第63話 顔も見たくない
夏の日の夕方、部屋の掃除をしていた麻美がベランダに出る窓を開けると、アパートの前の道路に彼氏が立っているのが見えた。
驚きながらも手を振ると、向こうも満面の笑みで振り返してくる。
一人暮らしの麻美のアパートを彼氏が訪れることは、決して珍しいことではない。ただ、連絡なしに来たのはこの時が初めてだった。
「どうしたのー? 上がってきなよ!」
ベランダに出て声をかけるが、彼はニコニコしながら、黙って手を振っているだけだった。
「……変なの」
まぁ、放っておけば入ってくるだろう。そう思った彼女は部屋の掃除に戻った。
ところが、なかなか玄関のチャイムが鳴らない。変に思ってベランダから下を見ると、そこに彼氏の姿はなかった。
気になって、麻美は彼の携帯に電話をかけた。何度かコール音が鳴って、彼氏の声が応えた。
『はい』
「あ、健次?」
『うん。どした?』
「今、私の部屋の下にいたよね? 何で入ってこないの?」
『は? 俺、今高速乗ってて○○サービスエリアにいるんだけど』
かなり離れた地名を言われて、麻美は驚いた。
「うそ! だって健次だったよ?」
『いや、だから○○にいるんだってば。人違いじゃねーの? そもそも、今日は友達と遊ぶから会えないって言ったじゃん』
「あぁ、うん……そっか」
釈然としないままに電話を切った。もう一度道路を見る気はしなかった。
その時、玄関のドアを叩く音がした。
麻美は思わず身を震わせた。嫌なタイミングだ、と思った。
そっとドアスコープを覗くと、満面の笑みを浮かべた彼氏の顔が、魚眼レンズいっぱいに広がっていた。
お面のように、表情がまったく動かない。ぞっとして体をドアから離した途端、再びドアを叩かれた。今度のノックはさっきよりも強かった。
おかしい。さっきから一言もしゃべらず笑っているだけの彼氏も、チャイムを鳴らさずノックをしてくることも、何もかもがおかしい。
ドンドンドン! またドアが叩かれた。ノックの音はどんどん強くなっている。
ドンドンドン! ガンガンガン!
麻美は玄関の前に座り込んで、震える手で彼氏の携帯に電話をかけた。何度コールしても出ない。運転しているのかもしれない。
両目からボロボロ涙がこぼれた。恐怖のあまり、動くことができない。
ドカン! と一際大きな音がして、急に外が静かになった。
恐る恐るドアスコープを見ると、誰もいない。
ベランダの外にも、彼氏の姿はなかった。
腰が抜けたようになって、麻美はしばらく床にへたり込んでいた。
気がつくと、すっかり空が暗くなっていた。
麻美の手の中でスマホが震えていた。画面を見ると、彼氏からと表示されている。
「もしもし?」
出てみると、上ずった女性の声が聞こえた。
『麻美ちゃん? 私、健次の姉の……』
何度か会ったことのある、彼氏のお姉さんだった。
お姉さんは半泣きで、彼氏が高速道路で事故に遭い、病院に運ばれたと告げた。
自分の顔から、血の気が引くのがわかった。
幸い、彼氏は一命をとりとめた。
現在は日常生活に戻るため、リハビリの真っ最中だという。
麻美は、事故に遭った日にアパートにやってきた彼氏のことを、改めて本人に話してみた。が、信じてもらえなかった。
「でも、それでもいいや。だって別れちゃったんだもん」
麻美は寂しそうにそう話す。
彼氏の顔を見ると、ドアスコープの向こうで立っていた満面の笑みを、どうしても思い出してしまう。それが怖くなってしまい、別れてしまったという。
麻美は未だにそのアパートに住んでいるが、ドアスコープにはガムテープを貼っている。
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