第71話 池の水
村瀬はその日ひどく疲れていたので、電車で帰宅している途中でうたた寝し、気が付いたら降りるはずの駅をふたつほど過ぎていた。
いっそ終点の大きな駅まで乗っていればよかったのだが、慌てていたのでちょうど直後にドアが開いたところで下車してしまった。
人気のないホームに立って駅名を確認してみると、運悪く各駅停車しか停まらない駅だった。次に電車が来るまでに10分ほどある。
暇なので誰もいないホームをぶらぶら歩いていると、いつの間に現れたのか、行く手にあるベンチに女性が座っていることに気づいた。
黒いスーツを着た若い女性だが、前かがみになって口元を押え、とても具合が悪そうだ。
知らない男が声をかけたら怖がらせてしまうだろうか……と迷ったが、放っておくのは気がかりだ。村瀬には貧血体質の恋人がいて、苦労している姿を時々見ているので、ますます気になってしまう。
意を決して声をかけた。
「あのー、大丈夫ですか?」
その途端、女性が「がぼっ」というようなくぐもった声をあげた。
直後、口元を押さえていた手を押しのけるように、大量の水と緑色のものが彼女の口からあふれ出してきた。
濡れた金魚藻のような植物が、びちゃびちゃと音を立てて落ちた。
女性が顔を上げて、傍らに立っている村瀬を見上げた。
真っ赤に充血した両目がピンポン玉のように飛び出し、あべこべの方向にぐるぐる動いていた。
「だぁいじょうぶぅ」
状況に不似合いな、媚びたようなアニメ声で答えると、彼女はにっと笑った。唇の端から水草がちょろっとはみ出しているのを、村瀬は見た。
次の瞬間、テレビのスイッチを切ったかのように、女性の姿は消え失せていた。
彼女のいた辺りにはやはり大量の水と水草がぶちまかれ、辺りには濁った池のような臭いが立ち込めていた。
村瀬は大慌てで改札を出、その日はタクシーで帰宅した。
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