第30話 レイン
立っているのか、寝ているのか。
上を向いているのか、下を向いているのか。
目を開いているのに、閉じているような気がする。
何も見えない。誰もいない。
自分自身さえも本当に存在しているのか信じられなくなりそうだった。
そうじゃないと確かめるように、ツバキは暗闇の中へ声を発する。
「どこにいるんだろう?」
目を開けるとここにいた。
辺りは真っ暗で、宙に浮いている感じがあった。動くとバランスが崩れて何度も悲鳴を上げながら宙返りしてしまい気持ちが悪くなったので、今はこうして何もせず身を任せている。
「カオウの空間に似てる気はするけど」
ツバキも一度だけカオウの空間に入れてもらったことがある。そのときはいろんな物が入っていた。年代物の壺、金でできた置物、巨大な宝石、服、調理器具、おもちゃ、見たこともない道具等々。
でもここには何もない。
「ここは私が作った空間ってことかしら。作ったというべきか入ったというべきかわからないけれども。他人が入ると気が狂うのよね、確か。自分のなら大丈夫なのかな」
しかし平衡感覚がないまま暗闇の中に一人で居続けたら、発狂しそうな気がした。
「戻り方がわからない」
どれだけ帰りたいと願っても出られなかった。
「魔力が足りないのかな」
体が怠い。自分でここまで魔法を使うのは初めてだった。
「本気で帰りたいと思ってないのかも」
思い出してまた身悶え、ぐるんと宙返りする。
初恋の相手を皆に知られたなんて恥ずかしくて死にそうだ。
「あの子ったら何考えてるのかしら」
唇にそっと触れる。
五歳のころから毎日一緒にいたので、半ば育てられたようなものだ。そういう目で見られていたとは知らなかった。独占欲はあるなと感じていたが、授印はそういうものだと気にも留めていなかった。
「これからどうしよう」
やっと会えたのに、カオウの姿が変わって動揺している。
面影はあるのに違う人のようで、髪と瞳以外直視できなかった。
しかも告白されてキスまでされて、またされるかもと思うと会うのが恐い。
かといって、また離れてしまうのは嫌だった。
「頭の中ぐちゃぐちゃ」
こういうときどうしていたっけと思い返しても、やはり頭に浮かぶのは以前の姿のカオウ。楽しかったこと嬉しかったこと、悲しかったこと悔しかったこと腹立たしかったこと、すべてカオウに話していた。それで心を落ち着かせていたというのに、一人でいるとどうしていいのかわからない。
深くため息をつく。
いなくなって初めて、彼が与えてくれたのは精神的な安らぎだけではないのだと気づいた。世間知らずの皇女が今まで城を抜け出して無事でいられたのは、カオウが守ってくれていたからだ。最近の公務でも、カオウがいれば街で迷うことも、変な男たちに絡まれることも、ケデウム副長官の息子に攫われることもなかった。
それから。
「レオにも出会うことはなかった……」
声に出してしまい、ぞわりと胸のあたりがざわついた。彼を思い出してしまうのは良くないことだ。
「ああもう。カオウのこと考えていたのに」
「フフ。モテる女はつらいってね」
「!?」
突然聞こえた声に仰天してバランスが崩れた。
キョロキョロとあたりを見回しても誰もいない。
とうとう幻聴が聞こえるようになったのだろうかと思っていると。
「お邪魔しまーす」
暗闇の中から、ぬっと上半身が現れた。
腰まで長い赤紫色の緩やかなウェーブヘアに、挑発的な目とぷっくりと色っぽい唇が魅惑的な美女。
よいしょと言いながら何かをまたぐように入ってきて、唖然としているツバキに手を振る。
「やっほー。見えてるよね、あたしのこと」
「だ、誰?」
胸元が大きく開いた細身のドレスを着た、妖艶という言葉がぴったりな女性が妖しげに微笑む。
「そうねえ。レインとでも呼んで」
「レイン?え、えっと、何者?」
戸惑いながら問うと、女は体をくねらせ、人差し指を顎に当てて考える。
「何者かしらねえ。んー。あ、空間案内人、みたいな?」
「みたいな?」
「あんまり深く考えなくっていいのよお。何悩んでいたの?」
「何って……」
突然現れた不審人物に話せるようなことは何もない。
「カオウとレオの間で揺れているの?」
「ふぇ?」
驚きすぎて間抜けな声が出てしまった。
「もしかして聞こえてた?」
「それもあるけど、あたしはあなたのことなら何でも知ってるわよ」
レインの目がキラリと光る。
「……どういうこと?」
レインはツバキを誘うように流し目を向けると、空を蹴って前へ進んだ。
「ついてきて」
「ま、待って」
ツバキも真似るが、なかなか進まない。見かねたレインがツバキの手を引きながらコツを教えてようやく一人で移動できるようになった。
「慣れてきた?」
「なんとか」
「ここはあなたの空間だから、何を入れてもいいわよ。あと、あなたも好きなときに入っていいけど、時間の感覚はなくなるから気を付けてね」
空間案内人を自称するだけあって、淡々と説明する。
こんなところにそんな人物がいるだなんてカオウから聞いていないから不信感は拭えないが、少しだけほっとした。一人でいるより何倍もマシだ。
「他に何か聞きたいことある?」
レインは柔らかく首を傾ける。仕草がいちいち色っぽく、少しどきりとする。
「えっと……。どうやって出ればいいの?」
「出たい場所を思い浮かべるだけよ。あ、でも会いたい人を想ったほうが簡単かも」
「会いたい人……?」
今会いたい人と考えて脳裏に浮かんだのは、女官や侍女たちだった。カオウには今は会いたくない。
「ああん。女性なんてつまんない。こういうときは男性だって相場が決まっているのよお」
「相場?」
どんな相場だ。
「って、声に出してないのにどうして女性だってわかったの?」
「言ったでしょ。あたしはあなたのことは何でも知ってるのよ、セイレティア」
艶やかな唇が弧を描く。
「カオウを避ける理由、当ててあげましょうか?」
「あんなことされたら、避けるでしょう」
「あんなことって、キスのこと? その前から避けてたでしょ」
本当にレインはツバキのことをよく知っているようだ。
上目使いでツバキの顔を覗きこんでくる。
「男を意識しちゃったんでしょう、成長した彼を初めて見たときから」
ツバキはプイッと顔を背けた。
「カッコ良くなったものね。仕方ないわよ、完全に人の姿だもの。いいじゃない付き合っちゃえば」
「そんなことできるわけないじゃない」
「どうして?」
「私は皇女よ。国のためにシルヴァン様と結婚しなくちゃいけないの」
「建前ね。まだ決心してないくせに」
「だとしても、私は相手を選ぶ立場にない」
「あら、恋くらいしてもいいじゃない」
「くらいって」
簡単に言ってくれる、とツバキはムッとした。
皇女である以上、そんな感情を持ってはいけないのだ。特にカオウに対しては。
レインはくすりと笑い、またツバキの顔を覗き込んだ。
「怖いのね、一緒にいられなくなるのが」
胸の奥底を突かれたような痛みが走り、視線を逸らす。
「恋愛感情が入ったら、今までの関係を壊すことになるものね」
レインは押し黙ったままのツバキの耳元に唇を寄せた。
「魔物と人は成長速度も寿命も違う。今は良くても、十年後二十年後、きっと一緒にはいられない。だったら初めから恋愛感情なんて抱かないほうがいい、ってところかしら?」
カオウは若いまま、しかしツバキは確実に年を取る。
今は好きでも、外見が変わってしまえば、きっとカオウの気持ちは変わる。
恋愛という不安定な感情で結ばれた絆など、簡単に崩れてしまうに違いない。
「でもね、カオウはもうあなたのことを好きになってしまったのよ。だからあなたも、カオウを好きになるか離れるか、どちらかを選択するしかないのよ」
突きつけられた事実、受け止めきれない現実に苦悶の表情を浮かべる。
「そんなこと……できない」
「それなら、あの子の気持ちは無視して授印としてそばに置きながら他の人と結婚するの?」
「……!」
確かにそうだ。自分の願いを優先すればカオウの気持ちを踏みにじることになる。
「酷いこと言ってるわね、私」
「誤解しないで、責めちゃいないわ。それでもいいと思うわよ? だってカオウの寿命からしたらあなたと過ごす年月なんて、人間で言えばほんの一、二年のことだもの。むしろカオウのワガママに皇女のあなたが人生を捧げる必要はないわ」
「……」
険しい顔で黙ってしまったツバキを見て、意味ありげに目を細めるレイン。
「まだ時間はあるからじっくり考えなさい。その間にカオウより一緒にいたい人間ができるかもしれないし。レオとかどう?」
「なっ」
ツバキは目を見開いてぶんぶん手を振った。
「何を言っているの? 彼のことは何とも思っていないわ」
「そーお? アモルでのデートではいい雰囲気だったじゃない」
「……レインって、ずっと私を見てるの?」
「あなただけじゃないけどね。あたしは外の世界へ出られないから、つい覗き見しちゃうの。大目に見てちょうだい」
レインはウインクして、妖艶に微笑む。
「恋は落ちるものよ、どう足掻いたって止められないの。好きになっちゃだめともがけばもがくほど落ちていく。たとえ相手が魔物であろうと、敵であろうとね」
そう言うと踊るように二回ほど優雅に回って、ツバキから離れた。
「そろそろ帰る時間よ。出口はこの中から選んで」
「え?」
目を光らせたレインが指をパチンと鳴らすと、暗闇に五人の男が映し出された。
「さあ、あなたは誰がいい?」
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