マトリ-魔酒取締官

初期タッ君

サントリーの角瓶と二日酔いの恐怖

 ストロングゼロが500円を超えていた。

 ロング缶に手をかけた鳥井信太郎は、値段表示を見て固まる。

 ついこの間までは450円だったはずなのだが。

 また酒税が上がったのだろうか。

 ポケットに突っ込んだイタリアンレザーの三つ折り財布を取り出し小銭入れを開ける。宙に浮くんじゃないかと思えるほど軽い財布の中には、100円玉4枚と61円が寂しげに散らばっていた。

 ため息をついて小銭入れを閉じる。

 これでは、350mlを買うのが関の山だ。

 鳥井信太郎は1ヶ月の酒代を10000円と決めている。

 どうせ職務で大量に酒を飲まされるのだから、普段使いの酒はカットできるだろうという考えから始めた節約だったが、酒に浸り切った肝臓と喉は休日休肝日関係なく狂ったように酒を求める。月末の酒代切れに頭を悩ますのも、これで何度目かわからない。

 そもそも、張り込み中の酒代が経費にならないのはおかしくないだろうか。

 どうせ自分で払うのなら、せめて税金だけでも減らして欲しいものだ。

 未練がましくラベルを指でなぞる。「アルコール分/9%」の表示が尾を引く。

 鳥居は誘惑を断ち切るように小さく頭を振り、缶を棚に戻してトレンチコートを翻し、コンビニの出口へと向かった。


「何だよ、知らなかったのか?二日前の酒税法改正で缶チューハイの税金が700円/Lに引き上げられたんだよ。一気に100円近く値上がりたあ、いよいよ庶民の娯楽もおしまいかも知れねえなあ」

 張り込み場所であるビルの屋上に戻り、500円の愚痴をつらつらと並べた鳥井に対して、山崎はヨレヨレのチェスターコートに手を突っ込んだまま「そりゃそうだ」と一笑し、驚くべき事実を告げたのだった。

「何だよそんな顔して。ビール税が880円/Lまで上がったときには政府の横暴だとか何とか言って真っ先に国税庁に鬼電してたくせに。マトリが法改正に無関心たあこの国も落ちたもんだねえ」

 返す言葉もない。

 普段はビールとワインしか飲まんからな、と言い訳がましく呟いて鳥井は政府支給の角瓶に手をかける。金属の擦れる音に続けて蓋が開き、瓶の周囲に芳しさが漏れ出した。口をつけようとして思いとどまる。

 今ウイスキーを飲んだら、突入前に酔いが回ってしまう。

「しっかしわかんねえなあ。せっかく角瓶がタダで貰えるんだから、家でハイボールでも飲めば良いのに」

「考えてみろ。仕事で角瓶、家では角ハイボール。もう角瓶を見るのも嫌になるぞ」

 うわそりゃおっかねえ、と山崎が笑う。

 結局ワインが一番うまいしな、と鳥井は角瓶の蓋を閉めつつ言う。

 まあ、ワインを飲むのは角瓶の飽きを防止するためというよりは、半ば儀式のようなものなのだけれど。

 角瓶を一気飲みして現場に突入し、戦闘中に吐き気が堪えられなくなり盛大に戻したのはいつの話だったか。休日、角瓶に口を付けなくなったのはそれからだったと思う。

「山崎、お前まだほろよい残ってるだろ。少し分けてくれ」

「はあ?なんだ鳥井、もしかしてまぁた金欠かよ。だから酒代1万円でやりくりなんて無茶って言ってんじゃん。もっと酒に金を回せ。俺みたいに自炊すれば今の倍は酒が飲めるってのに」

 ほろよいをたかる男は世界で一番だせえからな、と文句を垂れつつ山崎は黒革のメッセンジャーバッグから「ほろよい白いサワー」を取り出し、鳥井に投げてよこした。

 鳥井は缶を片手で受け止め、助かる、と呟く。

 ステイオンタブを引き抜き缶を傾けると、カルピスの甘みが口中に広がり思わず顔をしかめる。山崎には悪いが、やはりほろ酔いは甘すぎて口に合わない。もう少しアルコールの味が強く出る方が好みだ。

 舌に味が残らないよう、缶を垂直にしてほろよいを喉に流し込む。5回喉を鳴らしたところで、手から重みが消えた。タブの周りについた滴を舐めとり、手に力を込めると、350ml缶が断末魔と共に潰れる。

「ありがとう。そんで、被疑者の様子はどうだ?」

 屋上の凍てつくような床の上にひしゃげたアルミの残骸を転がし、山崎の隣から対面のビルの窓を覗き込む。

「んー、まだ来てないっぽいなー」

 目視で確認できる限りは、窓越しの暗闇の中は沈黙で埋まっていた。何かが動いている気配は感じられない。

「山崎、確認するぞ。被疑者2人とその取引相手が取引を始めた時点で突入部隊に連絡。俺らは直接窓から突入し、」

「現場を撹乱して出入り口を塞ぎ、突入部隊が合流するまで時間を稼ぐ、だろ。もう聞き飽きたって。それよりさ、本当に今日来んのかよ。寒いし俺もう帰りたいんだけど」

「エスからの情報提供だ。もし虚偽申告ならマトリとの契約反故で摘発してやればいい」

 鳥井がキッパリと言い切り、うわーヤベーこえー、と山崎が茶化して声を上げ、そして鳥井が手を突き出して山崎を制した。

 窓越しの廃墟ビルの暗闇に、何かが揺らいだ。

 屋上の空気が張り詰める。潰れたアルミ缶が風に煽られカラカラと転がる。

 目を凝らした。

 暗闇の揺らぎが、徐々に人の形を取る。闇の中に、二つの頭がうごめいている。

 山崎が呟く。

「ラッキーだな俺ら。今日は定時帰宅だぜ」

 同感だ。

 鳥井は、角瓶の蓋を回した。

 

 三津は緊張していた。

 なんせ初めての魔酒取引である。

 肝が潰れるような大金をかけて足と掌に強化装置を埋め込んだのもつい最近のことなのに、こんなにトントン拍子で魔酒まで手に入るとは。世界が都合のいいように動きすぎていて、少し心配になる。

 調子を確かめるように手を固く握り、ゆっくりと開く。

 少しの痛みもない。皮膚下5mmに埋め込んだナノマシンは、すっかり体に馴染んでいるようだ。

 半歩ほど後ろを歩く井端が心配そうな声を出した。

「先輩、なんでこんな廃墟ビルを取引場所に指定したんです?相手が集団だったら、俺らボコられて金だけ取られて終わりかもしんないっすよ」

 もちろん三津もその事態を考えていないわけではない。だが、

「井端、お前ビビってんのかよ。俺らクソ高え金出して体改造したんだぞ?ボコられそうになったらボコリ返すまでよ」

 それに、先輩の顔馴染みと言うだけで手術を定価の6割で引き受けてくれ、術後のケアまで嫌な顔一つせずこなしてくれたあの気さくな医者が、怪しい業者を紹介するとはどうしても思えなかった。

 いやそれもそうですけど、と何か言いたげな井端を蛇の睨みで黙らせ、三津はビルの階段を登る。待ち合わせは廃墟ビルの7階に20時。スマホを開いて時間を確認すると、暗闇でブルーライトに縁取られた「19:40 」が浮かび上がった。

 一息つく。とりあえず、遅刻は免れた。不測の事態に備えて早めに家を出たのが功を奏したらしい。こういう取引は、依頼した側が後に来た時点で成立しなくなるのだ。三津は常識を知らないタイプの人間ではあったが、生き残るための基礎知識は弁えていた。

 本気で蹴飛ばせば手すりごと腐り落ちるんじゃないかと思える錆び付いた階段を、靴音を鳴らして上がりながら、「それに」と三津は付け加えた。

 手すりを命綱のように両手で掴み、そろそろと階段を上がる井端が、訝しげに三津の背中を見上げる。

「こういう廃墟の方が、雰囲気あってかっこいいだろ」

 映画の見過ぎです、と井端が呟く。三津は聞こえないふりで階段を上がる。


 7階につく頃には、ほこりのせいで三津の目は少しかぶれていた。人に見捨てられて都会の片隅でひっそりと死んでいくビル群には、例外なくほこりと雑草が住み着くものらしい。

 目を凝らしてあたりを見回す。宙を舞うほこりが窓越しの月明かりに照らされ、まるで窓と床を繋げる一筋の光の道のように見えた。昔化学の実験でハゲ散らかした白衣の教師が薄まった牛乳にレーザーを当て、光の筋を見せびらかしていたのを思い出す。原理的にはあれと同じだろうか。

「まだディーラーの奴らは来てないっぽいっすね」

 あたりを見回した井端が安心したように言う。

「それなら先に現金の確認をしておくか」

 三津は窓の近くに寄っておもむろに財布を取り出し、月明かりを頼りに諭吉の人数を数え出す。1、2、3、

「先輩、一応アルコール入れときません?俺やっぱまだ怖いっす。もし相手が奇襲してきたら俺らイチモーダジンっすよ」

 4、5、「なら飲んどけ」6、7、

「よっしゃ!先輩、このワイン知ってます?『デル・スール・なんとか』って言う赤ワインなんですけど、」

 10、11、

「なんとアルコール14度!亜酒指定かかってるからなかなか手に入らなくてぇ、知り合いの酒種取扱資格持ってるヤツに回してもらって」

 15。ぴったりだった。魔酒6本とカプセル2個で15万円というのは正直破格すぎるが、相手が指定してきたからには何も言わないのが賢明だろう。どうせ『初回限定価格』と言うやつなのだろうし。

 諭吉の集団を再度財布に収容し、ウダウダと「デルスールがいかに希少で手に入れるのに苦労したか」自慢を繰り返す井端に向き直る。

「おい。そのワインっていくらしたんだ?」

「え?」

 三津は井端の方に歩きながら、

「そのデルスールなんとかだよ。亜酒指定っつっても14度ならダークウェブに潜る必要もねえし、高目に見てもせいぜい1万ってとこだろ」

 さっきまで背中を向けてぺらぺらと一万円札をめくっていた三津の急な食いつきに眉をひそめつつ「そうですけど」と井端が答える。

 三津は井端の前に立ち、デルスールなんとかをひったくり、

「ならこれで五千円ずつだ」

 一気に飲み下した。

 あーーーーーーーーっっ、と井端が声をあげる。

 三津は日に焼けた首元を晒しながらごくんごくんと喉を鳴らし、内容量の7割ほどを胃に収めてようやく口を離した。

「ほらよ。ちょうど半々くらいだろ」

 よく考えたら俺のほうが強いんだし、俺が全部飲んでもいいくらいだけどな、なはははは。笑う三津を、井端が恨みがましい目つきで睨む。

「そんな顔すんなって。魔酒ゲットしたら俺のちょびっと分けてやるから」

「それは絶対に嘘っすね」

 先輩への尊敬をため息に乗せて二酸化炭素と共に吐き捨て、井端は残りのワインを飲み干しにかかる。血のような酒がみるみる瓶の中から干上がっていき、内壁にへばり付いている一滴まで舐めとってやろうと井端がワインの口に舌を突っ込んで大きく一回転させ、


「おや。待たせてしまいましたか」

 売人が闇の中から現れた。


 井端が慌ててワインから舌を引き抜く。三津は距離を取るように3歩ほど後ろに下がる。

 売人は二人組だった。真っ黒のハットを目深に被ったスーツの男と、肩から袋を下げた筋骨隆々の大男。まだ何人か手下を紛れ込ませているかもしれないが、15万ぽっちの取引にそこまで気合は入れないだろうとも思う。

「そんなに気張らないで。別に取って食おうってわけじゃありませんから」

 スーツの男がそう言って白手袋をはめた右手を軽く動かすと、それを合図にして大男が前に進み出た。

「右手に15万を持ってこっちに来い。右手で15万を渡して左手で袋を受け取れ。取引は同時だ」

 大男の言われた通りにする。三津は財布から諭吉を引き抜き、右手に持って袋に歩み寄る。どうしても袋に視線が向いてしまう。この中に6本もの魔酒が入っていると思うと、心臓が早鐘を打った。

 左手で袋を受け取り、15万を渡した。隙を見せないよう前を向いたまま井端の隣まで後退する。取引が終わった安堵と疲労で、どっと汗が吹き出た。

「先輩!中身確認しましょう!」

 井端が興奮で声を裏返しながら叫ぶ。馬鹿お前そんなこと、と三津は慌ててスーツの男に視線を送るが、男は確認したければご自由にとばかりに小さく頷いただけだった。

 それならば遠慮なく確認させてもらおう。三津が大きく袋の口を開けると井端が待ってましたとばかりに中を覗き込み、所狭しと詰め込まれた魔酒を見て金切り声を上げて、


 サイレンが鳴った。


 三津は袋の口を開けた状態で凍りつき、井端は口を馬鹿みたいに開けたまま固まり、15人の諭吉の安否を確認していた大男とスーツの男はわずかに顔を歪めた。

「あなたたちが呼んだんですか?」

 スーツの男が聞く。

 違う。そんなわけがない。

 三津は無実を証明しようと口を開くが、言葉が喉に貼りついたまま出てこない。袋が手から滑り落ち、ガラス同士がぶつかる音が床に響いた。酸欠の金魚のように口をパクパクさせる。頭がうまく働かなかった。目の前が焦りで白くなっていく。

 今の音は確かにパトカーのサイレンだった。ということは、もうすでにこのビルはマトリに包囲されていて、今にも全身武装した突入部隊が乗り込んでくるのかもしれない。そうなったらどうなる?捕まる?ダメだ、それはダメだ。

 必死で働いたバイトの日々が、肝の潰れるような大金が、掌に埋め込まれた装置が、あの医者の気さくな笑顔が、頭の中でぐるぐると回る。

 強化装置をつけてまだ1ヶ月も経っていないのに。俺が捕まったら井端はどうなる?友達は?彼女は?両親は?みんなの顔が卒業アルバムを高速でめくるように脳内に次々浮かんでは消える。笑顔と泣き顔と怒り顔が点滅しながら脳味噌を侵食し頭蓋を満たし目を鼻を耳を詰まらせ口から嗚咽となって漏れ、


 窓ガラスがはじけた。


「おらああああああああああ!!!!!」

 まるでハリウッドの一場面のようだった。窓ガラスから靴が、足が、腰が、スローモーションで入ってくる。ガラス片がゆっくりと落下する。ヨレヨレのチェスターコートとトレンチコートが着地し、ガラス片が床に当たって砕け、積もったほこりは反動で宙を舞う。周囲が月の光を浴びて煌めき、チェスターコートが吠える。

「マトリだ!お前ら魔酒取締法違反で」

 売人の大男が腕を振りかぶった。

 捉えきれないスピードで肉迫する拳がコート野郎の顔面に吸い込まれていく。コート野郎は姿勢はそのまま指だけを動かし、三津はコート野郎の陥没した顔面ときりもみに吹き飛ぶ体を頭に浮かべ、

 閃光が舞った。

「_________逮捕する」

 コート野郎は吹き飛んでいなかった。

 大男はパンチを打ち出した姿勢のまま固まっていて、拳は依然としてコート野郎の鼻先にある。コート野郎が大男の肩を小突くと、大男はゆっくりと横に倒れた。

 肉の焦げた臭いが鼻をついた。

 ヤマザキお前やりすぎだろ、と突っ立ったまんまのトレンチコートがぼやいた。

 どうやらあのコート野郎はヤマザキというらしい。いや今そんなことはどうでも良くて、

__________こいつら、強化人間か。

 予想はしていた。魔酒を取り扱う人間は多かれ少なかれ強化手術に手を染めている。日々そいつらを相手取る魔酒取締官が対抗措置として手術を導入したとしても別段不思議ではない。

 ただ、問題は________

 横にいる井端に視線を投げる。井端も事態の不味さに気づいたらしく、助けを求めるように三津に目を向けていた。

 暗がりに目を凝らす。

 おそらく非常階段がマトリの背後にある。逃げ切るには、マトリを突破し、非常階段に辿り着き、待ち受けているであろう突入隊を回避して降りていくしかない。

 やれるだろうか。

 ヤマザキが再度吠える。

「お前らは完全に包囲されている!大人しく投降しろっ!」

 映画の見過ぎだろ、とトレンチコートが再度ぼやく。

 三津は下にいる突入隊を想像する。ギラつく視線と感情の読めない鉄仮面と自動拳銃とライオットシールドがすぐそこまで来ている気がした。友達と彼女と両親の顔が目の前で点滅する。

 自分に問いかける。

 やれるだろうか。

「聞いてるのかお前ら!おい、」

 やれるだろうか。

「手を上に上げてその場で一回転しろっ!」

 やるしかない。

 鋭く叫ぶ。

「井端っ!」

 その叫びが合図だった。

 打ち合わせなど必要ない。ただ、目の前の敵をぶち倒すのみだ。

 井端が手をヤマザキにかざす。三津は足先に力を込めた。ふくらはぎに埋め込んだ加速装置が熱を帯びたのがわかる。ふくらはぎの熱をつま先に移動させるイメージで、三津は床を蹴る。一瞬の浮遊感を得て、体が弾丸のように加速する。

 勢いそのまま、三津は肩からトレンチコートに激突した。トレンチコートがひらめき、人間の重みで肩の骨が軋む。トレンチコートがわずかに宙に浮く。トリイ、とヤマザキがこちらを向いた瞬間、ヤマザキの体が炎に包まれる。井端の火炎だ。トリイは受け身も取らずに床に叩きつけられる。

「逃げるぞ!」

 チャンスは今しかない。死に物狂いで非常階段へと走る。加速装置を使おうかとも思ったが、その勢いのままドアをぶち破って落下しては目も当てられない。

 しかし、本当にワインを飲んでいてよかった。井端の一言がなければ、加速装置も火炎装置も日の目を見ることなくブタ箱へ__________

「______ガキが。舐めやがって」

 衝撃。

 背中に電撃が走った。

「あ゛ぁっ......!」

 床に倒れ込む。全身が熱に包まれたように熱い。目の奥が乾いて痛み、脳がグジュグジュに溶けたかのように、世界が白黒の点滅を繰り返した。腕と足の筋肉に何本も針を刺されて標本づけにされているような感覚。体の痙攣を意識の奥で感じる。

 薄れゆく意識の中で、三津はヤマザキの声を聞いた。

「______ねーじゃん。相手______」

「お前______って!こんな______」

「______」

「______」

 意識が途切れる。


 鳥井は気絶した取引相手たちを見下ろしていた。

 二つのアホ面が、仲良く白目を向いて転がっている。

「どうすんだこれ」

「どうするって、だってしょうがねーじゃん。相手から攻撃してきたんだから、正当防衛だろ。せいとーぼうえー」

 ふてくされたように答える山崎。

 何でこいつはこう、いつもいつも先走るんだ。

 鳥井はこめかみに手を当てる。

 魔酒の単純所持は現行の魔酒取締法だと違法にはならない。足元に転がるアホ面たちはまだ魔酒に口をつけておらず、つまりこいつらは現在『体に強化手術を施し魔酒取引の直前で捕まった一般人』でしかない。

 せめて取引した魔酒に口をつけるまで待つべきだったか。

 空になったデル・スール・カベルネソーヴィニヨンが寂しく床に転がっている。14度の亜酒で乾杯とは真面目だねえ、と山崎が皮肉る。

「山崎。俺は手伝わないからな。始末書」

 山崎が弾かれたように鳥井を見る。

「あぁ!?お前、それはねぇって!こんな始末書1人で書くなんて無理に決まってんだろ!」

「知るか!電撃をぶっ放したお前が悪いだろ!加速装置を使えばいくらでも対処出来ただろうが!」

 だって、と山崎が勢いづいて反論しようとして、鳥井が理屈でねじ伏せてやろうと大きく息を吸い込んで、

 階下から地鳴りが聞こえた。

 タイムリミットだった。

「突入隊だ。とにかく後始末は任せたぞ。そいつらは魔酒取引で厳重注意。初犯だから実刑はなしだ」

 トレンチコートを翻す。

 おい待て鳥井、全部俺に押し付けて逃げるのか、と叫ぶ声を背に、鳥井は窓ガラスから飛び降りた。

 一般人に気を取られて肝心の被疑者が逃げ出した、となれば状況はさらにこじれる。始末書の幻影に背中を押されるようにして、落下速度が上がる。全身を暴風が叩きつけ、台風の中にいるのかと脳が錯覚する。鳥井は空中で体勢を立て直し、

 そのまま地面に激突した。

 呼吸が止まる。衝撃が骨を貫き筋肉を引きちぎり腎臓と肺の片方を潰し、頭蓋をぐわんと大きく揺らして通り抜けて行った。

 痛みで意識が朦朧とする。

 強烈な痛みが回復装置を目覚めさせる。

 全身に埋め込まれた装置が、アルコールを燃料にして体を修復していく。骨がくっつき筋肉が繋がり腎臓と肺が再構成されていくのを感じ取りながら、鳥井はビデオの巻き戻しを見ているようだな、と思う。

 まるで白昼夢の中にいるかのような現実感の無さだ。

 巻き戻しが終わった。

 大きく息をついて上体を起こす。

 思ったよりも回復が早い。突入前に角瓶を多めに飲んだのが功を奏したらしい。

 鳥井はトレンチコートのポケットをまさぐり、一粒のカプセルを取り出す。 

 『超高濃度魔酒カプセル響21年型』。

 ウイスキー自体が得意なわけでなかったが、このカプセルはやけに自分の体に馴染んだ。口に放り込み、一息に飲み込む。カプセルがゆっくりと食道を伝わっていく。喉を這う感触が肋骨を通り抜けて沈黙し、腹の中で何かが膨らみ、

 視界が一気に歪んだ。

 強烈な吐き気が脊髄を通り抜け胃を殴りつける。体をくの字に曲げ、喉をキツく絞めて逆流を堪える。血中アルコール濃度が急上昇していくのを感じる。

 意識が飛ぶ前にケリをつけなくてはならない。鳥井は鼻に力を込める。鼻の穴がぷうっと膨らみ、嗅覚強化装置が作動する。スーツ姿の男が残した臭いが、見えない道となって鳥井を導く。

 まだ近くにいる。足に力を込める。

 熱をつま先に溜め込み、鳥井は地面を蹴りつけた。体がミサイルのように男の元へ飛ぶ。ビルの壁を突き破る。とっさに頭を庇った腕があり得ない方向に曲がる。すかさず再生が始まる。

 まさに鉄砲玉になった気分だった。

 壁にぶつかり、貫通し、再生し、また壁を貫通する。急に空気の抵抗がなくなり、路地裏に飛び出す。受け身も取れないままにゴロゴロと転がり、『喧嘩上等』と殴り書きされたポリバケツに体ごとぶつかってようやく止まる。バケツが倒れて生ゴミと空き缶が周囲にぶちまけられ、野良猫がなあっ、と鳴いて歩道へ逃げ出した。

 おー痛え、と呟きながら立ち上がり、鳥井は前を見据える。


 目の前にスーツの男がいた。

 信じられないものを見る顔でつっ立っている。

「悪いな。取引相手の始末で遅くなっちまった」

 男は何も言わない。じっと鳥井を観察している。

 鳥井が一歩踏み出すと、男は気圧されたように一歩下がる。

 もう一歩踏み出す。

「改めて。地方厚生局魔酒取締部の魔酒取締官、鳥井だ」

 もう一歩。

「浦治澄流被疑者。魔酒取締法違反で逮捕する」

 もう一歩。

 動いたのは同時だった。

 鳥井が地面を蹴って加速し、男が左手から電撃を放つ。電撃は鳥井を直撃し全身の皮膚と一部の臓器を焼き焦がしたが、鳥井の靴底は止まることなく男の鳩尾を突き刺した。肋骨が何本か折れた音が靴底に響き、男の体が一瞬宙を舞い、そのまま路地裏の奥へと転がっていく。ぶちまけられた生ゴミが男の体に絡みつき、弾き飛ばされた空き缶が抗議の音を立てた。

 鳥井は一切の容赦をしない。トレンチコートから手錠を取り出し、男を追って奥へと入り込んでいく。ボロ雑巾のように寝転がり、横向きでかろうじて息をしている男に馬乗りになり、右腕を掴んで手錠をかけようとして、

 もろに爆炎を喰らった。

 男の右手から出た炎は鳥井の顔を喰らい尽くし、あらゆる臓器を焼き尽くしてなおトレンチコートの上から鳥井を燃やし続ける。鳥井の顔は半分が焼け落ちて眼球と筋肉が剥き出しになっており、その姿は実験棟の人体模型を彷彿とさせた。

 男は全身をバタつかせ、鳥井の拘束から逃れようとする。鳥井はぼんやりとした意識の中で、可哀想だなあ、と思う。

 本当に、本当に可哀想だった。

 この程度の強化手術でマトリに対抗しようとするいじましさが、鳥井にはどうしようもなく悲しく思えた。

 眼球が男を捉える。鳥井は右手にあらんかぎりの力を込め、男の右腕を握り潰す。手のひらに骨が砕ける感触が伝わる。

 路地裏に悲鳴がこだました。幾重にも幾重にも折り重なる悲鳴と嗚咽を、鳥井は男の左腕を握って止めた。

「大人しく投降しろ。次は左腕だ」

 鳥井がそうささやくと、男は脱力してうなだれる。

 ばけものが、と男の口が動いた。

 知ってるさ、と鳥井は呟く。

 遠くからサイレンが近づいてくる。


「それで?結局被疑者は肋骨骨折3箇所と右腕の前腕骨幹部骨折で全治4ヶ月ってどういうこと?お前俺になんかいうことないの?」

 やりすぎなのはどっちですか鳥井取締官ー、と山崎が茶々を入れてくるのが、ただただ鬱陶しい。鳥井は話題を別に逸らすことで追及を逃れる。

「それより、あのアホ面二人組はどうなったんだよ」

「あー、あいつら?もう二度とやりませーん、って魔酒6本とカプセル置いて逃げ帰ってったぜ。今頃ママのおっぱいでも吸ってるんじゃねえの?いやあ、ガキの泣きべそ見るのは心が晴れやかになっていいよなぁ」

 ゲス野郎が、と鳥井が悪態をつく。

「まあそう言うなって。そういや、あいつらが置いてった魔酒の中に、一種類だけ珍しいのがあったぜ」

 なんだと思う?と山崎。

 なんでもいいよ、と鳥井。響21年の副作用か、魔酒の話をしてるだけで気分が悪くなってきていた。早く家に帰って休みたい、と切に願う。

「なんとロシアンスタンダードウォッカだ。今やロシアの一部地域でしか流通してないなかなかのレアもん。あいつら売人としての腕は確かだったってことだな」

「捕まってちゃ世話ないけどな」

 そりゃそうだ、と山崎が大口を開けて笑う。

「んじゃ鳥井取締官、犯人逮捕を祝って打ち上げとしゃれこみましょうや。ビールとワインは俺の奢りでいいっすから」

「冗談だろ?もう酒は勘弁してくれ」


 夜は更けていく。

 マトリの夜明けは、もうすぐだ。

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