第59話 向田の家

 大野の会社の同期に、向田という男がいた。

 真面目で人当たりのいい向田は、入社して間もなく、学生時代から付き合っていた彼女と結婚した。その1年後には長男が誕生し、彼は若くして子煩悩ぶりを発揮し始めた。

 さらに3年後、第二子が産まれた。今度は女の子だった。向田の親バカは加速した。

 仕事のできる向田は、常にいくつかの用件を抱えていたが、要領よく勤務時間内に片付け、ほぼ毎日午後6時には退社した。ドアtoドアで約1時間かかる自宅で、家族と晩ごはんを食べるためである。

「結婚とか家庭って、いいものか?」

 大野が尋ねると、向田は少しの迷いもなく「いいぞ!」と答える。

 そんな様子を、大野は微笑ましさ半分、妬ましさ半分くらいの気持ちで眺めていた。


 ところがある日、無謀運転のトラックが、買い物に出た向田の奥さんと幼い長男、まだ赤ん坊の長女をあっという間に奪い去った。

 向田は脱け殻のようになった。大野にはかける言葉が見つからなかった。

 巨額の賠償金が、向田の手元に残った。

 彼はそれで家を建てた。二階建てで日当たりのいい、きれいな家だった。

 大野は一度だけ、その家を訪れたことがあるという。

 その家には、奥さんが趣味で集めていた漫画を入れるための、大きな作り付けの本棚があった。

 二階には子供部屋が二つあった。小さな庭にはブランコが置かれていた。

 どう見ても、独身男一人で住む家ではなかった。

 向田は相変わらず午後六時に退社し続けた。以前のように仕事はきっちり区切りをつけ、誰にも迷惑はかけず、わざとらしいほど明るく振る舞うようになった。

 大野は「話したいことがあったら何でも聞く」と言ったが、向田は「ありがとう」と言って笑っただけだった。

 それから一年ほどが経ったある日、向田は突然無断欠勤をした。

 その朝、彼はいつものように出勤の支度をし、自宅の最寄り駅に向かったらしかった。そしてホームにやってきた急行電車に突然飛び込んだ。

 寒い冬の日のことだった。


 向田の家は、遺族によって売りに出された。それを買い取ったのが、たまたま大野の従兄が勤務する不動産屋だった。

 家主が自殺したとはいえ、家の中で死んだわけではない。新しく、使い勝手もいい家だったため、ほどなくして入居者が決まった。

 ところが一年もしないうちに、その家は再び空き家になった。また少しして別の家族が引っ越してきたが、彼らもそこに長くは住んでいられなかった。

 こんな風にして、この数年間で何度も持ち主が変わっているという。

 ある家族がこの家を出たいと大野の従兄の会社にやってきたとき、その家の奥さんがこう言ったそうだ。

「夜の7時頃、何かが家の中に入ってくる。それがたまらない」


 向田の家は、今も売りに出されている。

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