第9話 コンプラ意識が高いエセエリートは、後がなくなっても、なかなか無敵の人にはなれない

 医者から告げられた話は、案外冷静に聞くことができた。

 その冷静さは意外という訳ではなかった。

 多くの人間は、目に見えるものや自分が体験したことでなければ、なかなか実感を持つことができない。


 自分の身には何らの症状は出ていない。

 身近でガンの闘病をしている者を見たことも、またその経験を聞いたこともなかった。

 安っぽいドラマで、そういう描写を見たことはある。


 しかし、闘病しているのに、ヤケに肌ツヤが良いなという印象しか持てず、とてもリアルなものとは思えなかった。

 それは、一種のファンタジーを見るようなものだった。

 

 受け入れられない現実を突きつけられた時に、人の心はある程度決められた段階を踏むという話をどこかで読んだ気がする。

 自分は今どの段階にあるのか。


 安普請のワンルームで、コンビニで買ってきた弁当を食べながら、いつものようにスマホを弄っている。

 現在の自分は、少なくとも「現実」を認識できていないのは確かだ。


 いつもの日曜の夜のように、明日会社に出社するのが嫌で酷く気分が落ち込むのだから。

 明日、会社を休んでしまえばいい。

 自分は「本当の病気」を患っているのだから。


 だが、明日は、会議があることに気づいてしまった。

 といっても、それは、どうでも良い支店内の会議だ。

 コンプライアンス委員とやらに選ばれてしまって、月に一回、その委員が集まって、一時間ほど話し合う。


 開かれることそれ事態が一番重要な目的となっている会議に過ぎない。

 そんな会議であっても、「突発」で欠席するのは憚れる。

 欠席しても、何かが起こるわけではない。


 だが、欠席するための様々な根回し~代理の者の手配や上司への言い訳~が面倒だ。

 

 ・・こんなどうでも良いことを心配している場合か・・明日は休む・・・先のことはどうでもいい・・

 

 会社という「現実」と先ほど病院で告げられた「非現実的な事実」が頭の中で交差し、心の整理がつかない。

 何でも良いから気を紛らわすものが欲しかった。

 

 城田は、一度会った女と音信普通になってから、久しくさわっていなかったマッチングアプリにアクセスした。

 片っ端から、若い美人な女に「いいね」を送る。

 これまでは、あまり若くて美人すぎる女には「いいね」をしなかった。


 美人でなおかつ若ければ、あらゆる男から「いいね」や「メッセージ」が大量に届き、埋もれてしまうのが目に見えているからだ。

 そんな、小賢しい計算をいつもはしていた。


 今日は突然自分の人生に投げ入れられた訳のわからない事実を忘れるために、ひたすらスマホの画面に表示される若くて美人な女の写真に「いいね」を連打する。

 ついでといっては何だが、自分のプロフィールを「年収600万以上」から「2,000万以上」に、「会社員」から「医者」に変更した。


 虚威申告だが、こんなくだらない逸脱行為でも、若干のワクワク感とバレたらどうしようという心配から少ならからず、「現実」から逃れることができた。

 こういう事態になっても、こんな姑息な逸脱行為しかできない自分はなんと「コンプラ意識」が高いのだろうと思わず自分の卑小さを嘲る。

 

 部屋の電気を消して、ベッドに仰向けになる。

 マッチングアプリをいじり続けて、数時間、時刻は真夜中を迎えていた。

 年収を変えたおかげか、はたまた医者のブランドのおかげか、普段は滅多に来ない「いいね」が既に数人の女から返ってきていた。

 

 ほとんど脊髄反射で、返信が来た女に、メッセージをすぐに送った。


(明日仕事が突然休みになったから、よかったら都内のどこかで会わない?)


 明日、仕事を休むからこそなおさら、今のこの精神状態で、一人過ごしたくなかった。

 気をそらしてくれる何かを渇望していた。


・・・こんなことをしているなんて、やはり今の自分はかなりおかしくなっている・・・


 そんな風に自分を客観視し、危ぶむ一方、衝動的に行動する自分にひどくワクワクしていた。

 いつもは、衝動的になろうとしても、理性が自分を強烈に押さえつけてしまう。


 三十数年の人生で身につけてきた性格は変えようと思っても変えられないものだ。 

 無意識に、変わることを拒否してしまう。


 だからこそ、直感ですぐに行動できる人間を蔑みながらも、憧れていた。

 皮肉なことに、受け止められない事実から自身を守るために、長年憧れていた「衝動性」が身についたようだ。


 翌朝、昨日寝る前に感じていた無鉄砲さはなりを潜めていた。

 いつもの小賢しい性格が前面に出ていた。

 上司に「体調不良で休む」とただ電話するだけなのに酷く緊張してしまう。


 やはり、昨日は、夜の暗がりという環境が現実感を希薄にしていただけで、こうして、眩いばかりの日光を浴びてしまうと、見ないふりをしていた現実も嫌でも白日の下にさらされてしまう。

 

 それでも、なんとか丸井の携帯に電話をする。

 精一杯、病気のような声色を作って、体調不良で休む旨を伝えた。

 ひと仕事を終えて、ベッドの上に転がると、酷く虚しい気分に襲われた。


 今日会社を休んだところで、やることなど何もないのだ。

 結局、昨日メッセージを送った女たちからは一人の返信もなかった。

 さすがにいきなり見ず知らずの他人から明日会おうと言われてすぐにOKする女などなかなかいないようだ。


 ベッドの上で、寝るでもなく起きるでもなく、スマホをイジっていると、マッチングアプリの通知が不意に表示された。

 通知を見ると、女からのメッセージだった。


(いいよ。どこで会う)

 

 時刻は夜七時前、城田は池袋駅の改札前にいた。

 都内でも屈指のターミナル駅のため、構内は平日にもかかわらず、混雑していた。


・・何故、こんなことをしているのか。・・・


 今、ここにいることを城田は酷く後悔していた。

 返信が来た女とメッセージをやり取りして、約束を取り付けたのは他ならぬ自分自身なのに。

 メッセージが来た瞬間は、単純に心が浮揚した。


 美人な女が自分のような男と無償で会うことを認めてくれたのだから、それ自体、自意識を満たすのには十分だ。

 だが、実際に会う段になって、そんな満たされた承認欲求よりも、緊張がはるかに勝ってしまう。


 普通レベルの女と二人きりで会うこと自体、酷く緊張を強いられる。

 今回は美人で、しかも当日突然決めたため、心の準備も実際の段取りも不十分なのだから、なおさらだ。


 そういう訳で、城田は住んでいるアパートの最寄り駅から近く、若干土地勘がある池袋駅にいる。

 はじめて就職活動の面接に挑む学生のように、酷く不安な表情を浮かべて突っ立っている。


 待ち合わせの七時まで、城田は心ここにあらずといった調子で時間つぶしと気を紛らすために、構内を見やっていた。

 ほとんど、緊張のために外観は視界に入って来なかったが、唯一保険の広告だけが目に飛び込んできた。


(もしもの時のガンに備える保険)


 いつもなら、気にもしない広告だが、今は違った。

 現実を直視させ、心を揺さぶるには十分過ぎるインパクトがあった。

 スマホのエロ画像でオナニーをしていたところに、いきなり会社から電話がかかってくるようなものだ。


 本能が刺激され、考える間もなく、気分が酷く悪くなる。

 なんとか、気分を落ち着かせようと、広告のレトリックに心の中で突っ込みを入れる。


(もしもの時に備えるだと・・・どうやって備えるんだ。保険に入っていれば、こんな状況でも、気分が晴れやかになるっていうのか)


 保険屋も銀行と同じだ。

 究極的にその意味を還元するならば、銀行が「金貸し」なら、保険屋は人の運命~死~を賭けの対象にしている「博徒」だ。

 

 だから、保険屋も銀行と同じように曖昧な綺麗事を謳った広告を打って、その本質を覆い隠そうとする。

 所詮、保険で備えることができるのは、「金」だけだ。

 今必要なのは「金」などよりも、この圧倒的な現実を覆す力だ。


・・クソ・・もっとちゃんと健診を受けてればこんなことには・・・

 

 誰のせいだ。

 こんな目にあっているのは。

 健診を怠った自分か。


 いや、ストレスが原因ならば、会社の、いつかのクソ上司のせいか。

 たとえ健診を受けていても、早期発見できただろうか。

 どのみち、後の祭りだ。


 後悔、怒り、様々な感情が脈絡もなく、ぐるぐると頭の中で入り乱れ、グチャグチャに回転する。


「えっと。城田さん?」

「えっ・・はい?城田ですが・・」


 脳内にトリップしていた城田は、現実に引き戻される。

 どうやら、女性に話しかけられたようだ。


「あの、アプリでやり取りしていたものです。はじめまして」

「あっ!は、はい!ど、どうも!」


 言葉がつっかえてしまう。

 完全に動揺していた。

 なんとか、目の前の現実に脳を対応させようとする。

 が、まだ追いつきそうもない。


「とりあえず移動しましょうか?」


 促されて、改札から移動する。


・・どうする・・・店も何も考えてなかった・・


「私、池袋けっこう来るんですよ。行く店って何か決めてます?」

「えっと・・突然で、ちょっと決めてなくて・・」

「よかった~なら、オススメあるんで。そこ行きましょうか」


 助かった。

 思わず胸を撫で下ろす。

 女に先導される形で、池袋の繁華街を歩く。

 他のことに目をやる余裕が出てきたため、後ろから女の外見をしっかりと見る。


 美人だった。

 写真よりも、可愛いくらいだ。

 こんな美人な女と二人きりで過ごすなんてはじめての経験だった。


 視界の隅の池袋の風俗街を見遣る。

 金を払った時でさえ、相手をしてくれた女は、この女よりも幾分か劣っていたことを思い出す。

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