第92話

 

「えっ」


 なに、が?


「えっえっ」


 腕を持ち上げ、その掌を見る。赤い液体が、ポタポタと同じ色に染まったシーツへと垂れ落ちていく。


「う、あ」


 顔を上げ、部屋を見渡すと、何かの破片が張り付いた俺の絵がそこかしこにあり。まるでバケツに入ったペンキを思い切りぶちまけたみたいにその空間は真っ赤っかに染め上げられている。


「べ、べる?」


 今そこに立っていたはずの婚約者の姿はどこにもない。


「転移したのか? そうだよな? あはは、どこに行ったんだ全く」


 ベッドから立ち上がり、歩み出そうとしたその時。


 ポトリ、と、球体が足元へ落ちてきた。


「うぇっ?」


 それを目で追い、べちゃりと音を立て床に張り付いた物が何かを確認すると。




 人の眼球であった。





「あは、あはは?」


 眼球? 誰の? ベルの悪戯か? 趣味悪いなあ? こんなの笑えないぞ?


「ああああ、ああああああ、ああああああああああ」


 なんでなんでなんでえっえっえっべるべるべるべるべるべる


「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!!!!!!!!!!!」




「人間はなぜこうも煩いのか。これでは猿と同じではないか。我らと同じ形をしていることが不愉快極まりない」




「お前、かああああああああああ!!!!」




 先ほどまでベルが立っていた部屋の中央に突然現れた刺客に対し、俺は一瞬にして『浄化の光』を突き刺す。


「おっと」


 しかし、相手はそれをひらりと交わしてしまう。


「ふむふむ、やはり呪いの効果は絶大なようだ。その"力"もレベルとやらが上がるごとに比例して強大になっている。余り遊んでいると、そのうち『実像』に対してもダメージを与えられてしまいそうだ」


「なにを、なにを言っているんだァ、!! ベルを返せえええええええ」


 怒りのままに魔法を打ち出す。


「ふむ、しかしこの程度か」




 俺が打ち出そうとした魔法は、ゴアと名付けたオリジナルの魔法だ。一言で言えば、対象を"収縮"させたあと"爆散"させる魔法だ。勿論その対象は一瞬にして肉の塊と化す。


 しかしその分魔力の消費も大きく、今の俺でも一度使えば一日休まなければならないほどの魔法である。先日のスラミューイ戦ではその状況から使うことができなかったが、恐らくあいつであろうとも一撃で倒せる自信がある魔法だ。




 だがそんな使用後のデメリットからなかなか使う機会がなかった一撃必殺の隠し切り札ジョーカーともいえる魔法は、いとも簡単に跳ね除けられてしまう。


 この世界の魔法は普通、使った対象に対して魔力をぶつけた感覚があり、剣を交えるように相手にどう当たったかがわかるものだ。しかしその感覚がおかしい。まるで吸い取られるように、地面に水が染み込むように、あたった感触がしなかったのだ。

 その証拠にヤツは、左手を突き出した状態でピンピンしている。




「なっ」


 俺は次にくる倦怠感を覚悟する。冷静でいなかったとはいえ、この魔法を使うべきではなかった。


 ああ、ベル、ごめん……


「…………………なぜだ?」


 床に倒れ伏す衝撃に備えようとしていたのに、"身体のいうことが利く"のだ。つまり、魔法は発動が失敗したというのか? いやしかし確かに魔力が抜ける感覚はしたし、先ほどよりも息切れしている感覚がある。だがそれも本来襲いかかるはずの三分の一程度の倦怠感でしかない。


「俺はなぜ、立っている」


 ありえない。ありえないのだ。この魔法は本当に最後の切り札なのだ。敵に通用しなかったことは別にして、俺は床に倒れ伏しヤツに嘲笑われながら死んでいたはず。だがなぜ立っていられる? 魔力の残量がまだあることが感じられる?


「うむ、今日は説明会に来たつもりだったのだが……ああ、彼女については心配ない。デモンストレーションというやつだな。実際にやって見せた方がわかりやすいだろうと思ってな」


「なにを言っている、なぜこんなことをした! ベルになんの恨みがあるんだ。カオス!!!!!!!」


 その名を呼ぶと、相手は両手を鷹揚に広げる。


「恨み、か。そうだな、敢えて言えば彼女に対してではないのだ。この世界のシステムを作った者。そしてそれを管理している者。その対象は――――世界の管理者たる女神ドルガだ」


「ドルガ様……?」


 なぜあのお方の名前が出てくるのだ? 俺は何かこの世界の根本に関わることを聞いている気がする勘と、一部の怖いもの見たさで。

 ベルを殺されたことに対する怒りを、血が滲むほど手のひらに爪を食い込ませ必死に抑えて続きを促す。


「おいカオス! なにが言いたい!」


「その前に、まずはもう直ぐ起こることを見てから判断して欲しい。私の話が本当かどうか、その目で見ればわかるはずだ」


「なにを……はっ? えっ!?」


 部屋中に飛び散った"ペンキ"――ベルの血液やら肉片やら――が、逆再生するように部屋の中央付近、カオスが立つその少し前の辺りに集まっていく。

 粉々に壊れた人体模型が一人でに再生するかのように、神経が、血管が、骨が、筋肉が、臓器が、肉が、脳が、顔面が、四肢が、肉体が形取られていく。

 勿論足元に転がっていた眼球も、糸で引っ張るように直線的に一箇所へ向かう。


 CG映画の一場面を見ているような違和感。例え異世界であろうとも、本来起こりえないはずのことが起きていることに対する一種の拒絶。自分一人が別の空間にいて、蚊帳の外から世界が創り替えられていくのを眺めているような感覚に襲われる。


 そうして三十秒も経たないだろうか、瞬く間に『ベル=エイティア』の姿を取り戻したバラバラの肉片だったソレは、糸の切れた人形ごとく床に倒れ伏した。


「ふむ、まずはこう言わせてもらおう。"レベルアップおめでとう"、と」


 それを俺と一緒に眺めていたカオスは、手をパチパチと打ち鳴らした後そう言う。


「なにっ?」


「レベルアップだよ。知っているだろう。経験値を貯め、より強くなっていく行為。君はそれを見る魔法を創り出した筈だが?」


「何故それを! ……ちっ」


 カオスのやつはどこまで知っているのか。もしかして、俺たちのあらゆる行動があちらには筒抜けなのか? だとすれば恐ろしいことであるが。


「いや、その前にベルをこちらに寄越せ!」


俺は理屈はどうにしてもとにかくまずは生き返った彼女を確保しようとする。


「待て。そう焦るな、神に選ばれし者よ」


「なに?」


まさか、俺が転生者だということまで知られているのか!? カオスとは一体何者なんだっ。俺が教えるかもしくは転生というシステムに直接関わっている者しか知ることのできないはずの情報だ。


……つまりカオスは、あらかじめこの世界に内包された存在ではない、ということか? このドルガという異世界から逸脱した存在。そう考えれば話の中に辻褄が合う部分も出てくるのでは、と荒唐無稽なことを妄想してしまう。


「今回はこの娘自体に用はない。先ほども言ったが、ある事を説明するために必要な手順を踏んだだけである。ふん、もしこの話を聞けば、貴様は私たちの立場に来るかもしれないな」


「なにを戯言を! お前がどんな存在であろうと、肩を持つことなんてありえないぞ!」


「そう言っていられるのも、知るべき事を知らないが故だな。いや、意図的に知らされていない、騙されていると言った方がより正しい表現か? ともかく、まずはステータスを開くのだ。さもないと、この娘が今度はどのような姿になるか、想像したくもあるまい」


「……くそっ!」


 だがなぜだろう、俺は怒りはしつつも、脅されているというのに目の前の敵であるはずの存在の言葉が、どうも軽んじられないのだ。陛下の勅命とも違う、ベルとの約束とも違う。言いようのない『自主的な強制力』のようなものを感じるのだ。

 そうしなければならない、そうした方がいい。頭の中の俺が呼びかけてくる。本来いうことを聞く必要なんて全然ないはずなのに、それが世界の摂理である本能的な許容感が生まれるのだ。






 ……そうだ、これはまるでドルガ様と会話をしたときのようだ。神を前にした絶対的でかつ揺らぐことのない正しい価値観にさらされている空気だ。それを受け入れるのが人間として当然のことであり、従うことこそがそこに存在している唯一の理由かのような強制力なのだ。


「す、ステータス!」


 そして俺は言われた通りステータスを開いた。


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