お返し

ラゴス

お返し

 駅構内の人混みを抜け、あたしは新幹線に乗った。平日の昼間とあって、車内は比較的すいている。窓際の席に腰掛け、一息ついた。

 窓の向こうでマルキューのロゴが遠ざかり、市街地を離れたあとは高速道路が流れていく。

 あたしは今、故郷に向かっている。お盆と正月の帰省とは違う、二月の下旬。このために仕事はあらかた終わらせてきた。

 カバンから、もう十回は読んだ手紙を取り出して目を通す。内容は至ってシンプルだ。住所、日時の記載と「この日ここに来て」の一文だけ。

 差出人は月本莉緒。

 十二年ぶりに、あたしは彼女に会う。


 五年生の三学期という中途半端な時期に、莉緒は転校してきた。長い黒髪と切れ長の目が大人びて見え、単に美人というだけじゃなく、凛とした雰囲気があった。なんともきれいな名前で、あたしの野中麻実とは大違い。しかも都会からやってきたという。あたしの地元はスーパーと本屋くらいしかない田舎なので、いろんな意味で持てはやされ、クラスメイトが彼女の席によく集まっていたのを覚えている。

 しかし長くは続かなかった。数日後の休み時間、いきなり鋭い声が飛んだのだ。

「なんでついてくるの? トイレぐらい一人で行かせてよ」

 きっ、とにらみつけると、莉緒は教室を出ていった。取り巻きになりつつあった女子たちは呆気にとられ、離れた席のあたしもぽかんとしていた。

 周囲と一線を画す魅力があった莉緒には、そのおこぼれに預かろうとする女子が特に近づいていた。そうでなくとも、女子特有の群れる習性や同調圧力みたいなものが気に入らなかったんだと思う。今にして思えばだけど。

 莉緒はすぐに孤立した。それでもいじめられなかったのは、たぶん絶対にやり返してくるとわかっていたから。確かに泣き寝入りなんてしそうもない。一人でも堂々としていて、運動も勉強も絵も習字も完璧にこなす彼女は、孤立というより孤高に近かったのかもしれない。

 そして当時のあたしといえば、莉緒とは真逆だった。どんくさく、要領を得ず周りに迷惑ばかりかけていた。

 たとえば家庭科の調理実習で致命的に手順を間違えるとか、掃除の時間に水の入ったバケツを倒すとか、遠足に行った先ではぐれるとか、とにかくひどかった。

 だからあたしは、お返しをよくしていた。どうしても足を引っ張ってしまうから、助けてもらったらせめて感謝を形にしないといけないと思ったのだ。

 そこで、ノートにクラスメイトの名前と、その子が好きなものを書きためておき、お返しの時に使うようにしていた。といって、小学生のおこづかいで大したものは買えないから、大抵は駄菓子で、たまに何かキャラクターの文房具というのがせいぜいだった。でも、助けてもらってお礼をするのは当たり前のことだし、それでいいと思っていた。

 男女関係なくノートは埋まっていったけど、莉緒の好きなものだけはわからない。それどころか、彼女と話したことすらないまま、あたしは六年生にあがった。

 うちの小学校は二年ごとにクラス替えをするので、五、六年は同じ顔触れ。つまりクラス内の人間関係も引きずって進級する。莉緒は相変わらず一人でいた。

 ある日の体育のあと、体育係のあたしはボールの片付けを先生に言われた。ボールの入ったキャスター付きの鉄カゴを、体育館の倉庫にしまうだけの簡単な作業だ。友だちには先に行ってもらった。

 ところが、倉庫の入口にあるくぼみに引っかかってしまい、つんのめった勢いでカゴを盛大に倒してしまった。あたしはおたおたして、カゴを立てると、跳ねたり転んだりするボールを必死に追いかけていた。自分のドジさ加減に情けなくなりながら。

 その時、つかつかと莉緒が近づいてきた。

 あたしは驚きつつも、彼女が顔をしかめていたので、絶対怒られるんだと思って後ずさりした。でもそうじゃなかった。

 莉緒はボールを蹴ったのだ。あたしではなく、カゴを目がけて。床にあったボールは次々とカゴに蹴りこまれていき、倉庫の内外を問わず、あっという間になくなった。一発も外さなかったと思う。

 呆然としていたあたしは、黙って立ち去ろうとする莉緒にあわてて声をかけたけれど、彼女は振り返らない。その後ろ姿を見ながら、あたしは呟いた。

「もしかして、助けてくれた?」


 家であらためて考えた結果、やっぱりあれは助けてくれたに違いない、と結論を出したあたしは、翌日、莉緒にお返しを持っていった。教室だと嫌がられそうな気がしたので、昼休みに中庭を歩く彼女に、思いきって声をかけたのだ。

「月本さんっ、あのっ、これっ」

 自分で思っていたより必死そうな声が出て恥ずかしくなりながらも、あたしは駄菓子の詰め合わせをラッピングしたものを差し出した。

「昨日は、あの」

 ところが莉緒は、あたしが話しきるより先に、うざったそうな一瞥だけしてそのまま行ってしまった。止めても当然止まらなかった。

 その日はとぼとぼ帰って、どうして受け取ってもらえなかったのか、また無い頭で考えた。で、出した答えというのが「そうか、お礼の品が気に入らなかったんだ」だった。

 それから三回挑戦してぜんぶ無視された。

 何をあげれば喜んでくれるんだろう。あたしは毎日考えた。莉緒をずっと観察して、クラスメイトにもたずねてみるんだけど、彼女の好きなものはやっぱりわからない。望みを託した給食も、いつも残さずさっと食べて教室を出ていく。尾行はバレそうだからやってないけど、どうにも糸口がなかった。

 しかしふいに、「他の子とは違うなあ」と思ったところから閃いた。

 そうだ、彼女は都会から来た。駄菓子なんかで満足するわけがない。そうだそうだ。

 そしてあたしは、知ってる限り最大のオシャレ感を誇る駅前のケーキ屋さんで、手持ちのおこづかいを全て投入し、マフィンを手に入れるのであった。

 しかも表面にウサギの柄が入っている。月本なんて苗字の子にあげるものとしては、これ以上ないと思われた。

 次の日の午前中は意気揚々として、渡したい気持ちがはやるのをどうにか抑えていた。ようやく昼休みになると、急いで給食を食べて莉緒の元へ。今度はどこか余裕のある声で言った。

「月本さん、これ」

 あたしの声色の変化に気づいたのか、莉緒は振り向いた。その瞬間、ああやっぱりねと、あたしは勝ち誇ったような気持ちでさえいた。すでに箱を開けてスタンバイしておいたマフィンを見て、彼女は言うに違いない。あら素敵、どこに売ってるの? 今度案内してよ、と。

 しかし返ってきた一言は、

「ご機嫌とり」

 その時のショックさといったらなかった。莉緒の軽蔑するような目つきは、今でもはっきり覚えている。

 しばらく立ちつくして、午後の授業は放心状態。家に帰って急に泣きだし、マフィンをお兄ちゃんに食べられてさらに泣きわめいた。


 一ヶ月ほど経っても、例のショックの残響がいまだにあった。へまをして、いつも通り友だちにお返しをする時、あの冷たい目が浮かんでくるのだ。ご機嫌とりなんて、そんなつもりじゃない。でも、どうにも胸がもやもやしていた。

 校内美化活動で遅くなった日、あたしは一人で帰っていた。

 なんとなくまっすぐ帰る気になれず、いつもは通り過ぎる、色あせた祭りのポスターが貼ってあるタバコ屋の角を曲がって、家まで遠回りすることにした。

 軒先にひょうたんがぶら下げてある家とか、久しぶりに来ても様変わりしていない家々の間を歩いていると、ふいに叫ぶような声が聞こえた。

 どこか聞き覚えのある声にあたしは立ち止まった。誰かが怒っていて、誰かがごにょごにょ言ってる。会話の内容までは聞き取れないにせよ、斜め前のアパートの一室が発信源らしい。

 この怒ってる方、誰だっけ。塀が欠けてあんまりきれいなアパートじゃないけど、同級生誰かここに住んでたっけ。

 なんてぼんやり考えていたら、一番手前の部屋から人が飛び出してきた。莉緒だった。

「あ……」

 咎められるかと思ってぎくりとしたけど、彼女はあたしの横を走り抜けていった。一瞬だけ見えた横顔、その目は赤かった。

 するとまた部屋から人が出てきて、莉緒の後ろ姿に手を伸ばすような仕草をした。その上品な女の人は、追いかける素ぶりはしたものの、一歩を踏み出したきり止まってしまった。

 困惑していたあたしは双方をおろおろと何回も見て、何かするべきかどうしようか迷った挙句、莉緒が行った方に走りだした。自分でもどうして彼女を追いかけたのかわからない。

 といって、足の遅いあたしはすぐに莉緒を見失ったので、やみくもに探して、川原の橋脚のそばにいる彼女を発見できたのは偶然だった。

 息を乱しながらあたしが近づいていくと、岩の上に座っていた莉緒は顔だけ振り向かせた。

「あんたか。何よ」

 興味なげに言って彼女は首を戻し、小石を川に投げた。水深が浅く、水音はあまりしなかった。

 何と言われても、事情を何も知らない。でも、話したいことはある。呼吸を整えながら、あたしは言った。

「……とりじゃない」

「何?」

「あたしのお返しは、ご機嫌とりなんかじゃない」

 こぶしを握りしめ、意を決して言い放った言葉はてんで方向違いだったかもしれないけど、莉緒は「ああ」と、こちらへ向き直った。

「あんたがどう思ってるか知らないけどね、やってることはご機嫌とりなのよ」

「だから、そんなつもりはないって」

「あんたの友だちは、そのお返しとやらを望んでるの?」

「それは」

 確かに、要求されたわけじゃない。あたしが勝手にやってきたことだ。

「でも」

「でもじゃない。あんたは行動で返すことを諦めてるのよ。だから物で返して、困ったらまた助けてくださいって、それがご機嫌とりだって言ってるの」

 どくんと衝撃が胸にきて、早鐘を打ちはじめた。莉緒の厳しい瞳に射すくめられ、二の句を継げない。

 諦めてる。あたしは諦めてる……。

「そのままいって、いつか相手が見返りを要求してきた時、あんたは断れるの? いいように言われて、黙って従うしかない状況になって、それでもまだお返しだからって言うわけ?」

 否定したかった。これが自分なりのやり方なんだと訴えたかった。でもできない。認めたくない気持ちを上回って、突きつけられた言葉は真に迫っていた。

 未来の自分を想像した時のつらさと、逃げ道をなくした現実がいっぺんにのしかかって、ぼろぼろと涙があふれてきた。莉緒のため息が聞こえて、何度も目をぬぐうけれど涙は止まらない。うめいて、洟をすすって、ぐずぐずの声であたしは言う。

「だったら、助けてもらってうれしい気持ちはどこへやればいいの」

「……何よそれ」

「だって、ほかに返しかたを知らないもん。あ、あたしだってできたらそうするよ。助けてくれた人が困ってたら助けたい。でもできないの。ドジでのろまで、何をやってもダメで、助けになんてなれないの。どうやってもできないの」

「知らないわよ、そんなこと」

「なんでもできる月本さんにはわからないよ。あたしなんかの気持ちは」

「わたしだって!」

 いきなり声を荒げた莉緒に驚いて身をびくつかせる。彼女はあたしから目をそらし、つぶやいた。

「わたしだって、望んでできるようになったわけじゃない」

 さみしさと空しさが入り混じったような、単純な悲しさとは違う表情だった。数ヶ月同じクラスにいて、そんな莉緒の顔を初めて見た。

 なのに小学六年生のあたしは、不思議に思いながらもこんなことを言ったのだ。

「じゃあ、月本さんがあたしに教えてよ」

「はあ?」

「月本さんにもできない時があったわけでしょ。でもできるようになった。その方法をあたしに教えてよ」

「なんでわたしがそんなことしなきゃいけないのよ」

「おねがい。だって、そんな、あたしこれからどうしていいかわからない」

「だからそれはわたしには」

「おねがい。おねがいします」

「あんたねえ」

 別に泣き落としをしようと思っていたわけじゃないけど、我ながらひどい顔をしていたと思う。ていうか相当ブサイクだったはず。

 やがて莉緒はひときわ大きいため息をついた。

「わかったわよ」

「ほんとに?」

 うれしそうに顔をあげたあたしに、莉緒は人差し指を向けた。

「ただし、楽な道なんかない。やるからには厳しくいくから」

「うん、うん」

 莉緒の手を取って何度もうなずいたけど、彼女はまだすこし嫌そうだった。いつのまにかあたしは泣き止んでいて、空が朱に染まりつつあった。


 さすがに厳しくいくと言っていただけあって、莉緒のしごきはきつかった。当然ながらあたしは覚えが悪く、しかもそれで莉緒が手を緩めることはない。だからしばしばクラスメイトのところに逃げ込んだものだけど、その度に「野中!」と鋭い声が飛んできて連れ戻された。

 休み時間も放課後も常に指導がある。学校の授業でやる勉強、運動、芸術、家庭科などはもちろんのこと、歌や踊り、生け花に護身術、果ては手品まで特訓メニューにある。何でもできる子とは思っていたけど、まさかそこまでとは思っていなかった。まして自分が取り組むことになるとは。

 ただ、それほど嫌だとは感じなかった。自分からお願いした手前、というのが多少作用しているとしても、きついはずなのに本当に逃げ出すには至らない。

 たぶん理由は二つあって、一つはできた時に達成感があったからだ。

 莉緒は一度もほめてくれなかったけど、自分の中で手ごたえをつかむ感覚や、前進する喜びというのを、あたしはほとんど初めて感じていた。昔から失敗続きだったあたしは、いつしか自分のことを諦めて、見なくなっていたんだと思う。己の弱さを受け入れることは、言い訳にしちゃいけなかったんだ。

 莉緒が主に教えてくれたのは、その内容よりも、体や頭の使い方、物の捉え方だった。当たり前の話でも、あたしにとってはどれも新しい考えばかりで、しかしそれも当然だ。自分のことを見ていない人間が、自分について真剣に考えられるはずがない。

 もう一つの理由は、莉緒があたしを見捨てなかったことだ。

 みんなができるのにあたしだけができないというのは、今までよくあった。さかあがりなんかがそうで、大体は馬鹿にされるか、でなければうちの親みたいに「向き不向きがあるからできなくてもいい」という反応だった。結局はどちらもつらいのだ。

 でも、莉緒はあたしの心が折れそうになる度に焚きつけ、最後までやめなかった。まあやり方は荒っぽかったけど、あたしにとっては丁度よかったんだと思う。

 ただそうなると、莉緒のことがより知りたくなる。

 夏休み、あたしの家で一緒に宿題をしている時、思いきって彼女にたずねてみた。

「月本さんは、どうして色々できるの?」

 漢字ドリルを進めていた彼女はぴくりと眉根を寄せ、数秒後に口を開いた。

「あんた、うちの母親見たでしょ」

 あの上品な女の人だと思ってあたしはうなずいた。

「わたしは今おばあちゃんの家に住んでて、あの人は付いてきてない。でも、時々ああしてやって来るの。東京からわざわざ」

 彼女は顔を上げずに淡々と続ける。

「うちの親、離婚してるのよ。わたしはあの人に引き取られて二人で暮らしていたの。三歳からあらゆる習い事をさせられたわ。これからの時代、女も生きていくために何でも身につけなきゃいけないって言われてね」

 あたしにはうまく想像できなかったけど、莉緒の声にはどこか棘があった。

「小さい頃のわたしは何もわかってなかった。ただできるようになれば母が喜んでくれるから、一生懸命やってただけ。どれも自分から始めたわけじゃない」

 前に川原で言ってたことを思い出した。望んでいたわけじゃないと。それでも彼女はできてしまった。

「そのうち、わたしにあれこれやらすのは自分を捨てた夫への当てつけだって気づいてからは、無性に腹が立った。習い事に行ってはめちゃくちゃしてやったの。そうしたら、あなたは疲れてる、一度頭を冷やしてとか言って、転校までさせられたってわけ。そのくせ様子を見にきて、そろそろ戻りましょうとか言ってんの。馬鹿みたい、ぜんぶ意味なかったのにね」

 がりがりと漢字を書く音が部屋の中に響く。あたしは事情も知らずに莉緒の力を羨ましがっていた。そして彼女の苦悩を本当には理解してあげられない。なんて能天気だっただろうか。

 でも、あたしには意味のないことだとは思えなかった。

「あたしは月本さんが来てくれてよかったと思ってるよ」

「え?」

「色んなことを教えてもらって、そりゃまだまだ全然だけどさ、この前先生にほめられたんだよ、最近頑張ってるねって。クラスの子にもなんか変わったって言われた。うれしかったんだよ。だってこのあたしだよ? 月本さんがいなきゃ、そんなふうにはならなかったって、あたしは思うの」

「……そう」

 あたしは笑ってみせたけど、莉緒は笑わなかった。その代わり顔を上げ、こう言ったのだ。

「野中、手が止まってる」

「は、はい」

 あわてて取りかかるあたしを見ながら、先に書き終えた莉緒はお茶を一口飲んだ。


 何かをがむしゃらにやっていると時間の進みが早い。瞬く間に季節は移ろい、冬が終わろうとしていた。風はまだ冷たいけど、明日はいよいよ卒業式だった。

 帰り道、ふと莉緒が遠回りしはじめた。珍しいなと思ってついていくも、彼女は黙っている。しばらく歩き、人気のない農道まで来たあたりで口を開いた。

「来月から中学ね」

「まだ実感ないけどね。あ、でもこの前制服届いたんだ」

「そう。しっかりやりなさい」

「なんでそんな、ああそうか、クラス離れちゃうかもしれないもんね」

 莉緒はそれには答えなかった。

「……ねえあんた、前に言ったわよね。人に助けてもらって、うれしかった気持ちはどこにやればいいのかって」

 自分ではあまり意識していなかった言葉だ。

「わたし、あんたに色んなことを教えたと思う。まあ正直、ここまで手のかかる子とは思ってなかったけど」

 そう言いつつ、莉緒は別に嫌そうではなかった。

「ただ、わたしにも教えられないことはある。人の役に立ちたいとか、恩を返したいっていう気持ちは、わたしには教えられないのよ。でも、麻実は最初から持ってる。それはすごいことなのよ」

 初めて名前で呼んでくれたうれしさと、初めてほめられた喜びがまざって、あたしはふわふわとあったかくなった。

「わたし、自分の力が何のためにあるのかわからなかった。でも今は違う。それはあなたが教えてくれたことなの」

「あたし、が」

 明確に心当たりはなくとも、胸にじんと込み上げるものがあった。同時にこの話の行き先が見えた気がして、泣きそうになる。

「わたしは一人でも大丈夫だけど、お母さんはきっとそうじゃない」

 莉緒がこちらを見た。

「だからわたし、向こうに戻る」

 涙が出てきた。でも泣いたらいけないと思って、必死にこらえようとする。そんなあたしを見て莉緒が笑った。

「なんて顔してるのよ」

「だって、莉緒、莉緒が」

「まったく、手のかかる子なんだから」

 彼女はあたしの手を取った。

「これで最後じゃない。わたしたち、また会うのよ」

「ほん、ほんとに?」

「約束ね」

 ほほえむ莉緒の手を握りかえし、あたしはわんわん泣いた。翌日の卒業式に彼女は来ず、空いた席をあたしはずっと見つめていた。


 十二年の間、莉緒を忘れたことはなかった。彼女の教えがあって、あたしがあるのだから。

 何度か電車を乗り換えて、ようやく地元に帰ってきたあたしは実家で一泊し、手紙に記された住所に向かった。といって、事前に調べてあったのだけど、どうしてその場所かはわからない。莉緒が指定したのはうちの小学校だったのだ。

 しかし行ってみると、正門の横に案内板が置いてあった。

「本日、体育館にて六年生の壮行会」

 そんな行事あったなあと思いつつ、ますます用件に心当たりがない。とはいえ、体育館に向かうことにする。

 入口でスリッパに履き替えようとしていたら、こもった歌声が聞こえてきた。閉め切ってあった鉄扉を開くと、舞台の上で子供たちが合唱をしていて、手前に並べられたパイプ椅子に保護者らが座っていた。

 空いている席にそっと座り、舞台を見る。二年生くらいだろうか。堂々としている子もいれば、うつむきがちな子もいる。息継ぎのタイミングがずれて、歌うところを間違えてる子もいた。あれはあたしだ。なつかしい気持ちになってくる。

 歌が終わると違う学年に交代。五年生までの全学年が終わると、最後は六年生から在校生に向けて合唱で返すという流れだ。

 親と違う目線で楽しんでいたあたしは、舞台上で六年生が整列した後に、袖から現れた人物を見て、びっくりした。

 莉緒だった。びしっとスーツを着こなし、スカートから伸びる脚が長くて、スタイルは洗練されているけれど、一見冷たそうな横顔も、きれいな黒髪も変わらない。十年以上会っていなくても、遠目で見ても、一発でわかった。先生になった莉緒のことを。

 こちらに背を向け、彼女は指揮をとる。歌が始まると、あたしは一気に引き込まれた。子供たちの息がぴったりで、声量も音程もばっちりなのだ。相当練習したんだろう。でも一番は、それでいて楽しそうだったことだ。腕を振るう莉緒にも気持ちが入っているのが見てとれる。誰もがいきいきとしていた。

 心の芽生えについて歌ったその曲を聴いていると、ここに呼ばれた意味がだんだんとわかってきた。

 卒業式の前日、莉緒は言っていた。自分の力が何のためにあるのか、あたしが教えてくれたのだと。当時はちゃんと理解していなかったけど、子供たちの姿を見ていればわかる。

 力は自分のためだけに使うものじゃない。人と分かち合うこともできるのだ。そしてこの歌はきっと、莉緒からのお返しだ。

 涙で視界がにじむ。受け取ったものがこぼれないように、あたしは何度も目をぬぐった。

 やがて歌が終わると、万雷の拍手の中、莉緒はこちらを向いた。子供たちとお辞儀をして、満面の笑みを見せてくれた。

 莉緒に会って話したいことがたくさんあった。これまでのこと。これからのこと。そして今、あたしのうれしかった気持ちを、目一杯伝えてやるんだ。

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