第20話 地方出身の高卒美人がマイホームに夢を託す理由

 恵梨香が散々焦らして、ラインを返したからか、男からの返答はやけに早かった。

 その返答の速さにやった!と思ったのもつかの間、返ってきたラインの素っ気なさにあきれてしまう。

 

 本当によくわからない男だ・・

 

 しかし、今日の恵梨香の心はそんなことではさして乱れない。

 その原因は、ローテーブルの上に置かれたものにある。

 通帳だ。


 先ほどから恵梨香は、数字の羅列を見ては、顔を緩めている。

 相も変わらず、部屋のほとんどは薄暗いが、今日はそれもたいして気にならない。

 長かった。


 ここまで来るのは、本当に時間がかかった。

 当初の予想以上にかかってしまった。

 それは、自身の若い頃の計画性のなさゆえであったが。


 こういう時のために、あえてオンライン上のウェブ通帳に移行せずに、モノとしての通帳のままにしていた。

 目に見えないとなかなか実感がわかない。

 オンライン上の数字の羅列だけだとなんとも味気がない。

 

 そう思いながら、この数字が示す現実のお金は目にしていないのにと・・自身の心の矛盾に思わず苦笑いする。

 とはいえ、きっと、現金で今現実にそのお金がこの部屋にあったら、不安でいても立ってもいられなくなるだろう。

 

 それだけの価値がある大金だ。

 恵梨香の人生を変えるのには十分過ぎるほどの金だ。

 このお金で、もっと目に見えてわかるほど価値のある物に換金しよう。

 

 そう・・家を買うのだ。

 賃貸暮らしにはもううんざりだ。

 生まれてから今の今までマイホームとはほど遠かった。


 小さい頃から、古びたコンクリート造りの市営住宅に家族全員で住んでいた。

 昭和30年代に建設された押入れだけが、やけに広い不格好な部屋に家族全員が押し込まれるように、そこで暮らしていた。

 当然個人のプライベートなどない。


 ひび割れたコンクリートと、階段の隅に巣食う蜘蛛の巣、郵便受けにゴミのように投げ込まれる怪しげなチラシの山。

 住民の姿も住居のうらびれた外観と相似していた。

 

 片手に酒缶、片手にタバコを持ち、何の目的もなく、昼間からあたりを徘徊する老人たち。

 彼らの実際の年齢は、まだ40代、50代なのだが、その覇気の無さと人生を諦めたその退廃した雰囲気がどうにも先がない老人に見えてしまうのだ。

 

 さらに、数十年による不衛生が実際の外見も酷く不健康で老けた印象を周囲に与える。

 恵梨香の両親も、そんな住民たちと同じだった。

 

 こんなところに未来はない・・と、何もわからない子供の時ですら肌で感じていた。

 ここに残って、自分もこの退廃した空気に呑まれ、住民たちの仲間入りをするのが怖かった。

 

 恵梨香が、家を出ることに、両親は反対しなかった。

 仕事をしている恵梨香が家に残れば、世帯収入が上がって、市営住宅を追い出されかねない。


 だから、むしろ恵梨香が出ていくことを望んでいたのかもしれない。

 このお金、恵梨香が自分で稼いだこのお金は、そうした自分の運命を逆回転させる力を持っている。

 家はその象徴だ。


 持家があれば、たとえ今後の計画が上手くいかなくても、とりあえずは最低限の一線は保っていられる。

 両親が這い回っている田舎に・・・あのゴミ溜めの団地に、落ちずに済む。


 保険・・そう保険だ。

 家の購入は恵梨香にとってのこれからの人生を歩む上で、欠かせない保険だ。

 

 とはいえ・・やはり今恵梨香が持っている金だけで家を買うのはやはり難しい。

 最近ずっとスマホで検索しているが、手持ちの金だけ買おうとすれば、それこそ郊外のかなり古い中古の戸建てがせいぜいだ。

 

 それでも、現金だけで買いたかった。

 借金は嫌だった。

 悪いイメージしかない。


 実際、クレジットカードのキャッシングやらカードローンやらの返済で四苦八苦している地元の人間は多かった。

 それでも、現金で買えるほどに貯めるとなると、いつになるかわからない。


 年齢も年齢だし、いつまでも今の収入を維持できる宛はない。

 なにより、こんな薄暗いワンルームの部屋に後何年も残り、働き続けるのは嫌だった。

 そう・・やっぱり家を買おう。


 借金と言っても住宅ローンなら、大丈夫・・

 お金を借りたことはなかったし、ローンのこともよくわからないが、住宅ローンは安全というイメージがある。


 それこそ誰もが、借りているものなのだから、そんな危険ではないだろう。

 家を買って、住宅ローンを組む・・それは当たり前のことで、みんながやっていること・・つまり、正常なことだ。


 そんな当たり前のことを自分もようやく出来るようになったかと思うと嬉しくなる。

 恵梨香の家庭に当たり前のことは少なかったから、「普通の家庭」というのにどうしても憧れてしまう。


 そういう「普通の家庭」とやらは、恵梨香の周りにもなかったが、それは、自分の周囲が貧しかっただけだ。

 あの中学受験組の家庭やいつも通勤の度に見る小奇麗な一戸建てや真新しいマンションに住んでいる都内の家々・・・


 そこでは、恵梨香が今まで何度も頭の中でイメージしてきた「普通の家庭」の暮らしが再現されているはずだ。

 経済力がある男と結婚して、その男に家を買ってもらって、専業主婦になり、子供を育てる。


 それが、ベストであるけれど、全てを人に委ねるのは危険だ。

 その男が恵梨香にいつまでも心があるとは限らない。

 それに誰か一人をずっと思い続けることなど今までの恵梨香にもできなかった。


 自分ができないことを他人に要求するのは虫が良いというものだろうし、一人の男の心を自分に繋ぎ止めている自信はなかった。

 昔はそうした自信はあった。


 だが、今はない。

 恵梨香の外見が衰えていくのと比例して、それに魅せられた心も同じように離れて行くような気がしてしまう。


 そもそも、そんな不安を抱えながら・・・誰かの心の変化に怯えながら、こそこそ他人の顔色を伺いながら、生きていくというのが嫌だった。

 色々なことを脳裏に浮かべながら、通帳を両手に掲げながら、寝転ぶ。


 しかし、本格的に家を探すのはどうにも億劫ではある。

 賃貸ですら、探すのに苦労した。

 不動産屋というのは、どうにも苦手だ。


 自分が値踏みされているように感じる。

 ちょっと前にいいなと思った物件を扱っている業者にメールをしたら、即座に返信がきた。


 是非一度話したいということなので、行ってみたのはいいが、そこで対応した営業担当者は、メールの時とは態度が一変していた。

 恵梨香が若い単身女性、しかも中小零細の社員ということがわかったからなのだろう。


 「あんたなんかが、家買えると思ってるの?」とは流石に正面切って言われはしなかったが、態度ではっきりとそう言っていた。

 事実、物件案内の営業メールや電話はそれ以来一切来なくなったのだから、恵梨香の予想は遠からず当たっていたのだろう。


 それにも関わらず、しばらくしてから、なれなれしくラインを送ってくるのだから呆れてしまう。

 勝手に、恵梨香の携帯番号を登録したのだろう。


 当然、その内容は、仕事とは無関係の単なる誘いだった。

 もっとも、これは、あくまで一例に過ぎないから、先入観を持ってはいけないのはわかっている。

 だが、少ない数例はあるイメージを恵梨香に抱かせていた。


 軽薄で、いい加減で、口先だけの、信用が置けない者たち・・・

 そういう空気感を醸し出す者たちと嫌になるほど接してきたから、すぐにわかった。


 恵梨香の地元に腐るほどいる人間たちと同じだ。

 そう言えば、地元に残っている者たちの半径数キロ圏内の就職先でメジャーなのは不動産関連だということをふと思い出した。


 スマホのケースに入れていた名刺を取り出し、視線を移す。

 この中年の男も似たような雰囲気を持つ者だった。

 前回のことがあったから、ある程度相手の反応は予想していた。


 実際、前とほとんど同じだった。

 違うのは、より相手の態度があからさまだったことだ。

 そもそも恵梨香が若い女と見るや、タメ口に近い態度で接してくる。


 年齢や職業を聞けば、上から目線で諭すような口調で説教がはじまる。

 はては、「うちも商売だから、冷やかしはごめんなんだよ」と言われる始末だ。


 中小の不動産業者で、相手は中年のいかにもな営業だったから、全く期待していなかったが、それでもこの対応には怒りというよりも、呆れ返ってしまった。


 もっとも、こんなのは序の口で、続く対応には思わず笑ってしまった。

 恵梨香が、出そうと思っている頭金の額を告げた途端、丁寧な敬語に変わっていたのだから。


「いや・・お若い女性なのに、ずいぶんとしっかりされていますね・・」


 まさに金次第。

 逆に、ここまでわかりやすい態度をされると、ある意味感心してしまう。

 まあこの方が信用できるかな・・などと思ってしまう。


 とりあえず自分は客として認められ、相手は、お金のために懸命に働いてくれる訳なのだから。

 少なくとも、1000円に満たないランチを食べた時に、仰々しくお辞儀をするバイト店員よりははるかに自然だし、頼もしい。

 

 そう思ってしまうのは、この中年の営業マンの見事な手の平返しだけではなく、その外見にもあった。

 本当にいかにもな出で立ちなのだ。

 

 スーツ姿に眼鏡と言った格好なのだが、ところどころに派手な装飾品がチラリと見えているし、眼光も鋭い。

 胡散臭い・・・逆に言えばなんというかこの道を生き抜いてきたプロという凄みも同時に醸し出している。

 

 自分の利益のためにはとことんやる、コンプライアンスなど知ったことか、という空気を纏う、大手企業には滅多にいないタイプだ。

 そういう訳で、恵梨香はこの怪しげな中年営業マンに家探しを任せることにした。


 そして、この不動産業者から、先日連絡があった。

 希望のエリアで、予算内の良い物件が見つかったから、今後の進め方について、会って話したいことがあるとのことだった。

 

 あの業者のことだから、単に事務所に呼び出して営業したい口実だろうと思うが、二つ返事で了承した。

 というのも、焦っていた。

 

 気のせいかもしれないが、今の勤務先に副業~収入的には本業だが~のことがバレたのではないか・・と言う疑念がある。

 気をつけていたはずなのだが、同僚に似た女が仕事場の近くにいた気がしてならない。

 

 それ以来、どうも職場の同僚~特に女性陣~の視線が変だ。

 家同様に、勤務先も潮時のような気がする。

 低移入だが今の勤務先には旨味もある。


 名ばかりの正社員でも家を借りる際の信用力にはなる。

 もうすぐこのアパートも更新の時期だし、どの道引っ越すつもりだった。

 だが、若い女のフリーランスでは、家を借りる信用力さえ期待できない。


 だから、早く家を買う必要がある。

 新しい家、新しい職場、新しい男、心機一転して人生を好転させる必要がある。

 タイミングよく、そのチャンスがいま巡ってきている。

 恵梨香はベットで寝るともなく、再び通帳を見つめて、自分の理想の生活に思いを寄せた。

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