第25話 認めてしまったら 2

 ブレスレットが目の前に落ちる。

 五つ連なっていた碧の飾りが二つに分かれていた。

 ツバキは咄嗟に膝をついて掴み取り、うずくまる。


 激しい鼓動がドッドッドッと打ち始め、頭にまで鳴り響く。

 今の行動は間違いだと警告するように。

 取ってはいけなかったのに手が勝手に動いていた。


「私は結婚、するの」


 ツバキは皇族として自国に尽くす責任がある。

 サタールの王妃となることが、正しい未来。

 正しい選択。

 手の内にある物は過去にしなければならない。

 わかっているはずなのに、開くことができない。

 思い出してはいけないのに、どうしてもカオウの姿が目に浮かぶ。

 ツバキの名を呼ぶ声も、はっきり耳に残っている。


「皇女だから。セイレティアだから」


 自分の主名はセイレティアなのだと何度も心の中で繰り返して、カオウの声を消す。


「強情」


 呆れたように鼻で笑ったレオが、蹲っていたツバキの体を持ち上げる。


「なっ。何するの」


 ツバキは抵抗したが逃れられず、ベッドに仰向けに倒され、ブレスレットを握りしめた手を押さえつけられた。


「ツケが残っていたと思ってな」


 ギラついた目をしたレオの左手が、めくれたスカートの中へ伸びる。

 ふとももをまさぐられ、ゾワッと鳥肌が立った。


「やめて」


 抗議した唇を塞がれそうになり、必死に顔を背けると、首筋に温かいものが触れる。


「や……だ……」


 豹変してしまった彼の荒々しい口づけはただただ恐ろしく、湿った唇が動くたびに息が止まりそうになる。


 空いていた右手でレオの体を押し退けようとするがさらにのしかかられた。

 無理矢理足を開かされて全身が震え始める。

 露出した足の間に男性がいるという卑猥な格好は、ツバキには耐え難いほど屈辱的だった。


「レオやめて。お願い」


 怯えた声を絞り出しても、レオの手は止まるどころか上がっていき、布地越しでもうごめく指の感触ははっきりと生身に伝わる。

 込み上がる不快感は胸の膨らみに触れられた瞬間、ついに弾けた。


「いやあっ」


 足輪についていた赤い石が一度に五つ砕けた。


「やだあ!」


 また二つ石が割れる。


 だが残りの三つはどれだけ魔力を込めてもヒビが入っただけだった。さらに一気に消費してしまったせいで意識が朦朧としてくる。


 レオの右手が手首から肩へと滑り、いつの間にか外されていたボタンの下を通った。


「触ら……ないで」


 直に伝わる手の平のぬくもりが心の熱を奪っていく。

 思考も理性も責任も、ツバキが明確に保持しておくべきものがかすみがかって消えていく。


「触らないで」


 薄れゆく意識の中で残ったのは、自らが手放したはずの面影。

 心に光を届けるような、優しい優しい、金色の瞳。


「触らないで」


 ──触っていいのは。

 

「カオウ以外触らないで!」


 ピタリとレオが止まる。

 ツバキはブレスレットを口元に引き寄せ、うわ言のように続けた。


「カオウしか触っちゃだめ。カオウじゃなきゃいや」


 カオウには嫌悪感を抱いたことはなかった。

 乱暴なキスをされても、戸惑いや恐怖はあっても不快ではなかった。

 別れ際の行為も、触れられるほど心は溶かされ、すべてをゆだねそうになった。


「カオウがいいの」


 結婚が何をするものかはわかっていた。

 覚悟さえすれば、受け入れられると思っていた。

 だが幼いころから当たり前に享受してきたぬくもりは体に染みついてしまっていた。

 一時的にでも気持ちが揺れたレオでさえ駄目ならば、例えサタールの王子が優しく導いてくれたとしても、受け入れることはできないだろう。


「カオウ……カオウ……」

 

 ツバキは顔を隠して泣きじゃくった。

 今すぐカオウに抱きしめて欲しいと切望した。

 子どものころのような、安らぎを得るためだけの抱擁ではなく。


「私……カオウが好き」


 とめどなく涙が流れ落ちていく。


「気づいちゃ……いけなかったのに……」

「本気で気づいてなかったのか」


 呆れ声のレオが再びツバキの服へ手をかける。

 ビクッと狼狽えたが、レオは乱れた服を直しただけだった。


「お前に王妃は務まらない」

「覚悟が足りないって言いたいの?」

「足りないどころじゃないだろう。お前のは覚悟というより逃避に思える」


 核心を突かれたツバキの目が再び潤む。


「ま、俺も人のことは言えないが」


 フンと軽く笑ってから、レオはツバキの目をまっすぐ見据えた。


「どうせ逃げるなら、本当に逃げたい方にしろよ」


 レオが言わんとしていることはわかっても、ツバキはすんなりと頷けない。

 選択した未来をつい考えてしまい、気が沈む。


「カオウは魔物よ。人と魔物は結ばれないとレオも言っていたでしょう」


 ツバキが無言になると、レオは体を起こしてツバキの手を引き、座らせた。


「"月は手を伸ばすだけでは届かない。だが、触れることはできる"」


 意味がわからずきょとんとするツバキ。

 レオは懐かしむような表情で続ける。


「先生の言葉だ。どんなに困難でも、方法を変えれば叶えられるって意味」

「月を触ることなんてできないわ」

「今はな。遠い未来はできるかもしれないぞ」


 レオはニッと明るく笑った。


「お前は小国に嫁ぐにはもったいないよ」


 そう言うとツバキをベッドから降ろし、ズボンから取り出した小さな鍵でツバキの足輪を外した。


「解放してやる」

「え?」

「ツケは払ってもらった。充分すぎるくらいな」

「…………」

「だがなあ、やっぱりもう少し育ってからもらえばよかったな」

「!?」


 レオが何か小ぶりなものを掴むような仕草をする。

 ツバキはたおやかに微笑んだ。

 皇女の優艶ゆうえんかつ清廉な微笑みは、レオを魅了し邪な心を浄化した。


 奥義、皇女の微笑み。


 バッチーンッ!


 間髪入れず左頬を引っぱたく。今までの恨みつらみを込めて。


「いっっっってえええ!!!! ちょっ……嘘だろ。クッソ痛え!」


 レオが真っ赤に染まった頬を両手で押さえる。

 完全に油断していたのでかなりの衝撃だったようだ。


「皇女に手を出してこれで済んだのだから有難いと思いなさい」


 ツバキは笑みを絶やしていないが目は笑っていない。

 暖炉の火が消えそうなほど怒りの冷気を放っている。

 皇女然とした迫力に身震いするレオ。


「やっぱすげーわ、お前」


 がっくりと肩を落として長いため息をつく。


「もう行け。飛馬車は好きに使っていいし、欲しい物があればナナに言え。……あいつのことだから、もう準備してるかもな」

「ナナが?」


 言われて扉を開けると、ちょうどナナがパタパタと廊下を走ってきた。


 部屋から出てきたツバキを見て、安堵しているような、悲しんでいるような、後ろめたさを残したような、そんな複雑な表情を浮かべる。


「行っちゃうんだね」

「うん」

「必要な物は全部、飛馬車に用意してあるから」

「うん、ありがとう」

「元気でね」

「ナナも」


 ツバキは強くナナを抱きしめ、ナナも抱きしめ返す。

 一緒にいたのはわずかな日数で、身分も境遇も違う二人だが、随分昔からの友人と別れるような惜別の情を抱いた。


「さようなら」


 再会の約束はできない。

 ツバキは目の端に溜まった涙を拭い、ナナとレオを交互に見てから、走り出した。





 ツバキが飛馬車で飛び立っていく姿を窓から確認したナナは、椅子に座って同じように外を眺めていたレオへ向き直った。


「振られちゃったね。かわいそー」

「別に本気じゃなかったしな」

「あっそ」


 クスッと笑ったナナは、足を組むレオの前に立つ。


「これからどうするの?」

「店はカズンに任せる。ナナが知らない店は全部潰したから安心しろ」

「レオは?」

「俺は一応逃亡者だからな。ナナも好きにしていい。一人で生きていけるだけの知識はついたはずだ。この店じゃなくても……」

「バカ!」


 ペチンッとレオの右頬を叩く。

 虚をつかれたレオは面食らった。


「なんだよお前まで!」

「一人で何でも抱え込むから、こうなったんでしょ!」


 ナナは仁王立ちして咎めるように目を細める。


「レオはお金遣い荒いんだから、一人でいたらすぐに野垂れ死んじゃうよっ。仕方ないから、一緒に行ってあげる」

「だめだ。危険がないわけじゃない」

「絶対ついていく! わたしもう、置いていかれるのはいやだ。連れてけバカ!」


 顔をくしゃくしゃにして泣くのを堪えるナナに根負けしたのか、レオはチッと舌打ちした。


「わかったから泣くな」

「泣いてない!」

「ああそうかよ」


 レオは小さな体で虚勢をはるナナを見つめた。

 気持ちを溜め込む性格だと知っているレオは、これ以上の負担を強いることができずナナを遠ざけていた。

 それがナナを傷つけるとわかっていて。

 結局、自分の弱さや汚い部分を見せたくないだけだった。


(本当に逃げたい方へ逃げろ、か)


 良く言えたものだと胸の内で自嘲する。

 それが何か見失い、間違った道を選んでしまった悔いが消えることはないだろう。


「レオ? どうしたの?」

  

 我に返ったレオは、足を組むのをやめて、ナナを近くにあった椅子に座らせた。

 当惑するナナに向かって静かに口を開く。


「お前に聞いてほしい話がある」


 ナナは何を語られるか察したようで、口を固く引き結ぶ。


(また泣かせちまうな)


 皇女とは違う緊張を感じながら、レオは慎重に話し始める。


 空はいつの間にか紅に染まっていた。

 曇から透けて差し込む光が二人を包み、ゆっくり色を変えていった。

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