心理障壁(バリケード)

竜堂 酔仙

夢に見る五年と、活力に満ちた今日

      一.


 未明の街。

 薄青い空間が街を包み、物の輪郭も建物の形も曖昧にぼかしてしまう。

 そんな時間帯。


 古くも新しくもないアパートの一室で、その青年はひとつ、寝返りを打った。

 年の頃は二十代半ば。短い髪が寝癖でつぶれ、所々が跳ねた形になっている。

 寝返りを打った拍子にセミダブルのベッドから足が出る。冬の冷たい空気は、その一瞬で、容赦なく青年の足を冷やした。

 反対の足を器用に使って、布団の中に足を戻す。

 そんな最小限の冷気でも、青年の意識は少しずつ、しかし確実に、覚醒の水面へと引き上げられていった。

 青年はもうひとつ、寝返りを打つ。眉根にシワを寄せた。糸のように細く目を開け、毛布の下から片手を伸ばす。行き先は枕元のケータイ。

 画面を覗くと、五時半の文字。

 もう起きなければ、仕事には間に合わない。

 ケータイがパタリと倒れる。そのままたっぷり三十秒、文字通りの凍結フリーズ。モゾモゾ動いたかと思えば、今度は頭から布団を引っ被る。


「んぁぁ……」


 くぐもった声が響く。

 夢と現の間を彷徨いながら、青年は思わずにはいられない。


(しぬしぬさむいさむいむりむりむりむり)


 全身を布団でくるみ、ぴっちり寒気をガードする。


(ここからでた瞬間にしぬよ肌切れる)


 ぬくい布団にくるまって、猫のように丸まる。


(あぁ……)


 そうして、額からズルリと沈んでいく。

 ぬるま湯のような闇。

 意識が包み込まれてゆく。


 重力が消える。

 光が消える。

 音も、

 熱も、

 冷気も、

 身体も、


 何もかもが消えて、やがて意識すらその輪郭を溶かして――――





      二.


 狭いシングルベッドで仰向けになっている。

 昇り切って床を照らす日差し。

 壁に掛けられた時計は十六時をゆうに回り、室温はそれなり以上に暖かい。

 どうやらまた寝過ごしたらしい。胃が痛む。

 身体を起こす。頭を掻き、ヘッドボードの煙草を取り上げた。一本叩き出し、くわえる。するりと抜き出すと、ライターを手に火を点した。

 焦げゆく先端。煙を吐き出した。

 枕を間に挟んでヘッドボードに身体を預け、煙の行く先をあてどもなく眺めやる。

 怠惰な時間。

 一本、吸い切る。

 新しい煙草に火をつけ、よいしょ、と呟きながらベッドを後にした。

 トーストとインスタントのコーヒーを準備し、組立式のローテーブルに陣取る。いじっているスマホの画面には「バイトの時間」という通知。通知時刻は四時間前。

 トーストをモソモソとついばむ。なにも塗られていない食パンが、口内の水分をことごとく奪い去っていく。なんとかコーヒーでふやかし、飲み下す。

 きりきりとした胃の痛みが、少しだけ軽くなった。消化物しごとあいてを見つけた胃酸が、胃に対する暴行をやめてくれたのだろう。

 胃は軽くなっても気分は重かった。

 重い腰をなんとか持ち上げ、シャワーを浴びに浴室へ。

 残ったバイト時間は三時間くらいか。頭を拭きながら財布・ケータイを小さなショルダーバッグに詰め、バイト先へ向かった。





「~~二つと○○一つ!」

「うーい」


 半ば自動的に手が動き、チャキチャキ料理を作り上げていく。


「△番テーブルでーす」


 厨房から料理を出してしまえば、あとはもうやることがない。いわばヒマな時間。

 奥の喫煙コーナーで煙草に火をつける。

 揺れる煙筋。

 店長が煙草を取り出しながらやってきた。


「おつかれー」

「うぃー」


 真横に腰を落とし、ジリジリと煙草の先端を焼く店長。


「どうよ、学校には行ってんの。まぁバイト来ない時点でお察しだけど」


 ブハー、と豪快に煙を吐く。


「学校へは行かないとダメだよ。授業なん、聞かなくていいからさ」

「理屈じゃ分かってんスけどね~」


 そう、分かってる。こそみんながしてること。朝から学校に行って、バカみたいな面して黒板を見上げ、分かってもないことをノートに書き下して。

 それこそが、みんなに出来てるのに、オレには出来ないこと。

 どうすれば良いのかは分かってる。

 ただ学校に行けば良い。たったそれだけでオレは人並み。

 分かってる。

 それすら出来ないオレは、いったい何なんだろう。

 灰を水に落とす。じわりと広がる黒い帯に、なんとなく親近感を抱いた。




 一人で机に向かい、数式を書き連ねる深夜。式を追いかけながら、脇に開いたノートパソコンでアニメを流している。

 折しもクライマックス。

 車に乗った主人公が、仲間三人と共に、次第に追い詰められていく。


「もう無理だ、腹ぁくくれ」


 渋いガンマンが、くわえ煙草でマッチを擦りながら言った。


「バーロォ、これからが楽しいんじゃねぇか」


 方々を見回しながらニヤリと笑う主人公。もう一人が、ためらいながら口を開く。


「……前から疑問だったのだ。お前さんは、いったい何を思って生きている?」

「なーにを藪から棒に」

「オレも聞きたいね。追い詰められるほど、お前は生き生きし始めやがる。かといってリスクジャンキーって様子でもねぇ。どれだけ追い詰められても、冷静に、大胆に、その場を切り抜けて行っちまう。……何がそんなにお前を駆り立てる?」



 どうしようもなく、視線が画面に吸い寄せられた。ペンを握ったまま、固唾を呑んで主人公のセリフを待つ。

 口を開く主人公。



「オレの人生っつー舞台をな、最初から最後まで見続けられるのは、『オレ』しかいねぇわけよ」


 はぁ?

 画面内の反応と、自分の声が被る。主人公は生き生きと話し出す。


「だとしたらだよ? 唯一の観客たる『オレ』の期待をよぅ、裏切るわけにはいかねーじゃねぇのよ! 宿敵が現れる、絶体絶命の危機が迫る! オイシイ話じゃない!! 死ぬしかねぇって状況に直面して、壁にぶち当たって、それでも周りを出し抜いて、スルッと状況を離脱する。そんなオレなら、誰に見られても、サイコーに格好良くね!?」


 人好きのする良い笑顔で、そうのたまう。

 オレには無理だと思う。現実はそんなに上手くいかなくて、こんな危機的状況は、そのまま人生の終焉に直結すると思って間違いない。


「オレだけはオレを裏切っちゃいけねぇ。オレの思う理想のオレであり続けるからこそ、周りはオレに一目置くし、なによりオレが生きてて楽しいわけよ」


 そう言い放った先はもう、怒濤の展開だった。

 何話か前に張られていた伏線を綺麗に回収し、主人公はカタルシスと共に状況を引っ繰り返す。見せ場を誇る仲間達。悔しがる敵キャラ。

 高笑いを響かせ、主人公の乗った車は地平線へと消えていった。



 もう一度思う。オレには無理なやり口だと。

 ……だとしても。

 オレは今、どうしようもなくこの主人公を格好良いと思った。地道な一手の積み重ねで、しかし盤を引っ繰り返すような決定的な一手で、スパッと状況を切り抜けた主人公を見て、こうなりたいと思ってしまった。

 ……この主人公が今のオレなら、コイツは何をするだろう?





 日記をつけることにした。

 あの主人公のようにはなれないけれど、思い立った瞬間から一手を打ち続ければ、他人より多くのあれこれができるということに、気がついてしまったから。


『己という舞台の観客はただ自分一人』


 観客としての自分は、演者たる己に対して何が出来るだろう。

 立場が複数あるから厄介なのか。

 オレを見るオレの視点が複数あるから、考えるのが難しいのか。

 ……そういう思考の流れ。

 オレの物語を、一日の終わりに記して残すんだ。一日の終わりに、観客としての立場で、自分のしたことを書いてみる。

 それはきっと、オレの中に様々な感情を引き起こすだろう。

 それはきっと、厳格にも残酷に、されどとても誇らしく、真実をオレに突きつけてくるに違いない。

 テキトーに、興味を引かれた日記アプリをインストールし、そこに毎日、何かを書き付けた。





 同人イベント。

 人目によって洗練される前の、荒削りで、生まれたての物語が集まるお祭り。

 好きな本の作者が自家出版するとのことで、その日は足を運ぶことにした。目的の物を手にしたところで、喫煙所に向かい、煙草をくわえる。

 綺麗に澄んだ、青い空。ボーッと眺め渡す。


「あのっ……」


 女性の声。

 二つぐくりの茶髪、暖かそうなモッズコート、短パンに分厚い黒のタイツ。ブーツ。純朴で可愛らしい雰囲気だが、その中になにか凜としたものがある。


「これ、こぼれたのが見えて……」


 差し出された手には、先ほどおまけ的に買った小さな小さな缶バッジ。


「あー……、さーせん。ありがとうございます」


 煙草を持っていない手でバッジを受け取り、ジャンバーのポケットへ入れ直す。


「……おかげさまで落ち込まずに済みました」


 ポロッと口から出た一言に、彼女はコロコロと笑い出す。


「面白い表現なさるなぁって。言葉選びが好きだったので!」


 笑み崩れた顔で、そんなことを言う。

 そんな彼女の言葉選びこそ、心地良いと思った。

 ちょっと考えて、会話を続ける。


「目的のものは手に入りました?」

「なんとかかんとか……。かなりお金使っちゃったんですけどね~」

「まぁ、自分を組み上げるための必要経費ってコトで」

「あーそれ良い言葉! 自分を組み上げるための必要経費! ……なにか、本でも書いてらっしゃるんですか? ホント素敵な言葉を選ばれるから気になって」

「なにもしてないですよ。強いて言うなら、文芸同好会で川柳作らされるくらいで」

「えー本書きましょ! 私、絵を描いてるんですよ。二人で小説作って、ここで売ったらきっと、とっても楽しいと思うんです!」


 ストンと、何かが腑に落ちた。喉につかえていたナニカが取れるように、自分の中の違和感が消えていった。この人となら、同じ事をしてみたい、同じ物を作り上げたい。そう思った。

 同時に、無性にこの人の描く絵が見たくなった。


「いいっスね。連絡先訊いても?」


 絶世の美女というわけでもない。スタイルがモデル級なわけでもない。それでも彼女は、オレにとって運命の人だと。人生を懸けて大切にして、幸せにしなければならない人だと、なぜかそう確信していた――――



      三.


――――ぇ、朝だよ。もう起きないと!」


 目を開けたら一面が布団。暖かい。

 顔を出す。

 ハーフアップの髪と、先ほど見た顔。


「…………裏切れねぇよなぁ」


 かすれた声で言葉をつむぎ、一気に丸まる。五秒。

 次いで一気に布団を剥ぎ、上体を起こした。

 寒さに自然、背筋が震える。

 ベッドに掛けていた半纏はんてんを羽織り、冷たい床に足をつく。

 気力を振り絞って、彼女と共に移動する。


「あたし今から身支度するね。朝ご飯作れたりする……?」

「…………ん」


 頭を掻きながら台所へ。

 手を洗った後鍋に水を張り、火にかける。ほんだしを投入。

 煙草に火をつけた。煙がぷかりと漂う。

 冷蔵庫から大根、人参、豆腐、キャベツを取り出して、適当な大きさに刻む。

 鍋に具材をぶち込んで、火の勢いを落とした。煙草をひと吸い。

 野菜と一緒に持ってきた卵を割り、そこへほんだしを適量加えて、白身を切るようにしてかき混ぜる。煙草をもうひと吸い。

 もう一口のコンロで卵を巻いて、鍋に味噌を溶かしてやれば、具沢山ぐだくさん味噌汁とだし巻き卵の完成。ちょうど煙草も終わり、灰皿で火を揉み消した。

 テーブルにそれらを出してから、サクッとシャワーを浴び、身支度を整えてテーブルにつくと、同じ頃に彼女も姿を現す。

 二人揃って、いただきます。

 彼女は絵の仕事、オレは脚本の仕事をしている。……逆に言えば、それしかできなかったわけだが。二人で生活し、貯蓄ができる程度には稼げている。彼女のおかげ。味噌汁をすすりながら、呟く。


「……ありがとね」

「……なにが?」


 不思議そうな彼女が、なんとなくおかしかった。

 空になったお椀を置き、手を合わせる。


「ごちそうさまでした」

「もー、いっつも早いんだよあなた! あたし食べるの遅いんだから……」

「仕事の段取り考えてるから大丈夫。いつも通り、しっかり食べて」


 これもまた、一つの結実。

 オレが『己』であるために何が必要か、そう常に考え続けた一つの成果。

 朝のこの時間のおかげで、あれだけヒドイ成績だった自分が、職場では仕事のできる人扱いをされている。思い立ったら手をつけるってのもいい。



 日記をつけて、彼女に出会った。

 たったそれだけで、人生は結構変わる物だった。

 ケータイを開く。

 目的は、日記の一ページ目。


『一年後、三年後、もっと後に見返して、自分が己に失望していないことを祈る』


 今のところ、失望するような生き方はせずに済んでいる。

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心理障壁(バリケード) 竜堂 酔仙 @gentian-dra

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