『雨宿りの女』2

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 魔女は仏間の襖を閉めると、持って来ていた鞄の中から林檎りんごほどの大きさの真っ白な糸玉を取り出した。

「中のモノが、今もこの家に邪気を呼び込んでいるので、まずは部屋を封じます」

 言いながら、麻來鴉は糸玉から糸の先端を引っ張り出した。

「その糸は……?」

「《枷なる糸グレイプニル》です。ルーン魔術の心得があれば誰にでも使える、魔物封じの糸です」

 ルーン魔術? 全く意味がわからない。能見の戸惑いをよそに、麻來鴉は糸を、さらに鞄から取り出した木の枝に巻き付けていく。

守れエオ存続せよフェオ

 何か呪文のようなものを小さく唱え、麻來鴉は糸を巻き付けた枝から手を放す。途端、枝は矢のように勝手に飛び出した。ダイニングを出て、縁側へと周り、一分としないうちに廊下からまたダイニングへと戻ってきて、仏間の襖に貼りつく。

 よく見れば、襖には糸がぴんと張っていた。麻來鴉がまた何事か唱えると、糸玉から糸が切り離され、切れ端と先端が結びつく。これで、仏間は四方を糸で囲われた形となった。

「これでしばらく中のモノが邪気を呼び寄せる事は出来ません。あまり長くは封じられませんが」

「あまりって……どのくらい?」

「ざっとですが……一時間ほどですね。あまり長く閉じ込めると、アレが何をするかわかりませんから」

「その間に祓う方法を見つけられるのか」

 これをうたのは十文字だ。

「天宿りしたモノの正体がわかれば、ね」

 麻來鴉はとんがり帽に手をやりながら、考えるように答えた。

「その天宿りというのは……一体どういった現象なんです?」

 煙草を手に取りたい欲求を押さえ付けながら、能見は尋ねた。麻來鴉の茶色の瞳が能見を見た。

「地上に邪気が変じた怪異が存在するように、空――上層にもあやかしめいた住人がいます。普段、彼らは上空をさまよっていますが、まれに彼らと感応する人間がいると、その者に憑依して己の一部にしようとします。これが、天宿りです」

「憑依……何というか、悪霊みたいなものですか」

 昔、映画で見た知識をそのまま能見は口に出した。麻來鴉は軽く首を横に振った。

「悪霊より、もっと理屈や説明がつきづらい連中です。種類が多いうえに独自の論理で行動しているので。特徴を一つ一つ分析していくほかありません。今回の件で言えば、まず、雨」

「雨……」

「ええ。天宿りは上層の住人と、対象になった人間に物理的な接触がなければ起きません。つまり、上層の住人を媒介する物が必要なんです。さらに言えば、その媒介物から憑依した住人の属性を知る事が出来ます。娘さんは、三日前の雨に濡れて帰ってきてから様子がおかしくなったのでしょう? それに、今も天井から滴っている水」

「中のモノは水に属するモノ。水を使ってとり憑いてくる奴という事だな」

 十文字が後を引き取る。

「それがわかったからといって、一体何になるんです?」

 能見の語気が荒くなった。が、魔女のほうは表情ひとつ変えなかった。

「何もわからないよりは手がかりがあるほうが良いです。それに、まだ確認しなければならない事があります」

「何です?」

「三日前に何がありました?」

 自分の顔が強張るのが、能見にはわかった。

「何、というのは……」

「上層の住人が人間に憑依するには、その対象と感応しなければなりません。霊能の素養は大なり小なり誰しもが備えているものですが、たいていは未発達なまま一生を終えます。そして、そういう人間が霊的なモノと感応する時は、たいがい精神的な揺らぎがあるものです。強い不安や、恐怖によって不安定になった精神につけ込み、あいつらはとり憑いてくる」

 喉の中がきゅっと締め付けられるようだった。

「何か契機となる出来事があったはずです。お話していただけませんか」

 能見はしばし押し黙った。……別に隠すような事ではない。

「わかりました」

 能見は話し始めた。



 晶子は、妻の連れ子だった。

 結婚したのは四年前。晶子はまだ十二歳だった。

 初めて会った時、年齢のわりに大人びた印象を受けた事を覚えている。その日は妻の実家の墓の掃除をしに、寺に行っていた。すでに二人の間では結婚を決めていた頃だった。

 結婚後の生活は一筋縄ではいかないだろうという予感が、能見にはあった。晶子にしてみれば、小学校を卒業したばかりの時に母親が再婚し、それまで縁もゆかりもなかった人間が形式上父親となるのだ。とても簡単に受け入れられるものではない。

 はたして、その予感は当たった。

 晶子が家出した回数は数え切れなかった。花瓶や写真立てや、時には包丁まで投げつけられた事もある。とにかく晶子は、能見に心を開く事を嫌がった。『能見』という、以前とは変わってしまった自らの姓さえも嫌っていた。父親として見られた事は一度もないだろう。能見を見る晶子の目には、いつも嫌悪の感情があった。

「それでも……最近は無闇むやみいさかいはなくなっていました。顔を合わせなければ、争う事もありませんから」

どうしても晶子と話さなければならない時は、いつも妻が間に入っていた。血の繋がりもなく、幼い頃から一緒にいるわけでもない人間が、それなりの年齢の子どもの親になるのは不可能だとさえ思った。時折、気弱になって妻の前でついそんな事を言った日には、普段は見ないような強い口調でたしなめられたものだ。

「……妻が亡くなったのは、ひと月前の事です。交通事故でした」

 買い物帰りに、前方不注意の車に撥ねられたのだ。例によって朝、晶子と軽い口論になった日の事だった。

 足の下にあったはずの地面がなくなってしまったかのような、そんな虚無感と衝撃が能見を襲った。加害者側は事故当時の心神喪失を訴えていたが、能見は正直なところ全てが上の空だった。能見が生きてきた四十七年の人生が、さながらロボットのように事務的な手続きや弁護士との話し合いを進めてくれたが、心はすでに妻の死という事実によって空っぽになっていて、呆然としたまま日々を過ごしていた。

「そういう姿を見せたのがよくなかったんでしょう。晶子は怒りました。私にも、加害者にも」

 晶子にとっては、血の繋がった最後の家族だった。彼女の祖父母に当たる人間は十年前に他界していて、親戚もいない。晶子の実の父親は彼女が六歳の時に行方をくらましていた。彼女がこの世で信頼できるものはなくなってしまった。残されたのは、心の通わない義理の父親だけだ。

「晶子は、犯人を憎んでいました。……殺すつもりでした。妻が死んでからの間、彼女はそればかり口にしていました」

 毎日のように責められた。本当に母を思う気持ちがあるのなら、何故もっと加害者を追求しないのかと。裁きを受けさせるのが筋だと晶子は繰り返し主張した。能見も内心ではわかっていたし、もっとしっかりしなければならないとも思っていたが、心がすでに折れていた。椅子から立ち上がったり、家の中をちょっと移動したりする事さえ出来なくなった。仕事を休み、家で呆然とするようになった。晶子は何日も家に帰らなくなった。

「あの日……晶子は久しぶりに家に帰ってきました。私は、正直どう接して良いかわからず、あまり心配をさせるなと、父親らしい振る舞いをするのが精いっぱいで、形式的に叱りつけました」

 返ってきた言葉には、憎悪が込められていた。

『役立たず。お前と結婚したから母さんは死んだんだ。わたしと母さんだけで十分幸せだったのに。お前なんかいらなかった。わたしたちに関わりのないところで、お前が死ねば良かったんだ』

 仮にも娘である一人の人間の中に、僅かな親子の情さえなかったのだと知った時、能見の頭は真っ白になっていた。

「私は……晶子の顔を叩きました。平手で。唇の端が、少し切れていたのを見ました。すかさず、晶子の拳が私の顔を殴って……それから、彼女は荷物を持って出ていきました」

 ――そうして、晶子は天宿りに遭った。怒り、憎しみ。自身を破滅させかねない黒々とした魂の燃え上がりによって、怪物に魅入られてしまったのだ。

「……」

 ひと通り話を聞き終えた魔女は、しかし、押し黙ったままだった。

「私が悪かったのです。私が、もっと晶子と以前から向き合っていれば……」

「――足りない」

「え?」

 魔女の声は、剣のように冷たかった。

「晶子さんの心が乱れていたのはわかりました。が、それだけでは足りません。もう少し強い因果があるはずですが……」

「麻來鴉?」

 十文字が疑問の声を呈したが、彼女は応じなかった。

 魔女の黒い瞳が、かすかに青みがかったように見えた。

「まだ話していない事がありますか。それとも……」

 耳鳴りがする――庭に差す日がかげった気がした。

「最初から知らなかった?」

 何を、と能見が言いかけた時、頬に何かが当たった。

 感触は水滴のようだったが、違う気がした。もう少し重たく、粘度がある。右手の甲で頬を拭う。

 赤黒い筋がついた。鼻につんとつく鉄分の臭い。

 ――血だ。

「うわっ!?」

 能見は思わず天井を見上げた。

 そこに、いた。頭から血を被ったような、真っ赤に染まった男が。シャツにもスラックスも、今まさに流されたばかりのような新鮮な血で濡れていて、ぽたり、ぽたりと雫が滴り落ちてくる。

「あ、なっ……」

 驚きが喉を締め付けてしまったかのように、声が出ない。天井からぶら下がった男は、目を見開いたまま、じっと能見を見つめている。

 血まみれの男の腕が、不意にぐわっと伸びて能見の顔を掴んだ。男の腕が、そのまま能見の頭を引っ張り上げようとする。万力まんりきのような、憎しみが込められているかの如き力だった。

「――〝ユル〟」

 呪文とともに、魔女の手が横薙ぎに動いた。血まみれの男の両腕が切断され、能見は忌まわしい手から解放される。途端に、天井の男は消えた。切断された腕も影も形もない。手の甲の血の痕さえ、残っていない。

「どうやら、とり憑かれていたのは娘さんだけではなかったようですね」

 言いながらも、魔女は能見を見てはいなかった。まるで何かを待ち構えているかのように、文字が刻まれた平らな石を、ナイフのように持っていた。

「麻來鴉、説明しろ。一体こいつは何なんだ?」

「少なくとも空からやってきた奴じゃなさそうね……。十文字、能見さんをお願い。あんたの首飾りを掛けてやってよ。お守りくらいにはなるから」

 言われた通り、十文字は自らの首にかけてあった、木製の十字架を能見に手渡した。事態を飲み込めないまま、能見はそれを首にかける。

 魔女の瞳は、今や傍目にもわかるほど青々と輝いていた。

 気味の悪い静寂が訪れた。薄暗いダイニングには自分達のほか誰もいないはずだった。だが、いるのだ。どこかに、あの血まみれの男がひそんでいるのだ――……

 トン、トンと。能見の後ろで戸を叩く音がした。

 振り返ると、糸によって閉ざされた仏間の襖が、内側から叩かれていた。

「ねえ……誰かいないの?」

 声がした。能見の娘の声が。

「助けて……誰か、開けて……」

「晶子!」

「動かないで!」

 麻來鴉が鋭く叫んだのと同じくして。

 四つん這いの大きな赤子が音を立てて這ってくるように、血まみれの男が魔女へ向かって突進した。

「ちっ!」

 魔女は手に持った石を軽く放り投げた。石に刻まれた文字が青く光り、石から漏れた光が斧の形をかたどる。手に持った光の斧を麻來鴉は血まみれの男の脳天に叩き付ける。

「がああああああああっ」

 叫び声というよりはテレビの砂嵐のような声だった。だが、血まみれの男が麻來鴉に組み付き、抑え込もうとしていた。

「開けて! ねえ開けてよ!」

 娘が、晶子が仏間の中から叫んでいる。間違いない。晶子の声だ。中で一体何が起こっているのか。

「助けて、助けてってば!」

 魔女は血まみれの男と戦っている。襖を叩く音は激しくなる一方だ――早く助けるんだ。自分がやるしかない――能見は内側から突き動かされるような強い衝動を感じた。私が……

「助けてよ、お父さん!」

 私が助けなければ。

 次の瞬間、弾かれるように能見は立ち上がり、襖を封じている糸に手を掛けようとした。

「よせ、能見さん!」

 それを止めたのは、十文字の太い腕だ。確かに力は強い。が、あの血まみれの男に掴まれた事を思えば、所詮は人間の力だ。

 ――早く助けないと。私の娘が。

「放してくれ! 娘を助けないと!」

「罠だ! 娘さんにとり憑いているモノが外へ出たがっているんだ!」

「放せ!」

 自分でも信じられないほどの力で、能見は十文字を突き飛ばした。私が助ける。私が、私が晶子を助けるのだ。私、私私――――

「能見さん!」

 十文字が叫んだ時、能見の手は糸を引き千切って、襖を開けていた。

 中では、ぐったりとした晶子が、わずかに顔を上げていた。

「晶子!」

 能見は駆け寄り、娘の体を抱き起した。ひんやりと冷たく、雨に降られたかのように湿っている。

「大丈夫か、晶子!」

 娘は答えなかった。代わりにその両腕が、能見の体をがっちりと掴んだ。

「捕 ま え た」

 耳元で声がした。娘の顔が、泥で作った人形のように、ぐにゃりと歪んでいた。

 人間の顔ではなかった。

「うわああああああああっ!!」

 自分でも信じられないほどの声で叫んだその瞬間、能見は仏間に出来た水たまりの中に引きり込まれた。



「十文字!!」

 能見の体が水たまりに引き摺り込まれた直後、麻來鴉は叫んでいた。言われるまでもなく、十文字は能見を掴もうとしたが、一歩遅かった。能見に渡した十字架は引き千切れていて、木製の数珠がそこら中に散らばっている。血の臭いさえ感じるほどの生々しい男の悪霊は、怒りを抱えた目で麻來鴉を睨み付ける。

「お前――邪魔だぞ」

 魔女の両目がターコイズブルーに輝く。

死者の国ヘルヘイムへのみちに迷った者はその身に刻め。存続せよフェオ癒されよウル守護されよソーン知を持てオス旅に出でよラド

麻來鴉がルーンの名を唱えるごとに、血まみれの男の顔にルーン文字が刻まれていく。高密度の魔力を乗せてルーンの名を唱え刻む、ルーン文字の念写である。

照らされよケン均衡を保てギョーフ達成せよウィン罪の浄めであるハガル。これにて九つのルーンは刻まれる。ヘルの館で褐色かっしょく雄鶏おんどりが鳴くのを聞け。これぞ魔女ヘイズとむらいなれば」

 詠唱の完結に、指を鳴らす。刻まれた九つのルーンに魔力が通う。

「ああああがあああああがあああ」

 砂嵐のような雑音めいた大声。蒸気を噴き上げ、血まみれの男の体がしぼんでいく。ほどなくして、男は溶けるように消え去った。

「はあ、はあ……」

 全身から汗が噴き出る。ルーンの念写自体は別に初めてではないが、体力を消耗する事に変わりはない。本来は刃物などで刻み付ける魔術だ。それを念写で行うのは、言ってみれば曲芸的だ。身に着けるべくして身に着けた便利な技術だが、いかんせん疲れるのであまり好きではない。

 呼吸をして息を整える。あの血まみれの男は消えたが、死者の国へ行ったわけではない。ルーンを刻み付けられて弱っただけだ。

 この家を取り囲む禍々まがまがしい空気は、まだ一切消えていない。

「十文字」

 麻來鴉は仏間ぶつまへ入った。十文字が苦々しい表情で立っていた。能見の姿はない。晶子もいなかった。

 ただ、水たまりだけが残っている。

「すまない、麻來鴉。能見さんは連れて行かれた」

 十文字は力なく言った。

「大丈夫。わたしが追いかける。十文字の十字架は?」

 答える前に、十文字は室内を一瞥いちべつし、

「ない。おそらく、十字架だけ能見さんと一緒に落ちたな」

「それなら追うのは簡単だね。ここを見ていてくれる?」

 十文字は一瞬たじろいだが、すぐに頷いた。

「やるしかないだろうな。一応聞くがさっきの男は?」

「さて。退散はさせたけど成仏はしていないだろうね。聖水くらい持って来てるでしょ?」

「俺は神父じゃない。襲われたら一巻いっかんの終わりだ。まあ、覚悟はしているが」

「さすが。ついでにもう一つ頼まれてくれる?」

「何だ」

 麻來鴉は鞄から、《枷なる糸グレイプニル》の糸玉を取り出し、先端をまんで引っ張り出す。それから糸玉を十文字へ手渡した。

「それを腕に巻き付けておいて。何があっても絶対に解かないでね。帰りにこれで登ってくるから」

「俺一人で三人分引っ張りあげろっていうのか?」

「ふふふ。オサム・ダザイよ」

「芥川だ」

 呆れたようにそう答えたあと、急に真顔になって、十文字は言った。

「気をつけろよ、麻來鴉」

「ありがと。じゃあ、ちょっと行ってくる」

 そう言って、麻來鴉は水たまりのほうへと振り返り、軽くジャンプして、その中へ飛び込んだ。

 十文字は水たまりに波紋が広がるのを見た。ほどなくして、波紋の広がった水面は、何らかの力に突き動かされるかのように、ゆっくりと回転し始めた――……

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