第89話 右手

 人当たりのいい好青年だと思っていたが、野端は頭のネジが何本か弾けとんでいるようだった。


 野端は今年の4月に某大学に入学し、学生寮で暮らし始めたが、そこは「出る」というので有名なところだった。

 建物は古いが寮費は安いし、学生たちが授業を受けたり、実験をしたりする建物にも近い。ところがその利便性にも関わらず、お化けの噂のせいで入居者の人数は今一つ伸びなかった。

 というわけで野端は、2階にある2人部屋を、一人で広々と使うことができた。

 入寮早々、部屋のドアをノックされて開けたら誰もいなかったり、深夜に共同風呂に入っていたら肩を叩かれて、振り向くとやっぱり誰もいなかったり、いつも誰かが玄関に置いている盛り塩が黒く変色してぐずぐずになったりしていたが、彼にとっては便利で快適な住まいだった。


 そんなある日、野端が部屋で宿題を片付けていると、天井近くからゴソゴソという音がした。

 見上げると、人間の手首が壁に貼り付いていた。

 右手だった。華奢で色白で、リモコンで動くいたずら玩具のように、右から左へと壁を這いずっている。しかし玩具にしては速い。ヤモリのように滑らかな動きだった。

 野端が驚いている間に、右手は建てつけの悪い窓の隙間からぬるりと外へ這い出すと、壁づたいにどこかへ逃げてしまった。

 急いで窓の外を確認したが、もう手を見つけることはできなかった。


 手首を見失った翌日、野端は百円均一で透明なボウルを購入し、自室の枕元に置いておいた。

 数日後、ベッドでうとうとしていた野端は、再びゴソゴソする気配を感じた。みるとあの白い手が、ベッドサイドに置かれたカラーボックスの上で蠢いている。

 野端は透明のボウルをさっと手に取り、素早く手の上にかぶせた。そして、その上に分厚い教科書を何冊か載せた。

 手はボウルの中を這い回っている。我ながら、よくもまぁこんな原始的な手段で捕獲できたものだと野端は感心した。おまけに、どうやら逃げ出すことができないらしい。

 野端はその様子に安心して、まずはボウルの中をしげしげと観察した。ほっそりとした形と肌の滑らかさは、やはり若い女性の右手のように思われる。すらりとした指の先には、形の整った爪が生えていた。淡いピンク色のマニキュアを塗っているようだ。

 手首の切断面はつるりとして、ちゃんと肌で覆われている。ゴム製の玩具を切ったような断面だった。

 野端は手元のスマホで、写真を何枚か撮影した。その時廊下から足音がした。

 ドアを開けると、同じ学科の先輩だった。

「おお、野端。どっか行くの?」

「いや、実は俺の部屋に変な生き物が出たんですよ。捕まえたんで見に来ません?」

「ん? 変なって、虫とかか?」

「いや、もっと変なやつなんすよ。とにかく見てくださいよ」

 野端はそんなことを言いながら、先輩を部屋の中に招き入れた。

「ほら、そこのボウルの中に……」

「お前コレ、トマトじゃん」

 先輩は怪訝な眼差しを野端に向けた。彼の言った通り、ボウルの中には真っ赤なトマトが入っていた。

「ええー!?」

 野端は声をあげて、ボウルに駆け寄った。伏せた場所も、上に載せた教科書もそのままだ。ただ、ボウルの中身は何のへんてつもない、よく熟れたトマトになっている。何度見てもただのトマトである。

 野端はスマホの写真を見てみた。どれもデータが壊れていて再生できない、と表示された。

「野端さ……疲れてるんじゃない? お前、特待生だったっけ? 勉強キツいかもしれないけど、早く寝ろよな」

 挙げ句の果てには、先輩に真剣な面持ちで心配されてしまった。

 野端はまるで納得できなかった。しかし、とにかくあの手に逃げられたらしい、ということはわかった。


 それで野端が、そのトマトをどうしたのかといえば……

「食べちゃったんです」

 彼は爽やかに笑いながら答えた。

「え? なんで?」

「なんでってトマトだし、傷みかけてたんで」

「よくそんな普通に食えるね……」

「でも、皆何ともなってないですよ」

 何でも、共用の冷蔵庫にクズ野菜や古くなりかけたベーコンが入っていたので、使用者全員の許可をとった上でミネストローネにし、きちんと皆に振る舞ったそうだ。

「だから大丈夫じゃないスか。皆旨いって言ってくれてたし、ちゃんと加熱したし」

 そういう問題ではない気がするが。


 もちろん野端はその後も、その寮で快適に暮らしている。

 そういえばその後、例の手は見かけていないという。

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