老人と自殺志願者
曇天が広がる中秋の八つ時、今日も高山老人は老眼鏡の奥の瞳を光らせながら、地元では自殺の名所として悪名高い岬をパトロールしていた。切り岸から身を投げようと企む人物を見つけ出しては声をかけ、七十余年の間に培われた語彙と機知とを駆使してその者に自殺を思い止まらせるのが、彼の定年後のいわば生業だった。
見回りコースの折り返し地点に当たる断崖に差しかかった高山老人は、その縁に、青年が暗い顔をして佇んでいるのを発見した。黒だ、と彼は直感的に判断した。
高山老人は静かに歩み寄って青年の肩を叩き、あんた自殺するつもりなのかい、と声をかけた。逡巡の末、青年は弱々しく首肯した。そして、今日の夕飯の献立が決まらなくて困っているのです、と打ち明けた。
高山老人は柔らかく微笑し、じゃあ私と一緒に夕飯を食べよう、と言った。そして、行きつけの定食屋に彼を連れて行き、二人分の定食を注文した。
最初、青年は気が進まない様子だったが、高山老人に何度も促されて、漸く箸をつけた。にわかに表情が和らいだ。青年は開き直ったように皿の上の料理を食べ始めた。
食事後の青年の顔色は、声をかけた時と比べて格段によくなっていた。
慇懃に食事の礼を述べ、青年は去っていった。あの子はもう大丈夫だ。そう確信し、高山老人は帰途に就いた。
翌朝、朝刊を読んでいた高山老人は、昨夜、いつも見回りに行く岬で、一名の自殺者が出たことを知った。身元は不明だったが、記載されていた外見的特徴から、あの青年に違いなかった。青年が言っていた夕飯とは、最後の晩餐のことだったのだ。
その日を境に、高山老人は行きつけの定食屋に足を運ばなくなった。だが、八つ時に岬を巡回し、崖の縁に立つ者に声をかける日課は継続している。
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