鎌倉HOLIC
碧石薫
第1話 雪ノ下
波の音が聞こえていた。
ここに住んでいる人間なら、毎日当たり前に聞いている波の音。
太古の昔から途切れることなく続く、寄せては返す子守唄。
でも、僕の耳に聞こえていたのは、静かで穏やかな波ではなくて、荒れ狂う高波が不規則に打ちつける、うなるように大きな灰色の波の音だった。
僕の家は海から歩いて5分もかからない場所にあるけれど、普段家の中にいるときにここまで波の音が聞こえることはない。
この音は僕の頭の中だけで鳴っているんだ。
あぁ…あの日の波か。
それで、またあのときの夢を見ていたんだとわかった。
僕の背より、はるかに高い大きな波が、飛沫を上げてうずまいている。
灰色の空に灰色の砂浜。
僕の記憶を塗りつぶす暗い海。頭の中をいっぱいする、潮の香り。
これは、夢だ。
潮の香りを追い払うように頭を振り、僕は深呼吸をした。
一回…二回…
やっと、速い胸の鼓動が収まってきた。
目を閉じたまま、そっとまぶたを確認する。
大丈夫。濡れてはいなかった。
安心して息を吐いて、目を開けた瞬間。
音量は最大。バイブレーションも発動して、ぶんぶん躍動している。
毎朝、僕より先に起こされてるな、相棒。
僕は、けたたましく震えるそいつを右手でつかまえると、覚悟を決めて人差し指を出した。
「おはよー!! 碧樹、おきてるー?」
声でかいよ。
耳からスマホを10センチ離してから
「おお 起きてる、起きてる」
と答えた。
「うっそだー!まだベッドでしょ」
「ほんと、起きてるから」
「ほーんーとーかー…」
という声と同時に、ダン、ダン、ダン、ダン!と階段をかけあがってくる音が聞こえる。
「やべっ!」
飛び起きたと同時にバンッ!と派手な音がして、僕の部屋のドアが開け放たれた。
「なーーーー?」
と言いながら、ハルが入ってきた。
なすすべもなく掛布団を胸まで引き上げたのは、無意識の防衛本能だろう。
「やっぱり寝てたじゃーん」
僕を一瞥すると、そのままの勢いで窓辺へ行き、カーテンを引き開ける。
いきなりのまぶしい日差しにうろたえる間もなく、窓をも開け放った。
四月の朝の海風は、まだ少し冷たいよ。
そんな僕の声にならない声は、ハルに届くはずもない。
「ほらぁ、今日もいいお天気だよ!」
言いながら、ハルはクローゼットを開けると、
「あれ?制服は?」
と、それほど広くない僕の部屋をキョロキョロと見回した。
昨日僕が脱ぎ捨てたままの状態で、勉強机の下にまるまっていた制服のズボンを発見すると
「もー、なんでハンガーにかけないかな」
と、慣れた手付きでパンパンたたき、しわを伸ばした。
そしてクローゼットの引き出しを開けると、次々と僕の着替えを取り出していく。
「はい、シャツ、ブレザー、ネクタイ、ハンカチと靴下ね!」
順番にベッドの上に並べて
「今日は体育あるから、ジャージ忘れないでね」
と、持ち物のチェックも忘れない。
「ほらぁ、下で待ってるから、早く早く!」
「へーい」
ハルが出て行くと、僕はやっとベッドから抜け出し、ねまき代わりのTシャツを脱いだ。
ふと部屋の中を見回すと、クローゼットの扉も引き出しも、開け放たれたままだった。
制服に着替えると、ハルが開け放っていったすべての場所を、僕が閉めた。
この時には、もうさっき見た夢のことは忘れていた。
いつも通りの朝が始まったのだ。
階段を下りて居間に行くと、お線香の匂いがした。
うちの仏壇は居間の隣の和室にある。
覗くと、ハルが仏壇の前に座って手を合わせていた。
「今日も碧樹は元気です!」
毎朝の謎の報告をすませると、チーンとおりんを鳴らした。
「碧樹、おはよう」
「おはよ、おばあちゃん」
居間につながっているキッチンから、おばあちゃんが顔を出した。
朝はあんまり食べられないから、トーストと麦茶だけでいいと言ってある。
本当は牛乳やヨーグルトを食べた方がいいんだろうけど、僕のお腹はデリケートなのだ。
おばあちゃんが、トースターで焼いたパンと、僕の好きなジャムをトレーに載せて持ってきてくれた。
「はい、碧樹お弁当」
と、お弁当箱が入った小さなバッグを差し出したのは、ハルだ。
「サンキュー」
いつも通り受け取ると、自分のリュックに入れた。
「ハルちゃん、いつもありがとうね」
お礼を言うおばあちゃんに、
「いいの、いいの!自分の分を作るついでだから。
碧樹はおばあちゃんが作ったお弁当の方が好きだと思うけどね」
「そんなことないよ。私は今の子が好きな、しゃれたお弁当なんて作れないもの。
助かってるよ。それに、この前作ってくれたカレーも、とってもおいしかった。
ハルちゃんは本当に料理が上手だねぇ」
「え、そうかなぁ」
ハルはちょっと照れたように笑った。
「ねえ、おばあちゃん、クックパットって知ってる?」
僕がたまらず横槍を入れると、ハルは
「あ!碧樹、余計なこと言わないでよ」
とふくれた。
「クック、パット?」
聞き返すおばあちゃんに
「なんでもないっ!ほら、碧樹ここ、寝癖ついてる!
早く洗面所行って、直して来て。歯も磨いて!」
慌てて僕を急き立てる。朝食の最後の一口を飲み込むと、仕方なく立ち上がった。
僕が鎌倉に引っ越して来たのは、五歳の時だった。
元々鎌倉で生まれ育った父さんが、築八十年の古ぼけた実家を、今はやりの古民家風にリノベーションして住もうと決意したのは、体が弱かった母さんのためだ。
前の年におじいちゃんが他界して、一人きりになってしまったおばあちゃんのことも心配だったのだろう。
都心の会社まで通うのは大変になったけど、休みの日にはのんびりと釣りもできるし、母さんが元気になってくれれば、と東京のマンションから移り住んだのだ。
広い庭と、一間の離れがある間取りはそのままに、昔ながらの畳の広間に床を貼り、入り口の土間を大き目の玄関に作り替えた。
がらくた置き場のようになっていた二階の部屋は洋室にして、僕が大きくなったら使うことになった。
一階の中心に広い居間とダイニング。その奥に新しくキッチンを作り、
お風呂とトイレもリフォームして。
離れの部屋も廊下でつなぎ、畳を入れ替えて、おばあちゃんはここで眠った。
玄関からまっすぐ伸びた廊下の先に洋室を作り、ここが父さんと母さん、まだ小さかった僕の寝室になった。
古さと新しさがまざった、不思議な家。
父さんが生まれ育った家の空気を、残したい気持ちが強かったのだろう。
家の中心に残る太いヒノキの大黒柱は、ぴかぴかに磨き上げられ、離れの一部だった飴色の厚い一枚板は、ダイニングテーブルに生まれ変わった。
中でも僕のお気に入りの場所は、離れの縁側だった。
南に向いて庭を見渡せる縁側は、冬の昼下がりでもぽかぽかと暖かく、絶好のお昼寝スポットだった。
庭をはさんだ道路の向かいには、洋風の白い家が建っていた。
父さんの幼馴染が建てた二階家で、一階で歯医者さんを開業していた。
引っ越してくる前から、よく遊びに来ていたので、そこに住む家族のことは知っていた。女の子が二人いて、上の子が僕と同じ年の春陽。下の子が2歳年下の夏菜。
僕はいつも二人を、「ハルー、ナツー」とまとめて呼んでいた。
引っ越して来てからは、自然と家族ぐるみの付き合いになった。
春には源氏山公園でお花見。
夏は海で花火やバーベキュー。
秋にはお弁当を持ってハイキング。
一人っ子の僕は、急に家族が増えたようで楽しかった。
あまり外に出られない母さんは、時々しか参加できなかったけれど、今まで碧樹をどこにも連れて行けなかったから、いろんな所へ連れて行ってもらえて嬉しいと笑っていた。
海で拾った貝殻や、黄色いいちょうのはっぱ、ポケットいっぱいのどんぐりなど、小さな冒険のお土産を、心から喜んでくれた。
母さんに似て、生まれつき体が小さく、色白でひょろひょろだった僕も、鎌倉で二度目の夏を迎える頃には、だいぶ地元の子らしくなっていた。
ハルには負けるけれども。
ハルは、おそろしく元気な子供だった。
同じ年なのに、背も僕より十センチぐらい高くて、一年中日焼けしていた。
真っ黒な髪の毛を、首のあたりで切りそろえて、真っ黒な大きな瞳をくるくると動かして、よく通る大きな声で僕を呼んだ。
「アーオキー!!」
まだうちの玄関にたどり着く前から、僕の名前を呼びながら走ってくる。
その声は、家の中のどこにいても聞こえたものだ。
母さんはいつも笑って
「ハルちゃんは本当に元気がいいわねぇ」
と言いながら、僕を呼びに来る。
鎌倉に来てからは調子が良くなってきたとはいえ、病院通いが続いている母さんには、ハルの元気が心底羨ましかったのだろう。
やがて同じ小学校に入学した僕たちは、登下校も一緒にするようになった。
学校から帰ると、母さんが作ってくれたおやつを二人で食べて、縁側で一緒に宿題をしたり、庭で泥団子を作ったり。時々は近くの海に遊びに行ったりもした。
ハルの家は歯医者さんで、おじさんが歯科医。
おばさんは受付で働いていたので、忙しかったのだ。
妹のナツは保育園に行っていたので、ハルは家にいてもひとりぼっちだった。
いつもハルとだけ遊んでいる僕に、父さんが
「碧樹は男の子なんだから、何かスポーツをやったらどうだ?」
と言ったのは、暗に女の子とばかり遊んでないで、男の友達を作れと言いたかったのだと思う。
急にやりたいスポーツと言われても、困ってしまう。
しかたなく、あまり多くない学校の友達に、どんなスポーツをやっているか聞いてみた。
人気なのは、サッカーや野球だけど、グラウンドが遠い。
親の送り迎えが必要だし、クラブチームは土日に遠征があったり、母親が交代で子供たちの世話をしないといけないらしい。
母さんの負担を考えたら、とても無理だと思った。
そんなこと母さんには言えないから、ハルに相談した。
すると
「あ!じゃあスイミングはどう?
バスが迎えに来てくれるみたいだよ。それならハルも一緒にできるし」
と教えてくれた。
さっそく母さんに聞いてみると、碧樹は私に似て喘息もあるし、スイミングは肺が鍛えられていいわね、と賛成してくれた。
父さんはちょっと不満そうだったけど、母さんの気持ちを尊重して、いいよ、と言ってくれた。
そして僕らは一緒にスイミングスクールに通い出した。
泳ぐのは疲れるけど、水に入るのは嫌いじゃなかった。
鎌倉の海には、よく遊びに行ったけれど、泳ぐというより水遊びのようなものだ。
常に浮き輪をして、波にちゃぷちゃぷ浮かんだり、砂を掘ってハルを埋めたりした思い出しかない。
海の家で食べるラーメンやかき氷が楽しみだった。
スイミングスクールで覚えるのは、ちゃんとした水泳。
バタ足から始まって、平泳ぎ。
距離とタイムも測って、進級テストを受ける。
合格したら、次はクロール。
という具合に泳ぐ技法や距離を増やしていくのだ。
新しいことを覚えるのは楽しかった。
だけど、そこでめきめきと頭角を現したのは、やっぱりハルの方だった。
僕もけして進みが遅かったわけじゃないけど、ハルの速さは異常だった。
あっという間に僕を置いて、次の級に進み、その差は開くばかり。
持って生まれた体力と、運動神経の不公平さに、初めて気付いた僕だったが、
そんなことに気持ちを囚われていられない出来事が、突然僕に起こった。
あれは、スイミングを始めて1年後。
小学二年生の、夏の終わり。
僕の母さんが、死んだ。
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