番外編

第1話 医師エディ・バイロンの診療日記

 真夏の昼下がり、鮮やかな黄色が眩しい向日葵の迷路の傍から、今日も今日とて可憐な笑い声が聞こえてくる。日差しを遮るように軽く手をかざしながら中庭の様子を観察すれば、自然と頬が緩んでしまった。


 ああ、今日もお二人の仲は良好なようだ。


 何とも言えない満たされたような気持ちを感じながら、俺は改めてお二人の姿を眺めた。


 可愛らしい結婚式から約一か月、この城の主エルドレッド殿下とその妻セレスティア様は、以前にも増して仲睦まじいご様子だ。


 大抵朝食と夕食は一緒に召しあがっているし、暇さえあればこうして散歩に繰り出しておられる。俺の姿を見かければお二人ともすぐに輪に入れてくださるが、いくら何でも新婚夫婦の甘い時間を邪魔してばかりはいられない。


 だから、このところの俺は、お二人が散歩に出かけるこの時間、そっと身を潜めてお二人だけの空間を作って差し上げるのが習慣だった。もう少しお二人の姿を見守ったら、俺はここから退散するつもりだ。


 弟のように思っていたエルドレッド殿下と、妹と同じ年のころのセレスティア様を見ていると、やっぱり頬が緩んでしまう、お二人が幸せそうにしていればしているほど、胸の奥が温かくなるような気がしていた。


 大変微笑ましいお二人だ。どうしようもなくすれ違っていた時期はあったが、こうして無事に想いが通じ合ったお二人を見られたことが何よりも嬉しい。


 そのまま一人にやにやと、談笑するお二人の姿を眺めていると、不意に背後から声をかけられる。


「エ・デ・ィ様?」


 半ば呆れたような声にはっとする。俺にこんな風に話しかけてくる人は一人しかいない。セレスティア様付きのメイドのナタリーだ。


「ナタリー、奇遇ですね。あなたも散歩ですか?」


 得意の演技で涼しい顔をしてみせるも、ナタリーは欺けないようだった。彼女はずい、と俺に近付くと、軽く睨むようにこちらを見上げてくる。


「主夫妻を遠目に見守りながらにやつく怪しいお医者様がいたから、注意しに来たんです!」


「そんな言い草はないでしょう。俺はただ、微笑ましいお二人の姿を見て、心の栄養補給をしているんです」


 そう、まさにこれは栄養補給だ。笑い合うお二人の姿ならいくらでも見ていられる気がするし、活力を分けてもらっているような気持ちになる。


「エディ様は本当に殿下とセレスティア様がお好きですね……」


「とんでもない。セレスティア様はともかく、あんな腹黒王子のことなんて……」


「なんだかんだ言って、大切に思っていらっしゃるくせに。殿下もエディ様も素直じゃないんだから……」


 ナタリーは妙に鋭い指摘をすると、俺の隣に立って向日葵の迷路の方を見やった。陽の光の中で笑い合う二人の姿を視界に収めたのか、ナタリーもふっと頬を緩める。


「でも、確かに素敵ですね。セレスティア様がお幸せそうで、あたし、とても安心しました。あんなにすれ違っていたのが嘘みたい」


 その言葉に嘘はないのだろう。ナタリーの横顔は本当に嬉しそうで、きらきらとした眼差しでお二人を見つめていた。俺と違うのは、その視線の中に憧れるような気持ちが見え隠れしていることだろうか。


「殿下がセレスティア様をお部屋に閉じ込めたときは、本当にどうしようかと思ったんですよ。このまま幽閉されるのなら、あたしはなんとかしてこの方を逃がして差し上げなきゃ、って思っていたんです」


「それは危なかったですね。セレスティア様を逃がしたなんて知ったら、あの時の殿下は何をしでかすか分かりませんでしたよ」


「確かに、命拾いしたのかも」


 ナタリーは言葉のわりに軽くくすくすと笑うと、今度は俺に視線を移した。


「エディ様は他人の恋愛模様を眺めているだけで満足なんですか?」


「俺は恋と言うものをしたことがありませんから。あのお二人を眺めているのだって、俺が好きなお二人が仲良くしてくださっているのが嬉しいだけですよ」


「あ、好きって認めましたね」


 ナタリーはどこか悪戯っぽい笑みを見せると、再び距離を詰めて俺を見上げた。


「エディ様はこんなに素敵なのに、勿体ないですよ。言い寄ってくる女性なんて、数えきれないほどいるんじゃありません?」


「確かに声をかけてくださる令嬢はいましたが、社交辞令でしょう」


 それに、今の俺は一応消息不明という扱いになっているはずだ。俺を知っている人の殆どは、第二王子の屋敷が燃えた際に、俺が命を落としたと思っているだろう。セレスティア様の誘拐事件以降、俺はこの城にずっと身を潜めていた。


 そのため、正式な縁談など、この先俺に来るはずもなかった。それでいい。この城でこのままエルドレッド殿下とセレスティア様をお守りできれば、俺は充分だ。


「そうかなあ、エディ様って近寄りがたい印象もありますから、エディ様に声をかけたご令嬢は、勇気を振り絞ったんじゃないかと思いますよ?」


「あなたは随分気軽に話しかけて来るじゃないですか……」


「あ、本当だ。どうしてでしょう」


 けらけらと明るい笑い声をあげるナタリーは、やはり随分と快活な女性のようだ。セレスティア様だって暗いわけではないが、ナタリーはセレスティア様とまた違った明るさがある。


「きっと、放っておけないんです。エルドレッド殿下とセレスティア様を見つめるエディ様は、とても微笑ましいものを見るような面持ちだけど、ちょっとだけ、寂しそうでもあるから」


「……寂しそう、ですか。俺が?」


「『傍観者』はそろそろ卒業してもいいんじゃありません? お二人だってあんなに上手くいっていることですし、少しはご自分のことにも目を向けるべきだわ」


 ナタリーは屈託のない笑顔を見せて、我ながらいいことを言ったと言わんばかりにうんうんと頷く。その反応を見ていると、何だかふっと頬が緩んでしまった。


 傍観者を卒業、か。そんなこと考えたことも無かった。


 ナタリーの癖のある赤毛を眺めながら、自分が主役の人生を考えてみる。今はまだなかなか想像しづらい。舞台の中心にはまだ、エルドレッド殿下とセレスティア様しかいないのだから。


「あ、あたしもう行かなくちゃ。お二人の姿を見てにやにやするのはほどほどにしてくださいね、エディ様!」


 それだけ告げてナタリーは城の中へ戻っていく。なんとなく、もう少しだけ彼女と話していたかったような気がして、メイド服の後姿を見送った。


 ナタリーからしてみれば、何でもない、ただの親切心で俺を気にかけてくれただけなのだろう。それでも、彼女の放った一言は、俺の心を動かすには充分だった。


 もしも、俺が主役の舞台が幕を上げたなら。


 そのときはきっと、底抜けに明るい笑顔を見せるナタリーも舞台に上がっているのだろう。


 彼女の配役は、仕事仲間か、友人か、はたまたヒロインか。


 そこまで考えてふっと笑みが零れてしまった。たった一言話しただけで大袈裟だ。


 俺の人生の第一幕は間違いなく悲劇だったが、もしかすると第二幕は――。


「何をひとりでにやにやしているんだ? エディ」


 はっと我に返れば、目の前にエルドレッド殿下とセレスティア様が迫っていた。どうやら影からこっそり見守っていたのがバレてしまったらしい。


「何だか楽しそうですね、エディ様」


「日差しに当てられたんじゃないのか?」


「いえ、ちょっと面白いことがあったものですから」


 そう、俺は今とても楽しい。これからのことを思い描いて幸せになるなんて、きっと、弟妹達と路地裏で暮らしていたとき以来だ。

 

「よければ、エディ様も一緒に向日葵の迷路の中を散歩しませんか?」

 

 セレスティア様の提案に、ちらりとエルドレッド殿下の表情を窺ってみる。意外にも、好きにしろと言わんばかりの表情だった。


「では、お言葉に甘えて」


 このところ新婚の二人に遠慮してばかりいたから、たまには一緒に散歩しても許されるだろう。


 俺はやっぱり、この二人のことが好きなんだな、と改めて気づかされた瞬間なのであった。

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