しいて言えばハリポタの話。

2023年08月27日


 どうも、あじさいです。


 エッセイで話題にしたのでなつかしくなって、久しぶりに拙作『蓬莱島ほうらいじまの人魚』を読み返してみたら、1ページ目から消したはずの箇所が残って変なことになっていて、きつい酒を飲んだ直後みたいなため息が出ました。


 筆者は作品を投稿するとき、一旦MicrosoftマイクロソフトのWordで草稿を書いて、それをカクヨムにり付けた後、カクヨムのページを見てWord(記録用)とカクヨム(投稿用)の両方に修正を加え、予約投稿の時間までそれをくり返すのですが、片方だけ修正して他方の修正を忘れることがちょくちょくありまして、これもそのパターンなのだろうな、と思います。

 変な状態でご覧になった皆さんにはお分かりのことと思いますが、こんなことでは1ページ目で切られてしかるべきです、情けない!


 誤解がないように言っておきますと、色々と言い訳したいことはあるものの、作者としてこの作品に愛着がないわけではありませんし、単に自主企画に合わせてテキトーに書いただけ、なんてことも一切ありません。

 筆者自身は基本的に下ネタが苦手ですし、読み進めていたWeb小説でオヤジギャグのように自己満足的なエロ要素を見かけると嫌な気分になることが多いですが、とはいえ、世間の人間のほとんどには何かしらの性的欲求があり、社会にはそれに即した共通認識やジェンダー秩序があるもので、その描写を避けると人間の現実リアルは書けないと思っています。

 そのため、実は筆者が書いた作品にはかなり頻繁ひんぱんに、性の問題やそれにまつわるトラブルが出てきます。

 拙作『蓬莱島ほうらいじまの人魚』にしても、主人公ナオトくんが人工島『箱舟はこぶね』に生きている少年であるからには、人魚を見たときにそういうことを考えるのが現実的リアルなわけですし、そんな少年と、即物的な意味でのエロティシズムを感じさせない人魚の少女ロモルとの距離感が、ある意味でこの作品の主要テーマなのです。

 もちろん、頑張ればR15ではなく全年齢対象にできた可能性もありますが、それはやっぱりちょっと違うんですよ。

 あの場面であの人物がああなのは必然ですし、それがああなったときに経緯をすっ飛ばして喜んで許してしまうというのが、あの状況で生きる少年のリアルなはずなんです。


 筆者はハリポタのファンで、並みの飲み会ならハリポタの話に持ち込んで乗り切れるくらいには、しゃべり始めたら止まりませんが、あえて言いますと、それでも不満なことが2つあります。


 1つは、作品全体のテーマが「人はいかにして死を克服するか」であるにもかかわらず、「死に恐怖する人」をえがかなかったこと。

 本当は、「グリフィンドールは気高くて勇猛果敢ゆうもうかかん、死をも恐れない」で片付けるのではなく、普段は毅然きぜんとしている人物――たとえばムーディなど――が、いざ自分が死にそうという時になると命乞いのちごいを始めたり、敵の前で仲間たちの内情をペラペラ話してしまったりする場面が必要だったはずなのです。

 絶対に死にたくない、死なずにむなら生き恥をさらしてもいい、誰を裏切っても自分だけは生きびたい――そういう切実な思いがあって初めて、「死の秘宝」を求めてきた人々の想いに説得力が生まれたでしょうし、例のあの人がそれを追いかけることの「ヤバさ」が感じられたことでしょう。

 第7巻になってダンブルドアが信用できないという話を出すなら、他の大人たちもダメだということを書いても問題なかったと思いますが、そこはやはり、J.K.ローリング氏の良心と作品愛が出てしまったのでしょうね。


 話を戻しますと、もう1つの不満は、そうです、思春期の少年少女の物語なのに性の問題をほとんど全くと言ってよいほど書かなかったことです。

 もちろん、ハリーが第4巻(14、15歳)くらいでいきなり、ダドリーが川原で拾ってきたエロ本をながめたり、ハーマイオニーやチョウ・チャンの胸をガッツリ見ていたりしたら、それはそれで引いてしまいますが――いや、多少引かれてでも、それを示唆する描写くらいは入れた方が良かったのではないかと思います。


 性を描かないことの何が問題かと言うと、ロンとハーマイオニーが繰り広げるドタバタ劇が、端的に言って意味不明になるということです。

 ネタバレも何もないと思うので言ってしまいますが、ロンとハーマイオニーは第1巻あるいは第2巻の時点でお互いを異性として意識し合っていて、それは第6巻でハリーが述懐しています。

 にもかかわらず、ハーマイオニーは第4巻で他校の男子クラムと、ロンは第6巻で同じ寮の女子ラベンダーと、恋仲になってキスします。

 ついでに言うと、第6巻でロンの恋愛模様に怒ったハーマイオニーは、ロンが激しく嫌う同学年の少年マクラーゲンからのアプローチに応えて、形だけではあるものの恋人関係になります。

 この間、ロンとハーマイオニーはお互いを特別な存在として意識し合っている状況なのです。

 何だ、それ? という話ですが、そうなっているのは、この年頃の少年少女と性の問題をきちんと書いていないからです。

 別に、誰かと誰かがベッドインしていたなどという裏設定は必要ありませんが、本人たちがどんな精神状態で恋人を求めていたかは、描かれる必要があったはずです。

 つまり、このドタバタ展開を描くなら、ハグでもキスでも、恋人との身体接触ボディ・タッチによって別種のストレスを解消したり、自尊心に関するいやしを疑似体験したりするという要素が、欠かせなかったに違いないのです。


 さらに言いますと、第7巻でハリー、ロン、ハーマイオニーの3人で旅をしているとき、ロンがハリーとハーマイオニーの仲を疑って離脱してしまう場面のためには、ロンにとってハーマイオニーがどれだけ魅力的な恋人であるか、彼女を失うことが彼の自尊心(あるいは存在証明アイデンティティ)にどんな影響を及ぼすかということを、もっともっと切実な問題としてえがく必要があったと思います。

 そうでないから、第7巻のロンはただの駄々っ子のようになっていますし、ロンの劣等感に対してハリーはどこか突き放しているような、「君はもっと大人だと思ってたのに、残念だ」とでも言いたげな感じがあるのです。


 念のために付け加えますと、性的欲求やそれに付随する欲望に素直な人物の方が「良い」、という話ではありません。

 人間の弱さというか不完全性というか、そういう現実的な側面の描写として、性にまつわる要素やその描写が必要になってくることがあるのではないか、という話です。




 ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。


 拙作『蓬莱島ほうらいじまの人魚』と、同じ自主企画に参加した他の方々の作品を読み比べて思うのは、性に関する描写にエロティシズムがあるかどうかということです。

 拙作はどうにも、「必要だから仕方なく、必要な範囲でだけ書いた」という感じが強くて、主人公が女性の体を切実に求めている感じが伝わってきません。

 それに対して、他の方々の作品では、ヒロインの裸体を見ている瞬間、主人公が精神的にグッと前のめりになっているということが、よく伝わってくるように思います。

 はだかを見れば(見せれば)それで距離が縮まるというという人物描写について、筆者には思うところもありますが、それが人間の現実という気はしますし、どうせ書くならちゃんと書いた方がいさぎよいとも思っています。

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