第8話

 寒い季節ではないのに、トールの体は凍えてるみたいに震えて、頭巾の下に見える顔は蒼白だ。

「ちょっと座りな。盾外してやる」

 人混みを抜けるとちょうど役場の前に戻ったので、入ってすぐの場所にある待合椅子に腰を下させた。

 革の紐で肩にかけてある大盾を下ろしてやると、トールは両膝の間に頭を埋めるようにぐっと屈んで、手で顔を覆ってしまった。

「おっ、うまいよこれ」

 石畳に落ちて割れてしまった林檎の半分を取り出し、一口かじる。外套の内側につけてある隠しの衣嚢にとりあえず放り込んであったのだ。しみ込んだ汁気で胸元から甘い匂いが漂う。

「朝メシまだだったもんな。食えそうなら半分食うか」

 トールは無言で首を振った。

 様子がおかしくなったのは果物売りが泥棒、と叫んだあとだ。

 俺たちの背後で騒ぎが起き、市場の店主たちや客があっという間に犯人を捕まえた。それだけの出来事だったが、振り向いたらひどく動揺した様子になっている。

 事情はなんとなく想像つくのだが、それだけに俺から何か言い出すのは躊躇われる。

「ごめんな……」

 押し殺した声で、顔を覆ったままのトールが言う。

「そりゃ何に対してのごめんなんだ?謝られるようなことあったっけ」

 なるべく軽い調子で言ってやる。

「とりあえず俺から言えることはだ。もう俺はおまえはちゃんとしたヤツだって知ってるから、ちょっと何かあったくらいじゃ見捨てて行ったりはしねえぞ?」

 むしろ、俺の『凶運』が発揮されるのはこの後で、おまえの方がもうこりごりって言うかもしんないけど、と続けると、再び頭を振る。

「前にいたとこの、話でさ」

 トールは重いため息の後、やや湿った声色で話しはじめた。


「荷揚げの仕事は日雇いで、だいたいいつも同じ会社に雇ってもらってたんだ。そんで、ちょっと前……オレの日付の感覚だと一ヶ月前くらいに、社長さんが競馬で小金当てたとかで、その日いた皆に、肉おごってくれるって話になった」

 相槌を打って先を促す。

「やったー、ってなって、十人くらいかな、近くの店で二時間飲み食いして、そろそろ帰るぞってときに、一人が財布がないって言い出した。最初はバカな冗談かなって、面白くねーよって言ってたんだけど、どうもマジだって」

 普段の言動から察するに、こいつのいた世界は、どうもこことはかなり違うようなのだが、今の話は俺も情景が想像できる。

 そしてさっきの出来事にどうつながるのかも。

「どうする、警察呼ぶ?って話してるときに、何気なく床に放り出してあった自分の上着を持ち上げた。ちょっと寒いから着ようと思って。そしたら、ゴツン、て、知らない財布が転がり出てきた」

 なんでそんなことになってるのか、全然わかんなくて、何これ、ってなるじゃん?と途方に暮れたような声でトールは話し続ける。

「財布からは、金は抜かれてた。オレはやってないって言った。でも誰も口に出さなくても、お前、やったな、って、みんなの顔が言ってた。仲良くしてたつもりの人も何人かいたんだけど、みんな。そしたら、社長さんが待てやって言ってくれて」

 いい人なんだ、見た目いかつくてコエーけど。そこだけは少し明るい声で言う。

「みんな飲んでるから上着のことなんか気にしちゃいなかったし、オレたちの座ってた周りは他の客もいて、色んな奴が通ってた。だから、誰かが財布から金抜いたあとに有馬の上着に突っ込むこともできただろ、って。盗られた分の金は俺がやるから、警察は今日はやめとこう、って社長さんは言った。正直警察呼ばれるとスゲー面倒なことになるのみんな知ってたし、財布の持ち主も社長さんがそう言うならって、その日は解散になった」

 おそらく話はそれで終わらなかったのだ。

「次の日、社長さんとは話した。絶対にオレはやってないし、なんなら今からでも警察に届けて調べてもらっても、って言ったら、それはやめとけって結局うやむやになった。仕事は今まで通りちゃんとやってれば問題ないからって。でも、そっからやっぱ雰囲気変わったっていうか……誰もオレと目を合わさないし、現場でも知らない奴からまで変な目でみられるようになった」

 トールは顔の印象よりもおそらく年齢は上で、少なくともガキではないと俺はもうわかっていたが、屈んだ背中はいつもより小さく頼りなく見えた。

 だからというわけではないが、あんまりつらそうな調子で話すので、肩に手を置いて、指でとんとんと叩いてやる。しばらくして、息を整えるように肩が動き、また話しはじめた。

「正直すごくこたえた。しばらく休んだらどうだって社長さんは言ったけど、金が全然なくてさ。休んだらネカフェにも泊まれなくなるし、あっちは冬だったから、野宿もきつかっただろうし。他の会社の日雇いに行くのも考えた。でも噂が広まってたら?って思ったら怖くて。たかがそんなことで、って思うよな。でもあの時はもう頭ん中ぐちゃぐちゃで訳わかんなくなってたんだ。それで……」

 なんかもうどうでもいいやってなった時に、こっちに来たんだ。

 その言葉は、奇妙に無感情につぶやかれた。

「そのあとは、あんたも知ってる通り。変なことが次々起きて、見たことないもんばっかで、知らないオッサンが面倒みてくれて」

 オッサンで悪かったな。

「なんかそういうの久しぶりで、色々あったこともちょっと忘れられた。でもさっきの騒ぎで一気にぐわって、思い出ししんどさみたいな……ごめんなほんと、こんな湿っぽい話、あんたにするつもりなかったのに」

「さっきも言ったけど、謝ることなんか何もないからな。俺はおまえがやってないって言うの信じるし、やらないヤツだってわかってる。それで十分だよ」

 肩に置いていた手を頭巾に覆われた頭に持っていって、軽く叩いてやる。

「あんたさあ……」

 ぼやく口調のトールは、いつもの調子が戻りつつあるみたいだった。

「なんだよ?」

「いや、なんでもねー。ガキ扱いすんなよな」

 そんな風に言いつつも、トールは俺の手を退けようとはしなかった。

 




 

 

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