第64話 幻覚を見る

「うちのじいさんがアル中でさ、酒飲んで幻覚を見んのよね。身長が人差し指くらいのちっさい人が部屋の隅とかにいるんだって。追っ払ってもまた湧いてくるんだって騒ぐんだからたまんないわよ」

 幼い頃、モモは近所のおばさんが、母親相手にそんな話をしていたのをどこかで聞いた。

 妙に頭に残っていて、大人になった今でも、おばさんの語り口と共にふと思い出すことがある。


 モモの父親もまた、酒浸りの日々を送っていた。

 彼女が物心ついた頃からそんな感じで、父親が働きに出るのを見たことがない。古い借家の日当たりの悪い座敷で、日がな安酒を飲みながらTVを見ているだけの人だった。

 母親は看護師をしていたが、父親のことは口に出さず、青黒いような顔をして夜遅くまで働いていた。

 クラスメイトの話によれば、よそのお家の「お父さん」は、朝きちんと起きて仕事に出かけていくらしい。休日に遊園地に連れていってくれたり、面白い話を聞かせてくれたりもするらしい。

 モモも、自分に「父親」というものがいることは、頭ではわかっていた。しかし、家の座敷に鎮座している酒臭いオヤジは、よその「お父さん」とは違うカテゴリーの生き物らしい。つまりうちには「お父さん」はいないんだな、と彼女は考えた。そして期待するのを止めた。

 ある日の午後モモが学校から帰ってくると、家には父親しかおらず、そして相変わらず酒を飲んでいた。ちらっと部屋を覗くと、テレビで相撲をやっているのが見えた。

 その時足元に妙な気配を感じて、彼女は下を向いた。

 人差し指くらいの小さな父親が、敷居の上を走り回っていた。顔も体型も着ているスウェットもすべて父親にそっくりで、まるで精巧なミニチュアのようだった。

 父親はそれに気づかないのか、こちらに背を向けたまま酒を飲み続けていた。

 モモは咄嗟に、「ああ、これがおばさんが言ってたアル中の幻覚ってやつか」と思った。それにしては、自分にも見えるのはおかしいなとも思った。

 オヤジと血が繋がっているから、あたしにも幻覚が見えるのかもしれないな。

 ふとそう考えて、モモはどす黒い自己嫌悪を覚えた。父親に声もかけずに自室に引っ込むと、彼女は宿題を始めた。


 それから後、モモはしばしば小さな父親を家で見かけるようになった。

 大抵は父親がいる座敷にいて、一緒にテレビを見ていたり、意味もなく走り回ったりしている。

 声や足音は聞いたことがなかった。モモは一度、小さい父親が畳の上で仁王立ちし、絶叫するように口を開けているのを見たことがある。しかし肝心の叫び声は聞こえなかった。

 そういうものなんだな、と彼女は思った。そして見て見ぬふりを続けた。すぐに声を荒げる父親にも、ますますどす黒い顔色になっていく母親にも、それについて尋ねることははばかられた。

 ある日、モモが下校して勝手口から家に入ると、珍しく小さな父親が台所にいた。本物の父親は相変わらず座敷にいるらしく、テレビの音が聞こえてきた。

 小さな父親は食卓の上に胡座をかき、呆けたような顔をしながら、履いているスウェットの中に手を突っ込んで股間を掻いていた。

(うわ、汚い)

 突然、モモは今まで感じたことのない、激しい嫌悪感を覚えた。

 彼女はほとんど反射的に、教科書の詰まったランドセルを、小さな父親の上に叩きつけた。

 次の瞬間、座敷から「ぎゅうっ」というような声がして、バタンと重い音が聞こえた。

 座敷を覗くと、畳の上に父親が倒れていた。零れた酒の匂いが漂っていた。

 モモは台所に戻ると、恐る恐るランドセルを持ち上げてみた。下には何もなかった。


 父親は、そのまま意識を取り戻すことなく亡くなった。

 葬儀からしばらくして、モモと母親は借家を立ち退き、母親の実家に移り住んだ。

 母親は相変わらず忙しく働いていたが、顔色はみるみる良くなっていった。母方の祖父母は、モモを遊園地や動物園に連れていってくれた。

 その後、モモは奨学金を得て大学まで進み、現在は都内の大きな法律事務所で働きながら一人暮らしをしている。

 とっくに成人しているが、飲酒は絶対にしないと決めている。

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