雛牡丹を摘むへの応援コメント
壮絶でした。
文章を食い入るように読みました。
美しき頽廃。素晴らしかった。
「雛牡丹様は憐れではございません。雛牡丹様は今わの際まで、華であらせられました。華と咲き、華と散られましてからに、御情けは不要にてございます」
と言う椿さんの言葉、痺れました。これが、すべてを語っていると思いました。
だからここが終わりだと思いました。しかしまだ先がある。スクロールをすると、花の最期が在りました。
彼女が歌いだしたとき、梅と桜の次はなにが咲くのだろうなどと、はしたないことを考えてしまいました。2月、3月と来るならば、4月に咲く花だろうかと。
想像を絶していました。
それはつまり、雛牡丹さんの才能のすべてに思いが到らなかった私の無才。
心の中で深く詫びるとともに、彼女の華を知って胸がいっぱいになりました。
朽ち果てることと咲き乱れること。
盛者必衰ではなく、盛りのままに最期を迎える美しさを、私は初めて知りました。
どれだけ言葉を尽くしても、この作品を語りきることはできません。
ひとつ、ふたつ、落とすたびに汚れて行くよう。
されども言葉を紡がずにはいられない。力のある、凄みのある作品でした。
そうそれは、あの華、雛牡丹さんのように。
作者からの返信
お読みいただきまして、ほんとうにありがとうございます。
詩一さんから有難い御言葉を頂戴し、こつこつと執筆を続けているなかで非常に励みになりました。
華と咲き、華と散る。腐ることなく、散る花の潔さ。その部分を拾いあげ、盛りのままに最期を迎える美しさと仰っていただけたこと、とても嬉しいです。汚れるなんてとんでもない。詩一さんの言葉が、どれほどに暖かく春の日差しのように胸に届いているか。花を活かしてくださっているか。
幾度御礼を申しあげてもたりません。
実をいいますと、わたしは頽廃を愛しながらも、花が散るから美しいとは想っていないのです。散らない花があれば、どれほど。そう想いながらも、或いはだからこそ、散る華の誇らしさ、散る花に美しさを見いだしてしまうことの悲しさ、そういったものを書かずにはいられないのです。
これからも、それを書き続けていきます。
編集済
雛牡丹を摘むへの応援コメント
だいぶ前にこの作品を読ませて頂き、応援コメント、レビューを書かずにはいられない感動と感傷があったのですが、なかなか大きすぎる感情がうまく言葉にならず、今まで書けずにいました。すみません。
ふと息を吸うと、私たちは椿と同じ空気を吸っています。
椿の感じている羨望も恋慕も憧憬も、それから少しの嫉妬と畏怖も、自分のことのように感じています。
それから目を閉じると、病に身体を蝕まれながらも、道理の及ばない理不尽に全てを奪われながらも、それでも凛とした居ずまいを崩さずに散っていった雛牡丹の姿が見えます。
それから才咲きという病。
恵みであると同時に、一種の呪いでもある才能の本質をまっすぐに突く、凄まじい発想だな、と感じさせられました。
最後に。
個人的に印象的だったシーンを追記させて頂きます。
中盤、才咲きの病が腕まで転移し、舞を失って以来、ひたすらに努力を重ね身につけた琴すらも奪われた時に、雛牡丹は動かぬ腕を見て、あろうことか笑います。
雛牡丹はやはり泣きたかったと思います。
それでも、悲しみに泣くことよりも怒りに笑うことを選ぶしかなかった。
雛牡丹は華だったから。誰もが雛牡丹の華たることを望んでいたし、何より、雛牡丹自身が華で在り続けたかったから。
絶望して泣くことは許されず、怒りに凄みを重ねて笑うしかなかった。
そんな時、彼女の隣には代わりに泣き崩れてくれる椿がいました。
椿は、雛牡丹が泣かないのに側務めである自分が泣く訳にはいかない、と涙を止めようとしていますが、きっと泣いてよかった。
椿が泣くことが雛牡丹にとっては救いだった。
華ではない雛牡丹の弱い感情を、代わりに椿が請け負うことで、最期まで彼女は華であり続けることができた。
そう感じました。
素敵、というありきたりな言葉を使うことが躊躇われるほど、濃密で雄弁な作品でした。
作者からの返信
國枝 藍さん
素晴らしく美しい御言葉の数々、真にありがとうございます。きらきらと輝く水晶のような言葉をてのひらいっぱいにいただき、感激致しております。
椿に感情移入して、雛牡丹に寄り添い、とてもたいせつに読んでくださったとのこと、物書き冥利につきます。ほんとうに感謝の言葉もございません。
印象に残った場面を教えていただき、重ねて御礼申し上げます。ほんとうに…仰るとおりだとおもいます。雛牡丹が華であり続けられたのはそのよわさをひき受けてくれる椿がいたからだと。その病を美しいと肯定し、その不条理に胸を痛め、涙し……。病は雛牡丹にとっては仇でしたけれど、椿がいることで絶望を踏みつけ、その憎き病すらも美しく身に纏って咲き誇る戦いかたを択べたのだと。
……だからこそ最期に愛した華を摘み、生涯その華を胸に挿し続けるのは椿であったのでしょう。雛牡丹の望みのなかで唯一、叶ったのがその願いだとおもいます。
最後まで物語を愛でていただき……ほんとうにありがとうございました。國枝 藍さんに読んでいただけて非常に嬉しかったです。
雛牡丹を摘むへの応援コメント
いつにもまして色鮮やかな作品でした。
短編映画で見たい。
アニメの方が魅力が伝わるかな?
文章や内容は皆々様のコメントで十分に説明してもらっているので
割愛しますが、いつもいつも夢見里さんの作品は色が溢れているのですが
今回はそれがまたギュッと凝縮されていると思います。
ラストの方の梅や桜が咲き誇り、様々な花々が口から溢れ、涙すら花と化す。
まさに華。壮絶華麗な華の終わり。
生きざまに惚れました。映像美に惚れました。圧巻です。
作者からの返信
わわっ、橘紫綺さん、いつもながら有難い御言葉を頂戴いたしまして、感謝いたします。
橘紫綺さんの御言葉がどれほど執筆の励みになっていることか…
頭のなかに浮かんだ絵画や映像を小説のかたちにする…というのが、どうにもわたしの執筆の癖のようなのです。絵を描くように小説を書く、といいますか。読者さまにもちゃんと映像をお届けできればよいのですが…ますますに精進あるのみですね。
華は咲き、華は散る。散らない華があればと、ひとは願うけれど、やっぱりどうあろうと最後には散るのです。ひとがいつかはかならず、死を迎えるように。
昨年の電撃大賞最終候補の《死者殺しのメメント=モリア》はその題名のとおり、memento moriが主題でしたが、こちらはcarpe diemを意識しています。
雛牡丹を摘むへの応援コメント
一語一語を摘むように読み進みました。
雛牡丹の壮絶な人生が、美しく、烈しく、儚く、まさに華のようだと…
ラストの紅梅と桜の莟が畳を埋め尽くしているシーン、どことなく寺山修司の映像を思わせる、息をのむ雰囲気に惹かれました。
雛牡丹の最期の歌声は、一体誰に向けて唄ったものだったのでしょう。もしくは、唄わざるを得なかったのか、ただ唄わずにはいられなかったのか。
想像を超える逸品だと思います。面白かったです。
作者からの返信
長門拓さん
お読みいただきまして、真にありがとうございます。
頽廃の美を意識して綴りましたが、独り善がりではなく、ちゃんと読者さまにつたわるように表現できていたようで、胸をなぜおろしております。て、寺山修司さんですか…まさか、斯様に身にあまる有難い御言葉を掛けていただけるとは…恐縮すぎて…なんと御礼を申しあげていいのか…
雛牡丹は…はてさて、誰のために歌ったのでしょうか……みずからのためか、椿のためか……それともただ歌わずにいられなかったのか……読者さまに委ねたいと想います。ただひとつ。咲き誇る雛牡丹を摘んだのは椿です。失われた百花の王を胸に一輪挿しにして、これからも彼は生き続けるのでしょう。
雛牡丹を摘むへの応援コメント
夢見里さんの春琴抄のオマージュ……! と、気になってたまらずに飛んできました。
もう、すごく壮絶で、美しいですね……!
冒頭の可憐な脚の描写からもうこの世界に引きこまれていました。
身体に蕾の咲く病の美しさと残酷さ……。病が進み琴も手に取れなくなったときの雛牡丹の絶望はいかばかりだったでしょうか。
長く生きられないと悟った雛牡丹は、短い人生を華として咲こうと決意した。自分の生を哀れまれたりしたくないという矜持を感じました。まだ幼いのに意志を貫いた壮絶な生きざまが衝撃的でした。
美しいような、怖ろしいような、愛しいような……様々な感情があふれていて、うまく言葉になりませんが、深く心を動かされました。
たしかに春琴抄の世界ですが、見事に夢見里さんならではの魅力が加わって、また別の読後感を残す作品となっていますね。
癇癪持ちで暴力的でもあった春琴と比べて、雛牡丹には内向的なやわらかさを感じました。
春琴を強い春琴であらせようとしていた佐助と比べて、椿には様々な主をも受けとめるしなやかでまっすぐな心を感じました。
どちらも名作ですが、こちらの『雛牡丹を摘む』には、ふわりとしたしなやかさ、やわらかさを感じました。
そのやわらかでやさしい感触こそ、夢見里さんがお持ちの味であり、魅力なのだろうなあと感じました。
今回も、漢字とひらがなの並びがすごく綺麗ですね。
明け方に見る色彩のある夢のような、素敵なお話をありがとうございました。
感覚にとても訴えかけてくるお話なのですが、言葉にするのが難しくて、拙い感想ですみません。
読後も、美しい少女から摘み取られた梅の蕾のイメージが鮮烈で、頭から離れません……。
作者からの返信
お読みいただきまして、ありがとうございます。
松宮かさねさんの御言葉があればこそ、産まれた物語でしたので、松宮さんに御読みいただけてほんとうに幸せです…!
オマージュは緊張します…偉大なる著者さまはもちろん、この物語を愛する読者さまにたいする不敬にあたらないかと…でも松宮かさねさんにそのように仰っていただけて、ほっと肩のちからが抜けました
有終の美というか、死に値する美というか、書きたいものを書ききれたので、とても満ちたりたきもちでおります。美しいものは恐ろしく、恐ろしいものは悲しく、悲しいものは愛おしい、というのを日頃から命題に致しておりますゆえ、そのように仰っていただき、幸甚です。
・美しき神童がやまいを患い、日舞から楽器に
・天賦の才を備えた娘と若者との上下関係
・舞台は神戸
は踏まえて、あれこれと幻想を織りこませていただきました。
《春琴抄》は佐助の苛烈さがわたしとしてはこころに焼きついているのですが、こちらは雛牡丹のほうが凄絶かなと…勝手におもっています。表れとしては春琴のほうが激しいですが…こころのなかは…うーん、どうでしょうか。春琴こそ、心の根まで壮絶かもしれません。
どちらにしても…《春琴抄》を題材に書かせていただけたこと、身にあまる幸福でございます。
ひらがなと漢字についても触れていただき、嬉しいです。たおやかに、しなやかになるよう、視線が紙(カクヨムだと画面ですが)をすべらないよう、意識しながら書いています(*^^*)
重ね重ねになりますが、ほんとうにありがとうございます。松宮かさねさんにこころからの感謝を捧げます。
雛牡丹を摘むへの応援コメント
ちょうどツイッターにて見かけまして…思わず飛んできてしまいました…(こそこそ…
あの、なんかもう、すごく、すごいです(語彙力
まずもって、文章のどこを切り取っても美しいのですね。それはでも、観賞用の美しさとかではなくて、野に咲く花のような生命力とか色香とか艶やかさが籠もった美しさとでもいうのでしょうか。決して綺麗なだけではない、清も濁も併せ持ったような美しさがあります。なんだろう、ものすごく、生きてるって感じがします。
椿の存在も良いですね。無力感に苛まされつつも、綺麗だと思ってしまうところに人間の業の深さを感じてしまいます(でも私も、きっと同じ立場なら椿のように振る舞うのだろうと思いますが…そういう意味で、椿がすごく私達よりで、良いです
不勉強なもので、春琴抄を読んだことがないのですが…それでも十分に世界感に浸れる作品でした。
素敵なお話をありがとうございます。
作者からの返信
いやああ、湊波さん……そんなふうに仰っていただいて…ほんとうによろしいのでしょうか。もったいないくらいです。ありがとうございます。
美しく、美しくと、祈りを織りこむようにして書き綴りましたので、文章をお褒めいただくと嬉しいやら、お恥ずかしいやら…やっぱり嬉しいです。清濁併せもったような…ですか、わわっ、嬉しすぎてどう致しましょうか。
椿と雛牡丹の関係は、敬愛する《春琴抄》の春琴と佐助の関係とも違っていて、けれどもわたしのもうひとつの理想像でもあります。もともと、主従とか師弟とか…そういう傾いた関係が好きなので…有難いお言葉をたくさん頂戴致しまして、有り難うございます…これからも美しいものを書き続けていきます。湊波さんの御言葉を励みにさせていただきますね
雛牡丹を摘むへの応援コメント
遅れ馳せながら昨夜、御作を拝読して、青空文庫で春琴抄を読み返しながら眠りにつき……朝になってスッキリした頭で感想を綴っております。
美麗な筆致で綴られる情景の艶やかさ、寂寞とも憧憬ともどこか違った読後感を残す物語の深さは、既に皆様が書かれているので、今さら私などが持ち上げるまでもありませんが……
本作のオリジナリティの根源は、原典にある「人の悪意」を削ぎ落としたことでしょうか。春琴は失明の過程から最後の火傷に至るまで、その才ゆえに常に第三者の悪意に晒されていたのに対し、本作はそれにあたる受難を業病すなわち天の定めと設定することで、二人の関係だけを世俗から切り離して描くことに成功しているように思います。
もちろん、この病は、才あるものは妬まれ害されるということのメタファーなのでしょうけども、実際それによって独自の世界が構築されている。松宮さんのコメントされた両ヒロインの性質の違いも、人の悪意に敏感にならざるを得なかった春琴と、人智を超えた運命に振り回されるしかない雛牡丹の差によるものでしょうか。どちらがより辛いものかは、非才なる私には想像もつきませんが……。
いやしかし、非才の身なればこそ、椿の献身には感じ入るものがあります。
「ああ、僕は、彼女の凄みに惚れたのだと」――この一文が、とどのつまり、この物語の全てなのでしょう。凄絶というしかないほどの圧倒的な美しさを目の当たりにしたとき……強者ならば、その花を手折り己のものとすることを望むのかもしれませんが、凡夫に許されるのは、その美しさの前に頭を垂れ、心を捧げることのみ……。それは中世ヨーロッパの精神的な宮廷恋愛(hohe minne)にも通じるものがあると思うのです。となると、優劣を論じるものではありませんが、春琴の肉体までも愛することを許された佐助に対して、未踏の華として雛牡丹を看取った椿の物語は、より高次元な忠誠の物語であったのかもしれないですね。
ところで、作家の場合はどこから花が咲くのでしょうね。文字を綴る指先か、言葉を紡ぐ口元か……。最近、霞草が咲いているのを見た気がしますが(笑)、才あるものを連れ去る病に(≒第三者の妬みや、無理解や、時代との軋轢といったものに)負けずに貴女が物語を紡ぎ続けてくれていることを、いち凡人としては喜ばずにはいられません。
作者からの返信
素敵なご感想を賜りまして御礼申しあげます。
御高察のとおり、オマージュさせていただいた春琴抄の最も馨しきところである、あの「香りたつ悪意」と「触れる艶」を敢えてわたしなりの「天のさだめ」と「触れぬ艶」に入れかえて表現することで、ひとつのかたちになったのがこちらの《雛牡丹を摘む》です。題名には「摘む」とありますが、これは花盗人になれなかった男の物語でもあります。けれども確かに「華の終わり」を捧げられた男の物語でもあります。
孤絶されたふたりだけのせかいのなかで、彼女が彼だけに捧げた「華」……板野さんにお楽しみいただけたのならば、これほどまでに嬉しいことはございません。
amour courtoisですか。ミンネのこと……でしょうか。だとすれば、確かにそうした節はあるとおもいます。
わたしはもともと、小説によって表現される「信仰に等しい愛」というものに惹かれています。それは「永遠に等しいもの」だとおもうからです。現実にはつかむことのできない「永遠」――ゆえに幻想と現実のあわいで、それを描き、綴りたいと切望するのです。きっとそれはこれからも変わらぬ、わたしの永遠の命題になるのでしょうね(*^^*)
作家ならば、何処から華が咲くのか……素敵ですね。あらあら、カスミソウ……もったいない御言葉です。そうですね、いつか、作家から華が咲く場景も物語にしたいです。そのときは、どうかまた、読んでくださいね(*^^*)