通り、筆者は昨年、てっきり友好的な関係を築けていると思っていたカクヨムユーザーの方から、突然ブロックされた上にエッセイで陰口まで叩かれて面食らったことがあったのですが、この不可解な一件を
今このエッセイを読んでくださっている皆さんにとっても、カクヨムでのコミュニケーションの参考になる話だと思います。
(これが、前回のエッセイで本題にしたかったトピックです。)
以下、大澤聡「意見が嫌われる時代の言論」(『世界』2024年1月号、岩波書店)の議論を、本文を引用しながら見ていきます。
なお、大澤氏のこの評論は、三木清という昔の哲学者が1933年に書いた「新聞の影響」というエッセイを参照しています。
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このあたりは拙著『教養主義のリハビリテーション』(筑摩書房、二〇一八年)の第4章でも解説しましたが、ようするに「精読・遅読」から「多読・速読」へと人びとの読書スタイルがおおきくターンした。その速読や拾い読み、「速く読むこと」を要求する典型が「新聞」だと三木はいっているわけです。(p.27)
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実際に読む速度が上がっていくというよりは、時代を下るほど、「多読・速読」の読書スタイルが求められていく傾向があるという話のようです。
三木清の時代は新聞の台頭、我々が生きる21世紀にはインターネットやSNSの普及がその傾向を強めています。
続いて、大澤氏はLINEでのコミュニケーションが、文字のやり取りであるにもかかわらず、「実際に話すかのような」性質を強く持っていることに着目します。
LINEは「多読・速読」の1つの究極形だ、というわけでしょう。
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ところで、最近の若いひとはLINEで句点「。」がついたメッセージをうけとると、相手が怒っているのではないかと不安になるとか。ここ数年、ネットでそのことが話題にのぼるたび学生たちにおそるおそる質問してきたのですが、どうやら本当らしい。
彼ら彼女らの画面をのぞかせてもらうと、なるほど、一文や一語を細切れにぽすぽす連投するのがデフォルトになっている。とすれば、文と文の切れ目をしめす記号など不要でしょう。そんな画面に句点が顔を出せば、わざわざ「。」を打ち込んだという意志としてうけとられる。そして、その意志はいかにも文書っぽいフォーマルな装いだとか敬語だとか、つまりは相手と一定の距離を置くというメタ・メッセージとして瞬時に解釈されてしまう。(pp.27-28、傍点は引用者による)
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LINEの末尾に句点「。」を打つと怒っているような印象になる(だから代わりに「!」を使うべき)という話は聞いたことがありましたが、理由は考えたことがありませんでした。
筆者からすると、文末に句点「。」を打たないでいる方が気持ち悪いのですが、そこから(勝手に)他人行儀な印象を受け取り、ストレスや不安感を覚える人もいるのですね。
目から
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短文による連投の作法をもちあわせない人間は、なるべくすくないラリーで用件をすませるべく、つい長ったらしい文章を一度に送信する。とうぜん句点を多用して。(略)
表面的には同一のメディアを使用していても、まったく異なるリテラシーがそこには併存しています。一方には、リアルに会話しているかのような時間の共有、つまり既読機能に強迫された速度重視のレスポンス(即レス)を基本とするコミュニケーション、他方には、手紙やメールの延長で、相手にいつ読んでもらってもかまわないという、時差を前提とした正確さ重視の遅延するコミュニケーション。ふたつのリテラシーのすれちがいがあります。
前者の文脈へまとまった分量のテキストをどかっと送信すれば、こちらのいいたいことだけ「押しつけ」(三木)ていると見える。はいはいマウンティングですね、と。(p.28)
LINEは言葉が漫画の吹き出しのなかに表示されます。あのレイアウトが象徴するとおり、口頭でしゃべっている感覚にちかくなるよう演出された文字メディアです(書き言葉とも話し言葉とも異なる独自の規則性があるというので「打ち言葉」と呼ばれることもあります)。(p.29)
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「多読・速読」を突き詰める時代にあっては、文章のやり取り全般において、短くて速いコミュニケーションをくり返すことが好まれ、長くて遅いコミュニケーションは嫌われる傾向が強くなる、ということですね。
時代の流れがそうだとはいえ、LINEを多用する人とそうでない人のように、どんな文章を前提とするかは、人によって、そしてTPOによって、異なります。
そのため、認識に差がある人同士がコミュニケーションを取ろうとすると、不要なすれ違いや
筆者(あじさい)が
それに対し、筆者は「正確さ重視の遅延するコミュニケーション」を前提として、長い文章のやり取りを
そのことが、筆者が先方に煙たがられ、ブロックされた原因だろう、と推測できます。
恥を忍んで正直なところを申しますと、筆者は心のどこかで、LINEでもカクヨムでも、「長文を、長いというだけの理由で嫌う人」は、ろくに本を読んだことがない、何なら国語の授業をまじめに受けてこなかったような、母国語の文章、もっと言えば文字を、読んだり書いたりすること自体が嫌いな、はっきり言って学がない人々なのだろう、と思ってきました。
ですが、違ったわけですね。
求める文法が違うだけ。
カクヨムをどんな場と捉えるかという、TPOについての認識が違っていただけ。
先方の知性とは関係がなかったわけです。
……なんという悲劇でしょうか。
とはいえ、どちらがどちらに合わせるべきかは、難しいところだと思います。
最近の若者はこうだ、最近はこう考える人が増えている、などと言ったところで、新しいものを何でもかんでも礼賛して思考停止するのでもない限り、古いタイプの人間が新しい潮流に合わせるだけが「正しい」とは限りません。
それに、人間それぞれの価値観や自己実現、それらの多様性を尊重していくことが幸福な社会を作る
もちろん、やたら話が長い人、中身のない話を延々とする人は困りものですが、とはいえ、長い話を面倒くさがって、何でもかんでも手短に済ませようとする人もまた、信用ならないと思います。
ごくごく表面的な言葉のキャッチボールをくり返すだけの関係は、もしかすると心地よいかもしれませんが、それは結局、「自分を不快にする他者の存在は許さない」、「自分を不快にする人間とは縁を切る」という不寛容さ、独善性、幼稚性につながっていくのではないでしょうか。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。
前回のエッセイを投稿してから気付いたのですが、冒頭の1文を「○○には三分以内にやらなければならないことがあった」にせよという指定に対しては、「やらなければならないこと」の内容を長くするという方法でも対処可能ですね。
「○○には三分以内にやらなければならないことがあった。Aを片付けて、Bを見つけ出した後に、Cを修理して、Dに届ける。その全てを三分以内にやらなければならないのだ」
といった書き方です。
筆者の発想力が貧相だから制限が多いように思えただけで、案外、攻略法はいくらでもあるものなのかもしれません。
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