第87話 節目
気弱だけどいい奴だと思っていたA本が、つい先日、居酒屋のカウンターでべろべろに酔っぱらって、
「俺なぁ、昔付き合ってた女の子を妊娠させて、逃げたことがある」
と告白してきたので驚いた。
A本によれば、それは大学一年生の冬のことだったという。地方から上京し、一人暮らしに浮かれた勢いで付き合い始めた彼女に、彼は突然妊娠を告げられた。
その時の彼は、結婚するとか、子供を持つとかいうことは、自分とは別の世界にあるものだと思っていた。それに正直、付き合って間もない彼女のことを、さほど愛していたわけでもなかった。
思い詰めた表情の彼女に、「産んでくれ」というのも「おろしてくれ」というのも恐ろしくて、A本は逃げるように実家に帰った。携帯を解約し、彼女や共通の友人からのあらゆる連絡を無視して引きこもった。
心配する両親には理由を話せなかった。引っ張っていかれた心療内科で鬱と診断され、A本は大学を辞めた。諸々の手続きも下宿を引き払うのも、何もかも親にやってもらった。
俺は仮病を使ってズルしているだけだ。内心思いながらも、A本はおよそ1年あまり実家に引きこもった。
彼女からは何の音沙汰もなかった。元々、A本の地元について彼女は、都道府県名くらいしか知らないはずだ。遠方だし、こちらに知り合いもいないだろう。
数ヵ月が過ぎていった。やっぱり彼女に、自分のことを探し出せるわけもない、と彼は安心し始めた。
そしてA本はそのまま地元で就職し、数年後、父親の知人のツテでお見合いした女性と結婚した。男女一子ずつを得て、今に至る。
「うわー、悪いけどA本、お前最低だろ。それ」
思わず口に出た。
「俺もそう思う」
そう言ってA本は、酒のために真っ赤になった顔を伏せた。
「そんで、そんな話を俺にしてどうする」
「いや、その彼女にさ……」
会うことがある、という。
最初に会ったのは、妻と結婚式の式場を見学していたときだった。
あるホテルを訪れた。雰囲気のいいところで価格帯もリーズナブル、プランナーも頼りになりそうだ。これは最有力候補だね、などと二人で話し合っていた。
「ちょっとトイレに行ってくるね」
妻が席を立った。A本はホテルのロビーで帰りを待っていた。その時誰かに肩を叩かれた。
「きっちゃん、私」
女の声だった。A本をそんなあだ名で呼ぶのは、大学生のときに捨てた例の彼女だけだった。全身から嫌な汗がにじみ出した。
顔を上げると、付き合っていた頃とそっくりそのままの彼女が立っていた。
ついに見つかった、と思った。膝の上に置いていた手が震えた。何を言われるのかと身構えていると、彼女はぷいっと踵を返し、ホテルを出ていった。
A本はぽかんとしてそれを見送った。彼女が何をしたかったのか、わからなかった。
ともかく彼は戻ってきた妻を説き伏せ、結婚式は別のホテルで行うことになった。
「それから何ていうか……節目の時に出て来てたんだけど」
A本は頭を抱えていた。結婚記念日を祝いに訪れたレストラン。お腹の大きな妻とベビーベッドを買いに訪れたデパート。お宮参りに行った神社。夫婦揃って見学に行った保育園。
突然肩を叩かれる。
「きっちゃん、私」
振り返ると彼女が立っている。何をするわけでもなく、ぷいっと立ち去ってしまう。
誰にも相談できなかった。
「だから、何でそんな話を俺に……」
不快感をモロに滲ませながら言ったとき、
「俺、何年も経ってようやく気づいたんだ」
A本が半泣きで言った。
「付き合ってたときからもう10年以上経ってるのに、彼女、全然変わらないんだ。ずっと20歳くらいの見た目のままだし、髪型も変わらない。それに、いつ見ても同じ服着てるんだ。夏でもお気に入りだったチェックのコートにロングブーツで、どう考えてもおかしいんだよ」
最近、妻にせっつかれたA本は、ついに家を買った。中古ながらリノベーション済みで、周囲の環境もいい。妻子も大喜びで、彼自身も満足だった。
引っ越しを終え、子供たちが眠ったあと、ようやくA本は入浴した。初めて入る我が家の風呂である。温かい湯に一人浸かって、ほっと一息ついていると、突然後ろから肩を叩かれた。
「きっちゃん、私」
振り返ることができなかった。
A本は風呂を飛び出した。脱衣場でタオルを取り出そうとしていた妻と鉢合わせた。
「どうしたの? そんな慌てて」
怪訝な顔で見られた。A本は何も答えることができず、黙ってその顔を見つめ返していた。
妻の背後の廊下を、ほっそりした影が通り過ぎるのが一瞬見えた。
チェックのロングコートを着ていた。
「それで俺、もう限界だと思って……誰でもいいから話したくなって……」
A本はカウンターに肘をつき、両手で顔を覆った。
現在、彼は彼女の行方を探している。消息はまだわからないという。
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