部分よりも全体、技術よりテーマ。

2023年10月19日


 どうも、あじさいです。


 公式からのお知らせによると、カクヨムのアプリに、指定したユーザー(10人まで)の作品をミュート(相手に知られずに非表示に)する機能が追加されたそうです。

 https://kakuyomu.jp/info/entry/mute_app

 強制的にランキングと下品な文言を見せられるのが嫌で、筆者は久しくカクヨムのアプリを使っていませんが、このアップデートは嬉しいです。

 嫌なタイトルを見なくて済むのも便利そうですが、誰もミュートしないにしても、この機能の存在自体が書き手に対してプレッシャーを与える点が良いですね。

 タイトルやキャッチコピーに変なことを書くと、ミュートされて、他の作品まで読まれなくなるかもしれませんよ、ということです。

 運営によると、

“ミュートした方の「応援コメント」、「おすすめレビュー」、「近況ノート記事」、「近況ノート記事コメント」、「ギフトコメント」などは非表示になりません。”

 とのことで、相手とコミュニケーションする可能性がある場合も安心です。




 もしかすると筆者もミュートされる側かもしれませんが、筆者の作品がランキングにることはめったにないので、特に痛手にはなりません。

 また、今回のミュート機能では応援コメントが非表示にならない以上、なんちゃって校閲者の筆者を退けることはまだ誰にも出来ません。


 前回、前々回と、筆者は折に触れて自分の作品を見返していると言いましたが、それは他人様ひとさまに送った応援コメントの場合もそうです。

 カクヨムはブラウザでログインすると、ダッシュボードからすぐに自分が送った応援コメントにアクセスできるので、その点の振り返りやすさもあります。


 自分で自分のコメントを見返していて思うのですが、筆者(あじさい)って控えめに言っても「変態」ですよね。

 仮にも「応援コメント」なのに、こんなに神経質で、厚かましくて、批判的なことを長々と書いているヤツ、他にいませんよ。




 最近になって自分の応援コメントについて気付いたことが2つあります。

 1つは、長文のコメントが他の読者によるコメントを抑制してしまっているのではないかということ。

 ジンクスみたいになっているとしたら非常に不本意ですが、筆者が長文のコメントを送った作品は、その後、他の人からのコメントが書かれない傾向にあるかもしれません。

 もしかすると、皆さんには「何を今更……」と思われるかもしれませんが、筆者としては、「作品に対して他の人がどんな応援コメントを書いてきたかを気にする読者はあまりいない」と思っていました。

 筆者の場合、長文のコメントを送る前に、「すでに誰かが言った事と重複していないか」とか、「この書き手さんはコメントを迷惑がらないタイプの人か」といったことを確認するのですが、普通の読者はそんなこと気にしない(気にする理由がない)のではないか、と。

 だから、コメント欄をにぎやかにすることがプラスに働くことはあっても、他の読者を遠慮させることはないと考えていたのですが、もしかすると、考えを誤っていたかもしれません。


 究極的には人による、また作品にもよると思いますが、最近はそういうことで、いかにも“なんちゃって校閲者”らしい長文は送らないようにしていて、たまに送る場合も、書き手さんの近況ノートに書くことが増えています。

 とはいえ、この方針には迷いもあります。

 魅力的な作品を読ませてもらっておいて改善点を指摘しないのは落ち着きませんし、作品とあまり関係ない場所にネタバレ込みで色々書くのも変な感じです。




 気付いたことの2つ目は、評価でも批判でも、読み方の傾向が全体の流れより部分ごとの整合性、テーマ性より技術面にかたよりがちということです。

 たとえば誰かと映画を観た後に感想を言い合う場合、皆さんの多くは、部分ごとの整合性より全体の流れ、技術面よりテーマ性のことを話すと思います。

「あのシーンで××が……するのはカッコ良すぎるよね」

「アクションシーンの迫力が凄かったよね」

 といった話にしても、そこに至るまでの積み重ねを前提にした上で、特に印象的なシーンを称賛することによって、作品全体を評価しているのだと思います。

 積み重ねを前提にしない場合、それはたとえば、「あのシーン良かった」、「アクションシーン良かった」といったような、どこかネガティブなニュアンスを含むことになると思います。


 そう、多くの人が創作物の感想を述べるときは、部分ごとの整合性より全体の流れ、技術面よりテーマ性を語るに違いないんです。

 特に好意的に評価するときは、部分ごとの問題、技術面についての違和感は問題にならない、気にはなっても(一緒に見た人の前で)指摘するほどではないという前提で、おしゃべりをするはずです。

 ……というか、普通、物語を楽しむときはあまり細かいことを気にしないものだ、と言ってしまって良いかもしれません。


 それに引き換え、筆者はいつも細かい話や技術的な話ばかり。

 しかも、技術面の話といったところで、プロットの組み方や感動シーンの作り方などではなく、単に誤字脱字がどうだの日本語文法がどうだのと、あし取りのような話ばかりです。

 書き手の皆さんとしては、もっと別のところを見てほしいはずですから、筆者のコメントは目障めざわりに違いありません。


 筆者自身、褒める技術をもっと高めたいのですが、物語を褒めるのって意外と難しいんですよね。

 言語化する努力はしていますが、正直なところ、本当に面白いものに対しては「面白い」、本当に良かったものには「良かった」以外のことは言いにくいです。

 筆者ごときが感想を述べること自体が野暮に思われることもあります。

 ちまたで言う「語彙ごい力をうばわれる」とは、ああいう感覚を言うのかもしれません。

 ただ、それでは文字数が増えず、書き手さんの印象には、コメントの批判的な部分の方が強く残ってしまうに違いありません。


 創作物の中では、肝心なシーンほど「言葉がなくても目を見れば分かる」とか、「彼/彼女の無言の表情が全てを語っていた」とかあるものですが、カクヨムを含むインターネット上のコミュニケーションでは、そういう非言語的ノンバーバルなものが全て捨象しゃしょうされます。

 筆者としては、「言葉のやり取りだけで『分かり合う感覚』を得るのはこんなにも大変なのか」と思い知らされる日々です。




 ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。


 ここまで書いてふと思ったことですが、「人と人とは分かり合えるのか」という普遍的なテーマを扱う物語は、古今東西、いくらでもあるものです。

 ですが、結局のところ、それらはどれも「登場人物たちの場合は分かり合えた/分かり合えなかった」という個別的な話に落ち着くしかありません。

 となると、そういう物語の意義は、誰もが納得できる普遍的なゴールがではなく、ゴールを人それぞれ異なる個別的なものとした上で、そこにたどり着く道はを示すことにあるのではないかと思います。


 今回の話に引きつけて言えば、1回の応援コメントで思いを100%正確に伝えることに固執こしつする以上に、分かり合うためのコミュニケーションをまず始めてみること、そして続けていくことが、大切なのかもしれません。

 ……ずいぶんと、筆者のような人間に都合のよい、手前勝手な考え方のような気もしますが、おそらくそこまで大きく的を外してはいないのではないかと思います。

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