『闇霧』13


      13


《異界エレベーターに乗る方法》――それは、ところによっては単に、異世界に行く方法、という呼び名で知られる。

 儀式だ。魔術というよりは、呪術寄りの儀式である。考案者が何者かは火保も知らないが、平成の半ばに、インターネットを介して民間に広まったものだ。やり方は次の通りである。

 儀式の実行者は一人。多人数では行えない。十階建て以上の建築物を選び、エレベーターに乗る。それから、〝四階→二階→六階→二階→十階→五階〟の順に移動する。この時、五階にたどり着くまでの間に、ほかの人間が乗ってきた場合、儀式は失敗となる。

 ほかの人間に出会わないまま、五階にたどり着いた場合、若い女性が乗ってくるという。この若い女性を乗せたまま、一階のボタンを押すと、エレベーターは一階に止まらず十階まで行く。そして十階で下りた先は、自分しか人間のいない異界であるのだという。五階で乗り合わせた若い女性こそは、異界への案内人なのだ、と。

 退魔屋の中には、この案内人を凶の方位神と関連付けて考える者もいる。方位神とは年ごとに留まる方位を移動する神であり、凶の方位神がいる方角へ向かった場合はたたりがある。これを避けるために行われていたのが平安時代の方違かたたがえだ。

 方位、方角は普通に考えれば平面上に存在するもので、エレベーターのような特定の位置を昇降する乗り物とは関連がなさそうに見える。だが、立体的な空間には天と地の二方向の方角が存在する。エレベーターは天地を行き来する乗り物だ。それは、さながら天国と地獄を行き来しているかのように見立てる事も出来る。

 要するに、異界エレベーターに乗る方法は天地を交互に行き来する事で現世と異界の境界に近付いていく儀式なのだ。そして天地が方角である以上、方位神に属するものも存在する。インターネット上で広まった各階への移動順は、凶の方位神に高い確率で遭遇する方法なのだろう。

 火保はバックパックから孔雀明王のお札を取り出すと、孔雀明王陀羅尼を唱えて、それを床に貼った。意味はあまりないだろうが、こんな状況では何が幸いするかわからない。たとえ火保がこのビルの中で敗れても、あとに続く者がいればこのお札が役立つかもしれないのだ。

「さて」

一呼吸して、火保はエレベーターのスイッチを押した。ランプが点滅し、カゴが地下まで下りてくるのがわかる。扉が開いた。

 大人が十五人は入りそうな、取り立てて変わったところのない普通のエレベーターだ。だが、カゴはまともに見えても行き先がまともな保証はない。扉が開いた先は怪物の胃袋かもしれないし、昇降路は曲がりくねっているかもしれない。

 バックパックを片側に担ぎ、ベネリM4を持って火保はエレベーターの中へと入る。

 階数ボタンを見ると、十階までのボタンがあった。どの道、レストランのあった二十七階まで直通では行けないようだ。火保は四階のボタンを押して、扉を閉める。

 エレベーターが動き始めた。

 カゴは垂直に、昇降路を昇っていく。

 怪しい気配はない。エレベーターの静かな駆動音が聞こえる。こんな状況でなければ、ただのエレベーターだ。

 四階が近付く。火保はバックパックを床に下ろして足で片隅に追いやると、同時に背中をぴったりと壁につける。ドアが開いた途端に攻撃されてはたまらない。

 チン、と。エレベーターが目的階への到着を告げる。

 四階フロアは薄暗かったが、敵がいない事だけはすぐにわかった。有刺鉄線でぐるぐる巻きにされた人の胴体が、いくつも転がっていて、それ以外に人間らしいものも、蠢くものも見当たらなかった。

「うう……あ……ぁ……」

 有刺鉄線で縛り付けられた人々の呻き声が聞こえる。まだ生きているのか、それともすでに人間ではないのか。ここからでは判断がつかない。

「……」

 火保は二階のボタンを押し、扉を閉めるボタンを押す。閉まる直前まで、呻き声が聞こえていた。

 だめだ。四階で降りるわけにはいかない。何か手出しをして、意図せず四階にいた者をエレベーターに乗せるわけにもいかない。

 おそらく、あのフルコースのような儀式はほかの階でも起きていたのだ。ビル内にいたと推測される五百名程度の人間全てが、何らかの怪異や怪物と接触してしまっている。中には、あの八尾のように、この状況を契機に自ら進んで怪物となった者もいるだろう。

 全員は助けられない。

 エレベーターの動きが止まる。到着を告げる音がした。

 壁際に身を張り付けて、扉が開いていくのを待つ。

 二階フロアには本屋があった事を、火保は思い出した。扉が開いた先には、フロアのそこかしこを無数の本が羽ばたきながら飛んでいた。こちらに接近するものはない。人影も見当たらない。すぐさま六階のボタンを押す。閉のボタンも続けて押し、扉が閉まり切るまで二階の様子を注視する。

 扉が閉まり、エレベーターが上方向へ昇り始めた。

 神経が張り詰める。緊張しつつも集中している。少しでも正気に戻れば自分は壊れてしまうだろうという予感がある。呼吸さえしたくない。一瞬の気の緩みで、全てを壊してしまうのが怖い。

 電子音がした。扉が開く。

「ひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひっひ」

 一つ目の白い肌の巨人が、エレベーターの中を覗き込んでいた。

「……ああ、くそ」

 獣の反射速度で、火保はベネリM4の引き金を引く。エレベーターの間近にいたカトブレパスの顔や体の一部が吹き飛ぶ。カトブレパスは蜘蛛の如き牛鬼の脚で跳躍し、エレベーターから離れる。ベネリM4で撃ち抜いた箇所が、瞬時に復元していく。カトブレパスに無駄な動きはない。すぐさまエレベーターまで突っ込んでくる。撃つ。今やカトブレパスの上半身である巨人の肩の肉が抉れる。弾切れ。リロードが間に合わない。ベネリM4から手を放し、火保は二階のボタンを素早く押して、扉を閉める。カトブレパスがすぐそこまで迫っている。グロックを抜いてしゃがみ込み、引き金を立て続けに引く。向こうは止まらない。扉が徐々に閉まっていく。

 巨人の拳が振るわれる。ゴン! と鈍い音を立てて、閉まりかけの扉をカトブレパスが殴る。グロックを捨て、ベネリM4を拾うと同時に一発リロード、扉の隙間から撃つ。悲鳴も痛がるような仕草もない。一瞬に動きが鈍くなった扉が閉まり切る。エレベーターが動き出す。

 ゴン! ゴン! と鈍い音が上のほうから聞こえてくる。カトブレパスが六階の扉を殴っているのだ。素早くベネリM4に七発銃弾を装填する。バックパックから、大威徳明王のお札を何枚か取り出す。ベネリM4を置いて、両手で大独股印だいどっこいんを結ぶ。

「オン・シュチリ・キャラロハ・ウンケンソワカ」

 大威徳明王のお札がエレベーター内を飛び交う。略式だが大威徳明王真言による調伏法である。エレベーター内に大威徳明王の加護を張り巡らせ、外部から呪いを撥ね退けると同時に敵を打ち倒す。

 カゴが、止まる。二階。

「っ――!?」

 さっきまで飛び回っていた本が、今は大勢の黒い人影の手に収まっていた。皆口々に何かを唱えながら、次々とページをめくっている。一人だけ立っている黒い人影が、何か杖のようなものを振り回している。黒い人影が唱えているのは、呪詛だ。

「ぐっ!」

 大独股印を解き、素早く十階のボタンを押す。カゴの隅という隅が黒く染まり、有刺鉄線が槍のように鋭く伸びた。躱せない。次々と生える有刺鉄線が火保の体を切り裂いていく。

「オン・シュチリ・キャラロハ・ウンケンソワカ!」

 血を撒き散らしながら真言を唱え、閉ボタンを押す。明らかに鈍いスピードで扉が閉まっていく。バックパックから飛び出した大威徳明王のお札がカゴの壁という壁、隅という隅に貼り付く。有刺鉄線はもう出てこない。

「ぐぅっ……」

 魔力を体中に巡らす。傷が塞がり、痛みが治まっていく。火保は荒い息をついた。あと二か所だ。それで手順は全て踏める。このまま十階に行き、そして五階へ。そこまで、行けさえすれば。

 長いはずの昇りの時間があっという間に過ぎる。カトブレパスがいた六階を過ぎ、七、八、九階を過ぎる。階数表示が変わる。電子音。十階。

 扉の開いた先は火の海だった。何があったのか。フロア一帯が炎に呑み込まれている。燃えているのが人なのか、物なのかさえ、判別出来ない。

 急がなければ。火保は階数ボタンに手を伸ばす。五階に行き、案内人を迎える。おそらく、エレベーターガールはそこで乗ってくるはず――

 見えた。

 炎の揺らめきの中に、動くものがあった。階数ボタンに触れようとした指が止まる。来る。こっちに。人間が。

「待って!」

 必死の形相の女性が、エレベーターに向かって駆けてきた。衣服はぼろぼろで、足は怪我をしている。だが、全力で走っている。奇跡的な事に、彼女は立ち昇る炎から逃れている。間に合う。ここで火保がエレベーターを開けてさえいれば。この地獄から逃げられる。エレベーターに、乗れさえすれば。

「今行くから! お願い、そのまま――」

 異界エレベーターの儀式は、一人でしか行えない。

 儀式の最中に、誰かが乗れば失敗する。

「は――」

 ――全員は、救えない。

「早く、こっちに!」

 火保は、迫り来る炎の中、走ってくる女性に向かって叫んだ。彼女が本当に人間かどうか、判断するより早く言葉が出ていた。彼女が乗れば、儀式が失敗する事は理解していた。四階で苦しむ声を上げる人間かどうかもわからないものたちを、調べもせずに置いていった事を覚えていた。言葉はそんなものよりも早く口から出ていた。

「早く! 今ならまだ間に合う!」

 エレベーターから飛び出す事は出来ない。万が一にも火保が炎に呑まれる事があってはならない。火保はここでエレベーターを確保していなければならないのだ。彼女が近付いてくる。息を切らせて。大丈夫。間に合う。必ず。もう少し。あと、もう少し。

 ――何か、大きな物音がした。

 千切れるような音が、上から。

 ふわりと、カゴが浮いた。

 寒気が走った。

 ……ワイヤー、だ。

「駄目――!」

 支えを失ったエレベーターのカゴは、ものすごいスピードで落下を始めていた。火保の目に最後に見えたのは、足の止まった女性の顔と、その姿が炎に呑まれる瞬間だった。

 轟音を立てながらエレベーターは昇降路を落下する。耐えられない。重力の負荷によって身動きが取れない。

 急に、不自然に、エレベーターの落下が止まった。

 壁中に貼り付いた大威徳明王のお札が、黒く燃え始めていた。呪力だ。侵食されている。火保は、階数の表示に目をやった。まるで銃口が自分に向けられている時のような冷静さで、その表示を確認した。

 五階。

 扉が開く。まるで、どこかのマンションの通路のような風景が見えた。通路の奥から、見覚えのある制服が歩いてくる。淡い、ピンク色の制服。視覚が混乱する、あの笑い顔。口が、開く。

「五階、居住エリアでございます。このエレベーターは、十階まで参り――」

 雄叫びを上げながら、火保はエレベーターを飛び出していた。手に持ったベネリM4の照準を合わせざま、引き金を引く。通路から向かってくるエレベーターガールの体が弾け飛ぶも、すぐに復元してしまう。

「貴様らは――!」

 ベネリM4を槍のように突き出すと、エレベーターガールの体が銃口を飲み込み、呪力によってホールドする。手を放し、火保は拳をその顔面に叩き込む。カンマーンで浄められた拳には手応えがあったが、エレベーターガールは怯まず反撃してくる。だが、そんな反撃などものともせずに、猛然と火保は打撃をエレベーターガールに叩き込む。

「どこまで、どこまで人間を愚弄すれば――!」

 エレベーターガールが高笑いを上げながら回し蹴りを繰り出す。技こそ人間のものだが、こいつは呪力の塊だ。受けたところから、呪いが火保を侵食しようとする。

「舐めるな!」

 腹部に前蹴りを入れ、相手がよろめいたところでベネリM4を引き抜く。構える。狙いは頭部。引き金に指がかかる。

 ジャラジャラと、擦れる金属音が聞こえた。火保の首に何かが蛇のように巻き付く。

 通路の反対側に、フードを被った人影が腕をこちらに伸ばして立っていた。腕に巻いた包帯が鎖に変じて、火保の首に巻き付いている。

 ――無祝。

「探したぞ、退魔屋」

 無祝が腕を引っ張る。首が締まる。息が、出来ない。

「時間がない。障害はお前だけ。ここで死ぬがいい――」

 ベネリM4が火を噴いた。無祝の胴体に大きな穴が開く。反動で無祝の体勢が崩れ、鎖が緩む。

「お前に用はない。呪術師」

 さらにもう一発ベネリM4の射撃を食らわせる。グロックを抜き、銃口をエレベーターガールへ向ける。その膝に向かって撃つ。

「人を呪い、傷つけ、魂を冒涜する邪悪なものどもよ」

 怒りが、火保の心を滾らせている。

「これ以上、お前たちの好きにはさせない。二人まとめて祓ってやる」

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