第53話
周囲は陽気な喧騒に包まれている。
奇妙な酒場で、見慣れぬ風体の男たちが酒を酌み交わしている。
肉の焼ける香ばしいにおい。時折どっとおきる笑い声。
お開きとなったところで騒ぎが起きる。
盗まれた。泥棒がいる。この中に。
知らない財布が転がり落ちる。
あいつだ。犯人だ。お前がやったんだろう。
目の前が暗くなる。
息ができない……
◇◇◇
ただ歩くだけで他人と肩の触れるような雑踏の中にいる。
高い建物に挟まれた道は、煌々とした灯りと、人の声で溢れている。
たった一人だ。
こんなにもたくさんの人がいるのに。
◇◇◇
白い大きな板のようなものを担ぎ、運ぶ。
何枚も何枚も。
籠のようなものに乗せ、上階で下ろす。
眼下に他の建物を見渡せる高い場所。
ここも同じような建物を作っている。
石材でもない、煉瓦でもない、木でもない。金属と見たこともない素材から作られている。
目眩のするような暑い日も、風の吹き荒ぶ荒天の日も、凍えるような寒さの日も。
ただ担いで、歩き、運ぶ。
◇◇◇
老人と二人、差し向かいで座っている。
床に座り、老人は酒を、自分は甘い飲み物を、それぞれに手にしている。
会話はさほど弾むわけではないが、居心地は悪くない。
仕事慣れたか。
うん。
老人は幾度となく訊いたことをまた尋ねる。
それに同じように答える。何度でも。
◇◇◇
扉の隙間から灯りが漏れている。
暗い、小さな空間に座り込んでいる。
尻の下は石のように硬く、冷たく、湿っている。
木製の棚に背をもたれさせ、膝を抱えて、じっとしている。
灯りの方からは、複数人の小さな話し声、笑いさざめく声、騒がしい音楽が聴こえてくる。
それは現実にはそこにない、遠い世界のものごとだ。
扉の向こうには女が一人いるだけで、無気力に座って遠くのきらびやかな世界を眺めているのを、知っている。
笑い声は続く。
威勢のいい男性の声が告げる。
続きはCMのあと!
◇◇◇
老女が窓辺の台に向かって煮炊きをしている。夕日に照らされて、白茶けた髪が輝いている。
くつくつと音をたてる鍋からは、食欲をそそる香りが漂ってくる。
椅子に座り足をぶらつかせながら、頬杖をついて食事の支度を待っている。
■■■、もうすぐできるから、手を洗っておいで。
はあいと素直に返事をして、席を立つ。
お腹すいたでしょう、洗ったらお皿を出してちょうだい。
笑って振り返った老女の顔は逆光で見えない。
◇◇◇
見上げる先では女が一人、やすりで爪を磨いている。
そちらへ伸ばした手に、視線が向けられることはない。
扉を叩く音がして、女ははっとして振り返る。
素早く立ち上がり、傍らにあった鞄を取り上げると、そのまま出て行った。ついに一度も、こちらを見ることがないまま。
薄暗い冬の午後。
女はそのまま帰ることはなかった。
◇◇◇
目を開いているのか、閉じているのかもわからないような暗闇だ。
……前にもこんな場所に来たことがある気がするな。
前?
そうだ、
ここにくる前は、どうしていたんだっけ?
そもそもここはどこで、俺はなぜここにいるんだ?
そうだ、俺。
自分。
こうやってものを考えている自分という存在。
長い旅をして、たくさんのものを見たはずだ。俺の知っているもの、俺の記憶。
それから、初めて見る、誰かの記憶。知らない場所、知らない人々。
何もかも曖昧だ。
もっと何か思い出せないか。焦りを感じはじめた。早く起きなければならないような気がする。
……どうしてそんなふうに思うんだろう。
そう、かなり緊迫した状況に陥っていたはずだ。だがそれは、犠牲を払いつつもなんとかおさめたのではなかったか。
犠牲、そうだ対価だ。
ほとんど全部、すっからかんになるまで搾り取って差し出した。
それで何が起きたんだっけ?
そうだ、ムニン!
思い出した。
俺は、俺たちは。ムニンを殺した。
意識と、魂と、記憶が結びつく。
俺はジャスレイ。
人族、成人男性、冒険者。
『凶運』。
『エルフ殺し』。
俺が歩んできて積み重ねたもの。
合意剣によって、ほとんど全て削り取られたはずの記憶と経験。
まだ思い出せる。
だがそもそも俺は今、生きているのだろうか?
もう人族としては死んでいて、合意剣の一部になったのか。アスリのように。
「どう思う?」
いきなり声がした。
アスリか。
「そう。やっと話せるようになったね」
真っ暗だ。
俺は死んだのか?
「ある意味ではね。残念に思うよ」
まあ、わかってたことだ。
他の方法を試す時間もなかった。
「後悔しているかい?」
どうかな。
他の皆が……助かったならいい。
心残りがないとは言わねえが。
「殊勝なことを言うね。ちょっと自己犠牲が過ぎる気もする」
自己犠牲、自己犠牲か。
俺はそういうのは、本当は嫌いなんだ。
特に、誰かの犠牲で自分が生き残るなんて最低だ。
でも俺の人生はどうしてか、そんなことの連続だったんだ。
「だから今度は自分の番だと思ったってわけ?」
そこまで深く考えてる余裕はなかったよ。
きっと今まで俺を助けてくれた皆だってそうさ。
「……ふむ。ところで話は変わるけど、この場所、見覚えがあるだろう?」
真っ暗で何も見えないのに、見覚えも何も。
「ああ、そうだった。これでどう?」
天地も前後もわからない暗闇に、淡い光が現れた。それはゆるゆると形を変えて、ぼんやりとした人型をとった。
そうか、ここはバーラのときの……
「そう。あのとき僕はまだ機能制限をされていた。そして今は、持てる全ての機能を発揮できる」
ああ。だから皆を守れた。
「ただ、妙なことがあってね。本来、僕には感情はない。意思も、欲求もないはずだ。あるように見えても、それは高度な疑似人格を、生前のアスリの魂を糧に動かしているから」
以前の無感情で平板だった頃と違い、今のアスリは会話していても人族やエルフと変わらないように思える。
疑似人格というのが実際にはなんなのか、俺に詳しいことはわからない。しかし言葉のとおりだとすると、彼女はシバラの手によるつくりものなのだ。
「でも今、僕にはやりたいことができた」
君の意思で?
「そう。だから気に病まないでほしい」
気に病む……?
「そろそろ時間だ。もうすぐ再起動するよ――」
アスリの光は急速に大きくなり輝きを増す。俺はそれに飲み込まれ、再び意識が途切れた。
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