身代わり侯爵令嬢セレスティアの初恋

染井由乃

第一章 偽りのオリヴィア

第1話 

 身代わりでもよかった。


 それであなたが幸せになれるのならば。




 大陸一の大国、ローウェル王国の東側を覆う森の奥深く、人々に忘れ去られたような寂れた城の中で、私は「夫」となる人と対面を果たしていた。


 淡い陽光の差し込む応接間は、王国の流行の最先端を行く、というようなデザインではないのだろうが、落ち着いた雰囲気のある高級品ばかりで纏められている。


 それもそのはずだ。ここはローウェル王国第六王子の応接間なのだから。部屋の主である王子様はというと、とろけるような甘い笑みを浮かべて私を見つめている。

 

「ああ、オリヴィア、こっちを向いて。可愛い顔を良く見せてごらん」


 心地の良い美声で、歯の浮くような台詞を吐いてもこの人ならば絵になってしまう。傍から見れば私はきっと、眉目秀麗な王子様に口説き落とされようとしている幸福な令嬢なのだろう。


 でも残念。


 私の名前は、オリヴィアではなく、セレスティアだ。


 セレスティア・マレット。血筋だけは由緒のある、没落寸前のマレット侯爵家の娘なのだ。


「オリヴィア? どうしたんだい?」


 再三にわたり、私を「オリヴィア」と呼ぶ彼は、この王国で最も高貴な一族に名を連ねる、第六王子エルドレッド・ローウェル殿下だ。


 白にも近い、色素の薄い銀の髪に、どこか虚ろな淡い青色の瞳。横顔は思わず見惚れるほどに美しく、物憂げな雰囲気は却って色気を醸し出していて、まるで欠点がない。


 そして彼こそが、私の「夫」となる相手として、たった今紹介された男性だった。


「そんなに難しい顔をして……いつものように笑ってごらん、オリヴィア」


 何も彼は、婚約者として紹介された私の名前を何度も呼び間違える無礼な男性というわけではない。


「さあ、オリヴィア、笑って。に、ほら、ね?」


 オリヴィア、そう、その人は、目の前で微笑む彼の可愛い可愛い「妹姫」の名前。

 

 ……3年前に亡くなった、憐れで不運な王女様のお名前だ。


 オリヴィア姫は、淡い銀髪に空色の瞳を持つ、それは可愛らしいお方だったという。可憐な笑みに、理知的な眼差しを湛えたその姿は、亡きお妃様によく似ていたらしい。13歳という若さでこの世を去ってしまったという訃報を聞いた時には、人々の脳裏に思わず美人薄命という言葉が過るくらいには、麗しい姫君だったのだ。


 そして、何の因果か、私も王女様と同じ淡い銀色の髪を持っていた。瞳の色は王女様のように空を思わせるというよりは、南の海のような深い青色なのだけれども、目の前の王子様にとっては些細な違いなのかもしれない。


 そう、エルドレッド殿下は、婚約者として紹介された私のことを、妹姫のオリヴィア姫だと思い込んでいるのだ。オリヴィア姫が亡くなってから、エルドレッド殿下は御心を病まれてしまったと専らの噂だったが、ここまでとは私も思っていなかった。


「……殿下、この方はオリヴィア様ではなく、殿下の婚約者のセレスティア様で――」


 殿下のすぐ傍に控えている黒髪の青年は、殿下のお抱えの医師エディ・バイロン様だ。3年前、オリヴィア姫が亡くなってからというもの、付きっきりで殿下の御心の具合を見ているお医者様らしい。


 だが、殿下はお抱えの医師の言葉さえも無視して立ち上がると、虚ろな眼差しのまま甘い微笑みを私に向けた。


「オリヴィア、こちらへおいで。お前の好きな焼き菓子を用意させたから、一緒に食べよう」


 私に手を差し出すちょっとした仕草さえも優雅で、ああ、この人は本当に王子様なのだな、と実感する。


 それと同時に、なはずの私に妹姫の面影を見るほどに、オリヴィア様のことを大切にしておられたのだとも思い知った。


 ――僕の傍に近寄るな!! 早く皆のもとへ戻れ!!


 5年前のとある夕暮れに、私に向かってそんな暴言を吐いた王子様にも、大切なものはあったのだ。当たり前のことなのに、どうしたってあのお茶会の夕暮れに出会った少年と、目の前の優し気な青年の姿が結びつかなくて、胸の奥が痛むような、切ないような気持ちになってしまう。


「オリヴィア?」


 目の前に差し出された手が不安げに揺れるのを見て、私は咄嗟に顔を上げた。私情を挟むのはよそう。たとえ本当は彼が私を嫌っているのだとしても、私は私の役目を果たすまでだ。


「……ありがとうございます、殿下。いただきますね」


 絹の手袋越しに殿下の手に触れれば、彼の手は壊れ物を扱うかのような優しさで私をそっと立ち上がらせた。傍から見れば私はやはり、美しい王子様に愛される幸運な令嬢なのだろう。


 もっとも、私の心の中はそのような晴れやかな気持ちとは程遠いのだけれども。


 どことなく重苦しい気持ちのまま、大人しく殿下のエスコートを受けていると、不安そうな眼差しで私を見つめる医師のエディ・バイロン様と目が合った。


 私のことを、殿下に「妹姫」扱いされることで癇癪を起こすような令嬢だとでも思っているのかもしれない。それによって、殿下が傷つくことを恐れているのだろう。殿下の御心を一番に考えるお医者様ならば、その不安も無理のないことだった。


 少しでもこの忠実な医師の不安を払拭するべく、なるべく柔らかく微笑んで見せる。正直、不安なのは私も同じだ。私のことなど大嫌いなはずの殿下は、本来ならば私がこうしてお傍に上がること自体良く思わないはずだ。いくら周りが決めたこととはいえ、殿下に申し訳ないような気がしてならなかった。


 だが、婚約の誓約書は既に交わされている。今更後戻りなんて出来ない。


 上質な紅茶の香りを胸一杯に吸い込み、殿下に気づかれない程度に小さな溜息をつく。これから始まる、殿下の婚約者としての歪な生活への憂いは拭えぬまま、息苦しいお茶会が始まったのだった。

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