第40話 炎天

「もう三十年以上も前の話だからねぇ。今だったら、児童相談所だか警察だかに言うんでしょうけど」

 あの頃はそんなこと思いもしなかった、と康子さんは話し出した。


 当時、康子さんは二十五歳。旦那さんと二人、とあるマンションに住んでいた。

 そのマンションに、住人から「ボク」と呼ばれている男の子がいた。当時は小学校低学年くらいだと思っていたが、実際はもう少し上だったかもしれないという。

「痩せてて小さかったんだけど、その割にしっかりしてたから、もっと大きい子だったのかも」

 ボクは母子家庭の一人っ子だった。母親は日中働きに出ていたらしいが、自分が家を出る時に子供を一緒に部屋から出してしまう。

 鍵を渡してもらえないので、母親が帰ってくるまで、ボクは自分の家に入ることができなかった。ともすれば、夜もいい加減更けた頃、自分の部屋のドアの前に座っている少年の姿を、切れかけた蛍光灯の下に見ることがあった。住み込みのマンションの管理人が、管理室に連れて行くのを見かけたことも少ない回数ではない。

 心配して声をかける近所の人々に、「大丈夫です!」と明るく答える少年の声を、康子さんは何度か聞いた。

 小学校が夏休みに入ると、ボクの置かれた状況は悪化した。母親は休みに入る前と変わらず、早朝に息子を部屋から追い出してしまう。彼は炎天下の下、食事のあてもなく放り出されているようだった。

「普通の子供だったら、もしかしたらとっくに保護されてたかもしれないけど」

 幸か不幸か、ボクはそういう子供ではなかった。朝、部屋を閉め出さると、彼は各部屋のチャイムを鳴らして回った。

「何かお手伝いできることありませんか!?」

 大きな声でそう言って、ゴミ出しや草とり、お使いなどをして回った。その代わりにご飯を食べさせてもらったり、部屋で宿題をさせてもらったりする。

「手伝いなんかしなくていいから、上がりなさい」という人がいると、ボクは頑なに断った。

 その当時、康子さんは妊娠三ヵ月。夏の暑さに加え、つわりによる体調不良で、日々の家事をするのが辛かった。

「それでも何だか、あの子にお手伝いを頼むのが嫌でね」

 ボクを気の毒に思う一方で、関わるのが億劫だという気持ちもあった。

 それでも夏のある日、彼女は一度だけ、ボクにお使いを頼んだことがあった。

 自分の部屋の前の、形ばかりの庇の下で、地べたに宿題を置いているボクを見て、お腹の中にいる子供と、彼のことがふとダブるような気がした。

「うちで宿題やっていいから、お使いに行ってきてくれない?」と声をかけると、ボクは勢いよく立ち上がって、「ハイ!」と返事をした。

 近所のスーパーで買い物をしてきたボクは、レシートとお釣りまで、ちゃんと康子さんに渡してくれた。

「ちゃんと宿題やって、えらいね」

 康子さんの家のリビングで宿題をするボクに話しかけると、

「勉強して偉い大人になれって、管理人のおじさんが言ってたから」

 と応えて笑った。


 そのうちに夏が終わり、秋が来て、冬が訪れた。

 仕事が忙しい旦那さんの希望もあり、康子さんは年末、出産のために実家へ帰った。内心ボクのことが心配だったが、隣室の主婦から「大丈夫そうだ」と連絡を受け、ひとまず安心したという。

 管理人や住民の何人かが、何度かボクの母親に意見したようだった。それでもらちが明かないと、赤ん坊を抱えて帰ってきた康子さんに、隣室の主婦が漏らした。

 子供の世話に追われるうちに、目まぐるしく時間が過ぎた。再び夏がやってきて、ボクがチャイムを鳴らし、「お手伝いすることありませんか!?」と、各部屋を訪問するようになった。

 今度は康子さんも、あまり屈託なく、彼に手伝いを頼むようになっていた。活発に動き始めた赤ん坊から目が離せず、ボクの存在は正直有難かった。

「でもね、赤ちゃんをあやしていると、時々あの子が寂しそうな顔でこっちを見てる時があって、ちょっと辛かったな。顔に書いてあるの。何で僕のママは僕に優しくしてくれないのかなって」

 しかし、ボクがそんな気持ちを口に出したことはなかった。どんなに悲しそうな顔をしていても、次の日になると彼は変わらず、明るい声を出して家々を廻った。

 ある八月の、特別に暑い日のことだった。その日は珍しく、ボクが御用聞きにやって来なかった。

「どうしたんだろうと思っていたんだけど」

 その日の正午頃、康子さんが子供をあやしながら窓辺に立っていると、駐車場の真ん中に、痩せて日焼けした少年の姿を見つけた。

 紛れもなくボクだった。炎天下に帽子もかぶらず、うつむいて立っている。

 康子さんは思わず子供を抱いたまま、サンダルをつっかけて部屋を飛び出した。廊下の手すりごしにもう一度駐車場を見下ろすと、ボクの姿は消えていた。

 どこかの部屋に呼ばれたのだろうか、ともかく姿が見られてよかった。

 釈然としないながらも、康子さんは自室に戻った。


 次の朝、サイレンの音で目が覚めた。

 マンションの前に、パトカーが停まっていた。

 人づてに、ボクが亡くなったと聞かされた。

「母親の恋人だか何だか、とにかく連れ込んでた男が殴ったんだって。その場では平気そうだったけど、頭を打ってたみたいで」

 朝方母親が見たら、亡くなっていたという。

 康子さんが本当に驚いたのはその後、テレビや新聞の報道を聞いてからだった。

 ボクが亡くなったのは、彼女が彼の姿を駐車場に見た、あの炎天下の日の明け方頃だという。

「そんなわけないのよ。だって私見たもの」

 康子さんはいてもたってもいられず、隣室の主婦にそう訴えた。彼女はそれを聞いて、暗い顔でうなずいた。

「そうね。あたしも見たもん」

「だったらテレビで言ってること、間違いよね?」

 そう言うと、今度は首を横に振られた。

「見た人、たくさんいるみたいよ。つい昨日も管理人さんが見たって」

「昨日って! そんな……」

 言葉が出なかった。隣の主婦は暗い表情で、畳みかけるように言った。

「康子さん、気付いてなかった? どんなにいい天気でも、あの子にだけ影がないの」

 背筋が寒くなった。

 隣の主婦は目元を覆って、さめざめと泣き出した。


 その後康子さんは、晴れた日の駐車場に立つ少年の姿を、二度ほど見かけたことがあるという。

 いずれもすぐに目を離したため、影があるかどうかはわからなかった。

 駐車場の隅には、お菓子や飲み物、おもちゃなどが供えられるようになった。「ごめんね」と書かれたカードが添えられていたこともあった。

 康子さんが翌年、旦那さんの転勤のために引っ越すまで、それらは絶えることがなかった。

 そのマンションは老朽化と住民の減少のために取り壊され、今はもうない。

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