第8話 おいてけぼり
──気持ち悪い。頭痛い。
「なんだいトキツさん。二日酔いかい?」
食堂の店長、チハヤの明朗な声がトキツの頭に響く。
ただの二日酔いならどれほどよかったか。
目覚めた時は天井と床が始終回転して平衡感覚がなく自分が立っているのか座っているのかさえ定かではなかった。
落ち着いた今も船に揺られているかのようだ。
トキツは食堂のカウンターに座り、眉間を手根でグリグリ押した。
ギジーも隣で長い舌を出し突っ伏している。
「はい、濃いめのコーヒーだよ。ギジーにはシスルジュース」
チハヤが二人の前にコップを置いた。
続いて蒸しパンとゆで玉子が出てくる。
「あれ、頼んでないよ」
「朝十時までに来た人にはサービスしてるんだよ。うち特製の蒸しパンさ。今は食べられないってんなら、包んであげるよ」
ふんわりとした生地に甘い芋が入ったチハヤ食堂の蒸しパンはおいしいと評判で、しかも朝来店すれば飲み物一杯分の料金で食べられる。
その人気ぶりは、カイロに住んでいて食べたことがない人はいないのではないかと言われるほどだった。
トキツはせっかくなので少しちぎって口に運んだ。
芋の控えめな甘味がコーヒーによく合った。
『さすが都会だな。授印が結構いる』
起き上がったギジーが蒸しパンをモシャモシャ食べながら店内を見回した。
五十人ほどいる客のうち、十頭が魔物だった。転化している魔物もいる。
転化といっても体が毛むくじゃらだったり、耳や尻尾が獣のままだからわかることで、カオウのように完全に人に化けられる魔物はそうそういない。
「田舎にはいなかったからな」
平和になった現在、自分の魔力を授けてまで授印を持ちたいと考える平民は減ってきており、農民が多くいる町村ではあまり見かけない。
比較的栄えた所では授印はいるにはいるが、魔物は入店禁止の店がほとんど。
その点カイロはこうして一緒に入れる店が多いことからも、魔物と人が共存していることがわかる。
目立たないよう姿を消すことが習慣になっていたギジーがのびのびしているのも喜ばしいことだ。
「おや、食べられたんだね。よかったよ」
気づけば蒸しパンを完食していた。
チハヤが上機嫌で水を注いでくれる。
「トキツさんは用心棒でもやってんのかい?」
「よくわかったね」
「腰にさしてる剣をみればね」
「兵士かもしれないよ。どこぞの令嬢の護衛とか」
ツバキを思い浮かべて言うと、チハヤが快活な笑い声をあげた。
「そりゃあないね。ぼさぼさ頭にそのヒゲじゃ。悪いけど服装もそろそろ新調したほうがいいんじゃないかい?」
「ひどいなあ。いろいろと便利なんだよこの服」
数種類の武器を隠せるのでちょうどいいのだ。
しかし考えてみれば、お忍びでも皇女様を護衛するのだから身なりはきちんとしておくべきかもしれない。破格の報酬をもらえるのだし、そろそろ新調するかと思いながらトキツは顎ヒゲを弄る。
(そういえば、あの皇女様はどこにいるんだろう)
近々連絡手段を渡すとロウに言われたが、それまでは彼女がいつ城を出たかわからないため逐一透視しなければならなかった。
目を閉じて対象を思い浮かべる。
パンっと耳の奥で音がして弾かれた。
<まだ城にいるってことか>
再び机に頭を乗せてだるそうにしているギジーが思念を送ってきた。
城はさすがに結界が張ってあるようで、城にいるときはこうして弾かれてしまう。
トキツはとりあえず役目がないことにほっとした。この体調で護衛はきつい。
「ねえトキツさん、用心棒ならいろんな街に行ったことがあるんだろう? あの眼鏡がなんなのかわかるかい?」
チハヤが店の端に座っている男をこっそり指さした。小さな双眼鏡のような眼鏡をかけている。
「ああ、あれは魔力のない人が魔物を見る眼鏡だよ」
「魔物を?」
「帝都の人たちには考えられないかもしれないけど、別の州では魔力のない人が増えてきてるんだ。これまで魔物がうじゃうじゃいる帝都なんて怖くて来られなかった人たちが、この眼鏡のおかげで旅行や商売ができるってんで、今爆発的に売れてる。姿を消されても下級魔物までなら可視化できるらしい」
「へえ。どういう仕組みか知らないけど、まるで魔法みたいだねえ」
「隣のウイディラで開発されたんだって」
ウイディラはバルカタルの東にそびえるダブロン山脈を越えたところにある王国だ。魔力のない人が多く、その分いろいろな武器や道具の開発に力を入れている。
トキツもある筋から、その武器の一部を見せてもらったことがあった。さらに最近、対魔法の武器が出回るようになったという噂もある。
それが意味するのは何か。
それをぼんやり考えていると、チャリン、と店の扉が開く音がした。
チハヤはいらっしゃーいと挨拶し、男性客が席に着くと厨房にいる女性店員に声をかける。
「ツバキちゃん、ヨツさんにいつものやつお願い」
女性店員ははーいと明るく応えた。
もちろんその女性店員は皇女のツバキではない。
ツバキという名前は十六歳以下の平民女子に多い名前だ。
平民にとって今の皇族は憧れの対象であるため、皇子女が誕生するとそれにあやかって自分の子に同じ名前を付ける親は珍しくない。
「そういえば、昨日俺と一緒にいたツバキちゃんとは昔からの知り合い?」
「まあそうだねえ。昔っから店に来てたし、二年前は少しの間働いてくれていたし……」
「え!? は、働く?」
思わず大声を出したトキツに周囲の目が集まった。
「そんなに驚くことじゃあないだろう。そりゃあ、いいとこの娘って感じだから、お金が欲しいというより働いてみたいって感じだったけどさ」
絶句するトキツ。
皇女が平民の街で働くなど聞いたことがない。
頭痛がしてきた。朝から続く痛みとは別の痛み。
どうやら予想外のことをやる皇女をこれから護衛しなければならないらしい。
深くため息をついて、残っていたコーヒーを飲み干す。
『あっ』
ギジーが突然顔を上げた。
『ツバキが見えた。なんか屋台にいるけど』
慌てて透視すると、確かに屋台が並ぶ場所で楽しそうに何かを食べている。
「なあチハヤさん、屋台ってどこに出てる?」
「ここから西へ行けばいいよ。人の流れに沿えばすぐに見つかるさ」
いつの間に移動したのか。
これからも知らない間に城を抜けられたのでは、護衛も何もあったものではない。
トキツはようやくまともに動けるようになった体を目覚めさせるように首や肩を大きく回すと、まだ調子の悪そうなギジーを担いで行動力のありすぎる少女の元へ向かった。
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