ヒーロー辞めてみた。

天ぷら

プロローグ 仕事は思い通りにいかないもんだ。

 仕事っていうものは大抵のものは思い通りにいかないもんだ。

 今週の予定を組み立てた暁には一日目にしてノルマは崩れ去るし、やりきったと思った仕事がトラブルや誰かの都合で復活してくることもある。それどころか、最悪の場合、初めから無理難題を吹っ掛けられることだって起こりえるのだ。

 俺の就職した会社は給料分は毎月きちんと支払うし、社内の人間関係も特別険悪な話は聞かない。しかし、そうであってもやはり仕事ってのは一筋縄ではいかないもので、俗にデスマとか呼ばれる事案が発生することもしばしば。

 そんな訳で、残業明けに一服ふかしに俺は禁煙室に籠っているのである。


「……はぁ」


 疲れが取れるわけではないが、煙草で濁った息を吐くと大分気が紛れる。それでも帰宅するための気力ぐらいしか湧く気はしないけれど。


「あれ、まだいたのかい」


 ひらひらと手を振りながら喫煙室に入ってきたガリガリの男は上司の高倉さんだ。この人も残業明けのはずだが、その面持ちからは疲れを全く感じられない。懐からライターを取り出し二、三度カチカチと音を鳴らすが着く様子がない。こちらの顔を伺って来たので仕方なくライターを渡した。


「あの、……そのライター先週から切らしてませんでした?」

「まぁねぇ。なかなか買いに行く時間がなくてね」


 何を悪びれる様子もなく話しているんだこの人は。ということはこいつは喫煙室に俺のライターを借りに来た訳で、今目の前で下らない三文芝居を俺に見せていた訳か。

 一言でも文句を言いたかったが、それをすれば間違いなく家に帰る気力まで使い切る羽目になるので堪えた。


「はぁ、お疲れ様です。今回もなんとか乗り切りましたね……」

「そうだねぇ。それもこれもどこぞの有能な上司のおかげだろう。もっと労いたまえ」

「そうですね。今度黒田部長に伝えときますよ。あの高倉さんが感謝してたって」

「あいかわらず君はひねくれているなぁ。出世の道は遠そうだ」


 言うと高倉さんは吸い始めたばかりの煙草を灰皿に押し付け火を消した。もう出て行ってくれるのだろうか、と思ったが、彼は空になった煙草のケースを俺にわざわざ見せてきた。くれってか、一箱550円もするのに安月給の平社員の俺にこの煙草譲れってか……!


「今一瞬帰ってくれると思っただろう? 残念だったね」

「いやぁ、思ってないですよ。そんなこと」


 俺こいつ嫌いだわ。

 俺の煙草に俺のライターで火を点け、何食わぬ顔で煙草を吸い始める高倉さんの姿に少しばかり殺意が湧いた。


「広野君」


 俺が床を眺めながらちょっとした仕返しくらいできないかと考えていると、今度こそ煙草をふかし終わった高倉さんがふと訊ねてきた。


「どうだい、この職場にはそろそろ馴染んだかな」


 この人にしては珍しく良心的な上司らしいことを訊くじゃないか。


「…どうでしょう。もうここにきて三年ですし、馴染んだというよりか、慣れた気はしていますが」


 満員電車に揉まれながら通勤する朝。会社に着いたらキーボードを叩いて、昼になったら冷えた自前のおにぎりを食べて、疲れきった体で帰宅する。

 いつのまにかそれが毎日のルーティーンに変わった時には、ここは新しい会社ではなくなった。ただ、それは体がこの生活を覚えたというだけな気もする。


「君は時折面倒な返し方をするねぇ。そうだな、前の仕事への未練は消えたかい?」

「ないですよ未練なんて。給料は安定しないし、基本的に24時間労働させられるし、そのくせ休日は存在しない。あんなブラック企業に誰も好き好んで残ったりしませんよ」

「ブラック起業か。悪を倒すヒーローなんて職業がそういわれるのは少しおもしろいなぁ」


 ははは、とどこか乾いた笑いを高倉さんは浮かべていた。


「でもねぇ、誰でもなれる職業ではないだろう?」


 その言葉を俺は小さく、まぁ、と肯定した。

 ヒーローという職業には肉体的なフィジカルの強さは勿論、イードと呼ばれる特殊な力が必要となる。そもそも、ヒーローというのはイードを悪用する犯罪者に対する抑制剤の意味合いが強い。

 目には目を、歯には歯を。そんな乱暴な考え方で生み出されてしまった負の職業がヒーローというやつだ。先天的に発現しうるイードを持たなければならない以上、誰でもなりえる職業ではない。


「僕はねぇ、広野君。人ってのは皆、特別でありたがるものだと思ってたよ」

「酒飲んでます?」


 高倉さんは普段からよくしゃべる人だが、こんな風に自分語りなんて聞くのは初めてだ。いつもは基本的に人をおちょくる発言しかしてないから。


「まぁ、そういわずに。僕にも語りだしたい時ぐらいあるの。自分の人生観とか」

「遠慮してもいいですか」

「いやいやぁ、僕くらいになれば皆むしろ聞きたがるよ? ほら、そこらへんにはいない人種でしょ?」


 確かにどんな人生観で生きていればこんなに性格ひん曲がるのか、誰でも興味位湧くかもしれない。


「広野君さ、僕の事うらやましいと思ったことある?」

「すごいあります」


 人を人とも思わないいっそ清々しい程の図々しさを見ていると、あんな風に生きれたらと思う事はある。


「そうだろう。まぁ、この歳でそこそこ出世してるから、嫉妬するのも仕方はないさ」


 いや、断じて違うんだが。


「まぁ、仮に君がそう思ってると仮定してだよ。君はそれをどう思う?」

「……どうも、何も思いませんよ」

「へぇ」


 自分の上にいる人間に対する嫉妬。それは、今の自分に納得がいかないことを裏付けるものになりかねない。

 自分はもっと上手くやれるはずなのに。もっと評価させることができるはずなのに。そんな行き場のない感情の形が、嫉妬というものな気もする。

 なら、その嫉妬から目を背けることも一つの選択だ。嫉妬を抱くことがひどく人間的であると同時に、その事実から自分を守ることもただの人間的な行為だと思う。


「僕ならそんな感情は許さないけどね。絶対に」

「なんかわかりますよ。高倉さん、他人に興味なさそうですもんね」

「心外だなぁ。いや、ほんとに心外だよ。君と出会ってもう数か月だ。この数か月、君は僕の何を見ていたのかなぁ」

「それこそ、他人を見てる暇なんてありませんでしたから。今日だってデスマ上がりで、一秒でも早くこの会話を切り上げたいくらいです」

「君さ、もしかして僕のこと嫌い?」

「ご想像にお任せしますよ」


 答えを濁すような返答をしていながらも、本心ではできることなら気づいてほしいぐらいだと思っている。

 人間関係を円滑に回す基本はコミュニケーション。他人同士の触れてほしくない一線は確認しあっておいた方がお互いのためだ。


「それは嬉しいなぁ。生憎と、僕は君みたいなはっきりした性格の奴が好きなんだ」


 もっとも、高倉という人間がそもそも人間関係を良好に築こうとしているかどうかは、全くの別問題ではあるが。

 だめだ、体力を消耗して疲弊したこの体ではこの状況を乗り越えることができるかどうか……。ストレス解消のために喫煙室に来たというのに、ストレスが増幅するばかりとは一体どうなっている。

 デスマがあろうと大雪が降ろうと、明日の仕事はやってくる。ここはとにかく家に帰宅することが吉だろう。そう考えた俺は、この無益どころか有害な会話を切り上げるべく、煙草の火を消して退出しようと喫煙室の扉に手をかけた。


「広野君、上司との大事な大事な会話をいち早く切り上げようとする忙しない人生を送っている君に最後に一つご報告があるよ」

「報告はまず初めに簡潔に伝えるのが社会人の常識だと思いますけど」

「そうかい、それはつまらない常識だ。遠回りを楽しめないなんて風情がない。そんな常識人なんて目指しているから、君はどんどんつまらない男になっていくんだ」

「あまり新入社員をいじめないでくださいよ。こっちはデスマ明けの疲れにもまだ慣れてないんですから……」

「その新入社員を君には晴れて卒業してもらうことになったよ」

「は?」


 煙草の先で俺を指しながら、高倉さんはなにやら妙なことを言う。

 新入社員を卒業というのはどういうことだ。


「聞こうか広野君。人が大人になるときはどんなときかな?」

「要件を簡潔にお願いします」

「はぁ……。つまらないことを言うなよ広野君。だから君は、顔は可愛いくせにモテないんだ」

「セクハラで訴えますよ。男だからってセクハラで訴えられないわけじゃないですから」

「分かった、答えを言うよ。それはね、子供ができた時だ。ようは、次の世代を自覚したときだよ。……広野君、」


 そのとき、彼はゆっくりと口角を釣り上げた。それは明らかに善くない笑みだった。子供が悪ふざけを企むときのようでいて、人の不幸を心底悦ぶような糞野郎の表情だ。

 俺は知っている。高倉という男は、決まって誰かをいじめるときにこんな表情を浮かべやがる。


「——君に後輩ができる。教育係は君だ。僕が決めた。」


 気づけば口からは「嘘だろぉ…」なんていう泣き言が漏れていた。

 ただでさえ仕事のペースが遅い俺をわざわざ抜擢するところには悪意しか感じない。いや、絶対にこの男の行動には悪意以外含まれていない。


「結構だよ。君が上司の命令のとやかく言う阿呆でなくて助かる」


 とやかく言わないのは開いた口が塞がらないだけだ。人というのは複数の感情が入り乱れると体が強張って動けなくなるらしい。

 固まっている俺の横を素通りして扉に手をかける高倉さんを、俺は目だけで追っていると、ふと彼は立ち止った。


「あとね、これはただの優しい上司からの助言なんだけど」


 そうして彼は、悪魔のような言葉をなんでもないかのように投げかけた。


「後輩君はどうやら君のファンクラブの元団長らしい。君の素性は彼には話していないけれど、バレたほうが、僕はとっても面白いと思う」


 それじゃあね、と悪魔は喫煙室を後にした。唖然として殺意さえ湧くことを忘れてしまった俺を置き去りにして。


 それから一週間後、本当に新入社員はやってきた。

 高倉さんの言う通り、元ファンクラブ団長の住永 一縷が、俺の後輩として入社してしまったのであった。

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