むかしむかし、ある所に
昔々、木々が生い茂るとても深い深い森の中に、竜が住んでいました。
竜は森の恵みを得て暮らし、動物や植物たちは竜の縄張りに居る事で安寧を得て穏やかに暮らしていたのです。
そんなある時、竜の縄張りの境界線に異変が発生しました。
竜は異変を感じ取り、縄張りのふちまで行ってみたのです。
そうしたら何という事でしょう。
ツルで編まれたかごの中には、白布で包まれた人間の赤子が居たのです。
赤子は弱々しい泣き声を上げて母親を呼んでいました。
その声はもはや母親には届く事はないのにも関わらず。
竜は困り果てました。
穏やかな森の竜はむやみな殺生を好みません。
自らこの子を殺す事は無いにせよ、自然の掟に任せていればいずれこの子は死ぬか食われます。
ではこの子を育てるかと言っても、自分は雄です。
竜の雄は子育てをする習性はありません。
そんな自分が、種族も違う人間の赤子を育てられるのか。
竜は生まれてすぐに目を開き、自分で立ち上がり空も飛べるようになります。
人間の子は聞く限りでは、一年もの間自分で立ち上がれず、独り立ちには優に十五年は必要だと言います。
森で生きるにはあまりにもか弱い存在です。
迷った挙句、竜は赤子の入ったかごを自分のねぐらに持ち帰りました。
困ったのは、赤子に栄養をどうやって与えるかです。
竜は卵から孵る生き物で、雌でもお乳を与える事はしません。
餌を探して持って帰ってそれを雛に与えます。
人間の赤子は口を見る限り歯もまだ生えていません。
固形物はとても食べられないでしょう。
竜は悩みます。
悩んだ挙句、竜は自らの前脚を少し切りました。
鱗の下の肉から青い血が流れます。
それを水で薄め、赤子に飲ませました。
竜の血は栄養に富んでいます。他の生き物にはその栄養が高すぎて逆に毒である、という話がまことしやかに伝わっていました。もちろん竜もそれは知っています。
それで死ぬのなら仕方がないと竜は考え、薄めた血を与え続けました。
薄めた事によって程よい濃さの栄養になったのか、それとも運が良かったのかは定かではないですが、人間の赤子はすくすくと育ちました。
赤子はよちよち歩きで竜の近くを歩き回り、寝ている竜の顔をぺちぺちと叩いています。
しかし、裸でした。
以前見た人間たちの事を思い出すと、人間は服というものを着ています。
おそらく身を守る毛皮も鱗もなく、か弱い皮膚しかないからでしょう。
しょっちゅう転んでは怪我をしているのを見かね、竜は獣を狩ってその毛皮で服を作り着せてやりました。
腕と足までをすっぽりと覆う事で、転んだ程度では怪我しないようになりました。
「やれやれ……ここまで面倒くさい生き物だとは」
竜はため息をつきますが、更に試練は訪れます。
季節は流れ、雨の長く続く時期がやってきました。
森にも雨露が降り注ぎ、森の生き物たちは雨から逃れようと木陰や洞窟などの中に隠れます。
雨の時期は気温も下がっていきます。
雨露に濡れてしまえばあっという間に風邪を引くでしょう。
竜は子供を雨露から守る為に、自らの体の影に引き寄せて隠していました。
しかし竜が寝ている時に、赤子はふらふらと竜の体の外に出てしまったのです。
「……む?」
起きた竜は居なくなった子供に気づき、慌てて子供を探しに行きます。
幸い、そんなに遠くには行っていなかったのですが、すっかり体はずぶぬれになってしまいました。
体を拭いて乾かしはしたものの、体を冷やして赤子は風邪を引いてしまいます。
熱を出し、呼吸を荒くして力なく寝床に横たわっています。
子供の様子がおかしい事に慌てた竜は、人間に姿を変えて森の近くの山に棲んでいる賢者の下へ、子供を連れて向かいます。
賢者に子供を見せると、彼は髭を撫でて言いました。
「体を冷やしてしまったのじゃな。熱と震えの原因となっている悪い精霊が体の中を暴れまわっておるわ」
「どうすれば治る?」
「この山の崖に熱によく効く薬草が生えておる。しかし断崖絶壁である故、採りに行くのは命がけになるが、大丈夫かね」
「その程度、問題にもならん」
「なるほどの。ところでお主、少し変わった瞳の色をしとるな」
賢者は竜の
「見た所自分の子ではあるまい。なのに助けるとは一体どういう訳かの?」
「……それを聞いてどうするつもりだ?」
竜の変化した髪の毛が一瞬逆立ち、賢者を睨みつけます。
知らず知らずのうちに牙も剥いていました。
「おお、怖い。殺気を向けんでも良かろうが全く。別にただの好奇心で聞いてみたまでじゃよ」
「助けたいと思っただけだ。それ以外に理由などない」
「物好きな奴もおるもんじゃな。わざわざ孤児を育てるなど珍しいわい」
「……薬草の話は感謝する」
竜は賢者の家を後にし、すぐに崖に行って薬草を採りました。
空を飛べる竜なのだから、危険な薬草採りも何の苦労もなく採れるというわけです。
薬草を採って来た後は、急いで煎じて子供に飲ませました。
薬草が効果を示したのか、すぐに子供の熱は下がってしばらくすれば元気になりました。
竜はほっと胸をなでおろします。
一年が過ぎ、人の子は自らの足で走り回る様になりました。
竜は微笑ましくその様子を眺めていましたが、一つ気がかりがありました。
人間は言葉を覚えて話すのですが、この子は一向に喋ろうとしません。
それもそのはず。竜は言葉を必要とせず、意思疎通には念話によって図るからです。
人の子はいつの間にかそれを会得しており、竜と人の子は念話でやり取りをしていました。
ただの人が何故念話を出来るようになったのか、竜にはわかりません。
恐らくは薄めた血を飲み続けた事により、体が少し竜に近づいたのでしょう。
その証拠に、人の子の瞳は
まだ子供は自分がどうやって竜に話しかけているのか、はっきりとはわかっていません。
このまま竜と一緒に育てば、やがて人間とは似て非なる何かになるでしょう。
竜は決意します。
この子を人間の下に帰す事を。
ある日、竜は再び山の賢者を訪ねます。
今度は一人で。
「なんじゃ。また来たのか。今度は何の用じゃ、森の竜よ」
「気づいていたのか」
「只の人間がそのような力を持っている筈が無かろう。そこらの民草ならいざ知らず、魔力を会得し、魔物たちと慣れ親しんだ我らならすぐに気づくわい」
座って茶でも飲めと勧められるままに竜は椅子に座ります。
手を組み、竜はおずおずと賢者に向かって一言、ぽつりと言いました。
「俺が育てている人間の子供を、やはり人の手に戻したいのだ」
「ほう、何故そう思う?」
「竜の子は竜の親の下で育てられて初めて竜としての生き方を学ぶ。人とて同じだろう」
「その通りだ。……狼に育てられた人間の話は知っておるか?」
「いや、知らぬ」
「では話そう。とある雌の狼が、人間の子供を引き連れていた事があってな。恐らく捨てられた赤子を見つけ、母性本能が目覚めて育てたのだろう。人間が狼とその子を見つけた時には既にある程度の大きさになっていた。保護して人間の下で育てる事にしたのだが、その子供は生肉を喰らい、四つ足で歩き、昼間は人目を避けるためにベッドの下に隠れていた」
「まるで獣そのものだな」
「その通りだ。狼と幼少期を過ごしていた為か、どれだけ人としての振る舞いや言葉を教えても人間には戻れなかった。結局その子は最後まで狼としての生き方を貫いて死んだ」
「……やはりそうなのだな。人間は竜にはなれないと」
「うむ」
竜は決意を固めます。
「あの子の事はお前たちに任せる」
「賢明な判断だ。その子が眠っているうちにここへ連れてきなさい。後の事は儂に任せなさい。誇り高き森の竜よ」
「恩に着る」
そして竜は、ねぐらまで戻るとすやすやと心地よく眠っている人の子を抱きかかえます。
始めに見た時は不思議な形をしている顔だと思いました。
竜とはかけ離れた形をした、柔らかく傷つきやすい存在。
あまりにもか弱きもの。
それが人間です。
今となっては愛おしき我が子。
しかし、ここに居てはこの子の為になりません。
起こさないように竜は静かに飛び立ち、再び賢者の家までやってきました。
「この子か。知り合いの寺院が山のふもとにある。そこに預けよう」
「よろしく頼む」
竜は帰る前に子供の頭を撫でます。
ふわふわの髪の毛は竜にはありません。
竜の体はほとんど硬い物で作られています。
鱗、爪、牙、角、翼。
どれもこれも硬く強く大きく、何物も寄せ付けない強さがあります。
竜もある程度の期間は親元で育ちますが、その時間も僅かでしかありません。
子育てが終わったとみなした親はすぐに離れ、子もまたすぐに独り立ちし、自らの棲み処を探します。
竜は育った後はずっと一人で生きていきます。
群れで暮らす人間とは対極の存在です。
故に、森の竜はこの子供に何か惹かれる物を感じたのかもしれません。
「今生の別れとなろう。この子にこれを」
竜は自分の鱗を一枚剥がし、ひもに通して首飾りとしました。
「お守りの代わりだ。人間にはそういう風習があると聞いた」
「うむ。竜のお守りともなればご利益も相当にあるだろう」
「幸せに暮らすのだぞ」
竜は振り返る事なく賢者の家を去りました。
夜がいつの間にか明けようとしています。
太陽の光が山の向こうから差し始め、世界のは夜の闇から抜け出そうとしています。
「これで良かったのだ」
竜は呟き、一度だけ咆哮を上げました。
竜の咆哮は山を越えて遠くの国にまで響き渡り、人々は何事かと騒ぎ立てましたが、それはまた別のお話です。
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