黒柳悦郎の徒然なる夏の日々

織姫ゆん

第1話 悦郎の夏がはじまる(予定)

いつものように朝が来た。

窓の外から聞こえてくる蝉の声と、枕元のスマホのアラーム。

ピピピピと俺を追い立てるように鳴るそれを、寝転がったまま腕だけを動かして画面をタップして止める。


「あつい……」


夏なのだから、それは当然だった。

当然なのだが、当然ではなかった。

なぜなら俺の起きる時間に合わせて、エアコンのタイマーをセットしているはずだから。

暑いことは暑いのだが、今朝のようにここまで暑いはずはない。

うっすらと汗ばむ程度でいつもなら目覚めていた。

それが今日は、シーツまでじっとりと濡れてしまうほどの大量の汗が全身から噴き出していた。

別に、夏風邪をひいて熱があるというわけでもない。

ただ単に、部屋が暑いのだ。


「どういうことだこれ」


俺はベッドから身体を起こし、窓を開けて外の風を入れた。

シャワシャワというセミの声がさらに大きく聞こえてくる。

流れ込んでくる生暖かい風。

いつもならそれを鬱陶しく感じるはずだったが、今朝はそれですら涼気を運んでくるものとして歓迎することができた。


「エアコン動いてるよなあ」


リモコンを片手に、エアコンに近づいてみた。

ゴーッという低い音を立てながら、エアコンからは風が吹き出ている。

ただし、その温度はかなり生ぬるいものだった。


「まさかこれ……暖房か?」


リモコンの液晶画面を確認してみた。

そこには、しっかりと20℃という表示がなされていた。

そして小さな字で記された『レイボウ』という表記。

どうやらエアコンは、しっかりと部屋を冷やしているつもりのようだった。


「壊れた? まさかこの季節に?」


ともかく俺はエアコンの電源を切った。

生ぬるい風しか吐き出さないのであれば、動かしていても仕方がない。

俺は着替えの準備をして、階下へと向かった。

飯の前にシャワーだ。

咲が朝食を準備してくれている間に、俺はこの汗をなんとかしよう。

もし美沙さんか誰かが使っていたら、外から急かしてとっとと出てもらう。

今日から夏休みとはいえ、俺もそんなにヒマではないのだ。


    *    *    *


「あれ? 悦郎、今日から夏休みじゃなかったっけ?」


俺とすれ違うようにシャワーから出てきた美沙さんが、髪をタオルでワシャワシャやりながら聞いてくる。


「夏休みでも学校あるんだよ。サービスいいから」

「ふーん」


ツッコミが欲しいところだったが、美沙さんは俺の言葉に納得してそのままキッチンへと行ってしまった。


「まあ確かにサービスはいいよな。赤点をそのまま落第にしたりしないんだから」


とはいえそれが面倒くさいことには変わりない。

俺は気持ちを切り替えるかのように、シャワーを浴びて服を着替えた。


    *    *    *


「じゃ、いってきまーす」

「うん。私もあとで行くから。お弁当はそのときにね」

「おう」


いつもとは違い、咲が俺を見送っている。

なぜなら、今日のスケジュールは俺と咲では別々だからだ。


「あ。エアコンのことかーちゃんに言っといてな」

「りょーかい。いつものおっきい人が来て直してくれるのね」

「たぶんな。まあ、シーズンだからすぐには無理かもしれないけど」


ひらひらと手をふる咲を玄関に残して、俺は駅へと向かう。

ジリジリと肌を焼くほどの強さの日差しを避けながら、日陰を選んで進んでいく。


当然のことながら、緑青と合流することもない。

なぜなら、アイツは補習なんて受ける必要がひとつもないからだ。

放課後……というかいつもの放課後の時間帯には部室に顔を出すかもしれないが、まあもしかしたら今日は会わないかもな。

なにしろ、今日はもう夏休みなのだ。

学校に来なくても、誰も文句は言わない。

……普通の生徒ならば。


    *    *    *


「……」


電車に乗り、無言で窓の外を眺める。

いつもと同じ風景が流れていくが、いつもとはほんのちょっとだけ違う。

いつもは影になっている部分が明るく照らされていて、影がいつもより短い。

太陽の位置が、いつもより高いせいだ。


補習の時間は、いつもの授業の時間割とは違う。

午前3コマ、午後2コマ。

テスト返却期間のそれにかなり近いが、それよりもさらにゆるい。

それに、登校している生徒の数も段違いだ。

多いときで10人程度。

下手すると、その補習を受けているのが俺ひとりだったりするときもあったりするくらいだ。

まあ、そんなのは一度しか体験したことはなかったが。


(そういえば……まわりの人たちもだいぶ違うな)


電車の中で、視線だけでそっとあたりを見回してみる。

いつもと同じ行き先の、いつもとは違う時間帯の電車。

座席すらチラホラ空いているいつもの半分以下の混み具合のそこには、いつもとはまったく違う顔ぶれが並んでいた。


(まあ、向こうも俺のこと見知らぬヤツだと思ってるだろうけどな)


ほんの少し時間が違うだけなのに、まったく知らない場所のような不思議な感覚。

そんなことを考えながら、俺は学園前に着くまでの数駅の間を一人で過ごしていた。


    *    *    *


「うへー、あと一教科ー」


ぐでーっと後ろを向いてきた近藤が俺の机の上で伸びている。

俺は近藤のそのでかい図体を避けながら、次の補習で使うプリントの空欄を必死になって埋めていた。


「なんだよ悦郎。それまだ終わってなかったのか?」

「仕方ないだろ。他のに時間かかっちゃったんだから」

「あー、そうか。悦郎は補習ほぼフルで取ってたんだっけ」

「別に好きで取ったわけじゃない。取らされてるんだ。そんな言い方したら、俺が勉強好きみたいじゃないか」

「確かになあ。悦郎が勉強好きなわけないよなあ」


ガタンとイスを後ろに倒しながら、近藤が壁により掛かる。

いつもとは違う席で、好き放題している近藤。

俺はいつもの席でプリントをやっているが、そういう生徒の方が今日は少ない。

なぜなら、出席する生徒の少ない補習のときは席順は自由に選べることになっているからだ。


「っていうか、思ったより人数少ないのな。もっと赤点のやつ、多くなかったっけ」

「ああ。聞いてないのか悦郎」

「何がだ?」

「今回から、赤点が二段階になったんだよ」

「は?」


近藤から聞いたその情報は、初耳だった。


「赤点は赤点なんだけど、補習に出なくちゃいけない赤点と、プリントを出すだけでいい赤点が存在するんだ」

「おいちょっと待て。俺それ知らないぞ」

「ああ。知らなくても大丈夫だ。お前は全部補習必須の赤点だから」

「うっ……そうか」

「まあ俺もそのおかげで、明日から普通に部活に出られるんだけどな。新制度さまさまだぜ」

「なに? お前……明日いないのか?」

「ああ。確か明日の補習は、お前とあともうひとりくらいだったぞ?」

「くっ……一番キツイパターンだ」

「まあがんばれ。明日さえ乗り切れば、お前でも普通に夏休みを過ごせるんだから」

「そう……だな」


俺はシャーペンを握り直し、再びプリントと向き合う。

今日の補習はあと3コマ。

いつもの授業に比べれば、ずっと楽ちんだ。

夏休みのことでも考えながら、なんとか乗り切ろう。


    *    *    *


「いただきます」

「はい、召し上がれ」


お昼の時間はほぼいつもどおり。

俺と咲はいつものように机を動かして島を作り、そこにお弁当を広げていた。

ただし、そこにいるメンバーは俺と咲だけだ。


「やっぱり少ないね、今日は」

「明日はもっと少ないらしいぞ」

「ふーん」


お弁当のメニューはほぼいつもどおり。

俺のリクエストでいつも入れてもらっている、咲お手製のからあげと、ちょっとしたサラダ。

昨夜の夕食を作ったときの残りの食材で出来た、煮物的メニュー。

それと、白いごはん。

場合によってはスープ的なものが用意されるときもあるが、今日はなかった。


「ねえねえ、なにか気づかない?」

「なにがだ?」

「お弁当、いつもとちょっと違う感じしない?」

「ふむ……」


言われるまで特にこれと言って気づいてはいなかったが、咲があんな風に聞く以上なにかあるのだろう。

俺はそれを探るように、もう一度お弁当全体を見回しながら唐揚げを一つ口に放り込んだ。


「あ……」

「ふふっ。わかったみたいだね」


皮肉なことに、正解は俺の口の中からやってきた。


「唐揚げがいつもよりあったかいな。っていうか、まったく冷えてない」

「正解。なにしろ、私が出かける直前に作ってきたやつだからね」

「なるほど」


いつものお弁当は、俺よりも少し早い時間に起きた咲が、俺が朝食を食べている間に詰めてくれたものだ。

だが今日は違う。

補習の予定が午後からの咲が、お昼に学校に来る前に作って詰めてきてくれたもの。

そう思って食べてみると、ごはんもほのかに暖かかった。

いつもとほとんど同じメニューなのに、まったく別のものを食べているような気がしてしまった。


「家ならいつもあったかいの食べれてるけど、こうやってお弁当であったかいってのはちょっとレアだよね」

「そうだな」


別にそのちょっとした温かさで唐揚げやごはんの味がものすごく変わるわけでもない。

というかむしろ、咲の積み上げてきたお弁当スキルで、冷めてからの唐揚げとか冷たくなったご飯の方が、お弁当のメニューとしては完成度が高かったりもする。

だが、それはそれとしての特別感がここにはあった。

特別な日の特別なお弁当。

その意識があるだけで、今日のお弁当は一味違うものに感じられた。


「あ、そういえばもう吉江さん来てくれてたよ。私がうち出るときには」

「え、もう? 早いな」

「あははー。鉄子さんに言われたら飛んでくるってさ」

「はー。別団体の人なのにすげーな。かーちゃんの影響力」

「だよねー。しかも、元レスラーの人まであんな風に呼びつけられるなんて」

「まあ、一応仕事でもあるしな。エアコンのメンテは」

「あははっ。それもそっか」

「ああ」


吉江さんは、うちと親しくしているエアコン取り付け業者の人だ。

うちの各部屋のエアコンも、咲の家のエアコンも、寮や練習場のエアコンもすべて吉江さんが手配して取り付けてくれたものだ。

まあそう考えればかなりのお得意さんなのだから、予定がなければ優先してくれるのも当然な気もするが、たぶんそういうのがなくても吉江さんはうちに飛んできてくれたのだろう。

なにしろ、彼はかーちゃんをレスラーとして尊敬しているらしいから。


「そういえば吉江さん、少しは痩せてたか? お医者さんから、ダイエットしてくださいって言われてるらしいけど」

「ううん。全然。むしろ、去年見たときよりも、一回り大きくなってた気がする」

「うわー、あの人まだ大きくなるのか」

「あはは。しかも、太ったっていう感じじゃなくて、筋肉で巨大化したって感じだったよ?」

「え? まさかカンバックする気なのか? リングに」

「どうだろう。膝の方は相変わらずみたいだけど」

「うーん」


元レスラーで今はエアコン取り付け業者の吉江さん。

140キロの巨体で、現役時代は動けるデブとしてかなり活躍したらしい。


そんなことを話しているうちに、昼の休み時間はどんどん過ぎていった。

咲はあと1コマ。

俺はあと2コマ。

今日の補習の予定は、まだ終わっていなかった。


    *    *    *


「ほら、起きろ黒柳」

「ふえ? あ……」


コツンコツンと机を叩かれ、そこに突っ伏して居眠りしていた俺は目を覚ました。


「今日の補習はこれで終わりだ。もう少しがんばれ」

「はい、がんばります」


口の端に少しだけ垂れていたよだれを拭い、俺はプリントに向き直る。

今の時間は、物理の補習。

担当教諭である死神(もちろんあだ名)の説明を聞きながら、彼が用意したプリントの空欄をすべて埋めて、最後に答え合わせをするのがこの補習授業での課題だ。

現状埋まっている空欄は、一番最初のひとつ……氏名と書かれた空欄だけだ。


「ふわぁ~……あー、マジ眠い。食後の物理は眠気との戦いだよな」


いつもの普通の授業中であればほぼスルーされそうな俺の独り言に、死神のツッコミが入る。


「別に物理じゃなくてもお前は眠くなるだろうが」

「まあね。っていうか先生は、なんで物理の先生になったの?」

「ん? 俺か?」

「そう。別に俺も先生を目指そうとかそういうわけじゃないけど、一般的な興味として」

「そうだなあ……」


そしてこちらも、普段の授業であればほぼないであろいう展開が繰り広げられる。

まあ一部生徒の誘導に引っかかってこの手の雑談で授業時間を潰してしまう先生もいなくはなかったが、大抵の教師はきっちり軌道修正して授業に戻っていく。

いつもなら、死神もこちらのタイプだ。

だが、今日は違った。

補習の授業ということもあり、死神の方もだいぶリラックスしている。

生徒たちがきっちりプリントをやっていることを確かめながら、自分が教師を目指した経緯を話し始めた。

空いていた俺の隣の席に座って、俺のことをマンツーマンで指導しながら。


    *    *    *


「ふぅ~、終わった終わった」

「お疲れ様」

「おつかれ悦郎」


放課後……といってもいつもより若干早い時間、補習の終わった俺と咲は、部室で涼んでいた。

補習がないはずの緑青も、なぜか部室でくつろいでいる。


「明日は1教科だっけ? 2教科?」


部室の冷蔵庫から取り出したペットボトルのお茶を、俺と咲、それぞれの紙コップに注ぎながら咲が尋ねてきた。


「午前中に2教科。それでようやく俺も夏休みだ」

「がんばってね。お弁当作って、ここで待っててあげるから」

「ああ」


補習が1教科だけの咲は、今日ですべてのスケジュールを終えている。

というか、すべてというほどの数ではないが。


「で、悦郎。残ってるのは何と何?」


部室に所蔵されている月刊マーのバックナンバーを読みながら、緑青が聞いてくる。


「音楽と家庭科だ」

「え、実技科目も赤点だったの?」

「まあな」

「さすが悦郎」

「んもー、変なとこ褒めないでよちーちゃん」


俺よりもひと足早く夏休みなった二人と、いつもどおりの放課後を過ごす。

部室の外からは、いつもよりも少し大きめな運動部の練習の声や、吹奏楽部の楽器の音が聞こえてきていた。


「っていうか緑青。なんで来たんだ? 別今日は部活じゃないぞ?」

「部屋のエアコン、調子悪い」

「お前の部屋もか」

「?」

「いやうちも……っていうか俺の部屋のも調子悪くてよ、今日修理来てもらったんだ」


なんでもない会話をいつものように交わす。

そこに大した意味はない。

だがそれでも、そのいつもどおりな感じがなんとも心地よかった。


    *    *    *


太陽が傾きはじめ、ほんの少しだけ暑さが緩んだころ、俺たちは部室を出て学校をあとにした。

だいたいいつもどおりの時間。

いつもと同じコースを、いつもとほぼ同じメンバーでいつものように歩いて帰る。


「麗美さん、いつ戻ってくるんだっけ?」

「アイドル部の活動もあるから、8月には戻ってくるらしいぞ」

「そっか」

「アイドルと言えば、若竹のところもなんかあるんだよな」

「そうだね。私にもよくわからないけど、アイドルさんたくさん集まるみたいだよ」

「ふーん」


学園前の駅で、いつもよりほんの少しだけ早い電車に乗る。

時間が違うからか、それとも夏休みシーズンに入ったからか、電車の中の顔ぶれもだいぶ違っているように見える。


「夏休みだな~」


特になにかあったわけでもないが、何気なくそんなことをつぶやく。


「そうだよね~」


答えた咲の方も、たぶん大したことは考えていないだろう。


「悦郎はまだ補習あるけどね~」


緑青はいつもどおり。

それでも何となくその表情がいつもより楽しそうに見えるのは、きっと季節が夏だからというのがほんの少しくらいはあるだろう。


電車が地元の駅に着き、いつものように階段を降りて改札に向かう。

いつもならここで緑青とは別行動になるが、今日は通販の受け取りがあるとかで一緒にコンビニに行くことになった。

当然向かうのは、俺たちの行きつけの店。

元同級生である若竹の働いているコンビニだ。


「あれ?」

「いらっしゃれー」


ピンポロと馴染みの電子音とともに俺たちを迎えてくれたのは若竹でも持田さんでもなく、しばらくぶりのリーさんだった。


「今日は美晴ちゃんじゃないみたいだね」

「そうだな。時間が違うからか?」


レジに用がある緑青とは別行動で、俺と咲は雑誌コーナから日用品コーナーへと進んだ。


「あっ、悦郎」

「おう若竹。こっちだったか」

「今日はいつもより早くね?」


棚と棚の間にしゃがみ込み、品出しをしていた若竹。

俺と咲に気づき、立ち上がると腰をトントンと叩いた。


「なんだ? おつかれか?」

「まあね。ここのところ毎日遅くまでリハだから」

「あー、なんとかフェスティバルだっけか」

「今まで立ったことないくらいでかい舞台だからな。みんな気合入ってるよ」


元々バンドに専念するために学校を辞めたはずの若竹だったが、いつの間にかアイドルになっていた。

本人も最初は複雑なところがあったようだったが、今はそれほど悩んだりはしていないようだ。


「最高に盛り上げるから、見に来てくれよな」

「ああ」


俺が若竹としゃべっている間に、緑青も咲も用事を片付けてきた。

俺はリーさんと若竹に挨拶をして、コンビニをあとにした。


俺たちだけでなく、若竹たちの夏もはじまっているようだ。

……リーさんの場合は、どういう夏なのかはよく知らないが。


    *    *    *


「「「いただきまーす」」」


夕食の時間、テーブルに着く人数はいつもより一人多かった。


「相変わらずでかいっすね、吉江さん」

「はっはっは。まあな」

「っていうかヒゲ伸ばしたんですね」

「おう。現役のときはできなかったからな」


一人多い人数。

それは元レスラーでエアコン取り付け業者の吉江さんだった。


「今日は久しぶりにトレーニングしたから飯が美味い!」


俺の部屋のエアコンの修理のために呼ばれた吉江さんは、そのあと寮の方のエアコンもメンテさせられ、そのあとはかーちゃんに言われるがままに寮の練習生の姐さんたちと一緒にトレーニングでひと汗流したらしい。


「もう引退してからどのくらいなんですか?」

「そうだなあ。そろそろ二年……いや、三年か?」


引退してはカンバックすることが多い業界ではあったが、吉江さんは膝の問題もあってカンバックすることなくきっちり別業種に鞍替えして、エアコン取り付け業者として働いていた。

もっともその営業先は、レスラー時代の知り合いが多かったが。


「そんなに経ってるのにまだその筋肉なんですか? すごいですね」

「まあな。今日みたいなしっかりしたメニューのトレーニングは久しぶりだが、ウェイトはジムでやってるからな」

「あ、筋肉は維持してるんですね」

「俺のトレードマークみたいなもんだからな」


そう言って吉江さんは腕に力こぶを作って見せてくれる。

うちに出入りしている姐さんたちもなかなかの筋肉は誇っていたが、そこはやはり女性の方々。

吉江さんほどのムキムキ筋肉は、かなり久しぶりな気がした。


(あ。体育の春日部もけっこうムキムキだったっけ)


そんなことを考えながら、俺は今日の夕食を楽しんでいた。


しかし、ちょっとした謎がひとつだけあった。

咲にどういうこだわりがあったのかわからないが、今日の夕食のメニューはマカロニづくしだった。


まあ、うまかったからいいんだけど。


    *    *    *


「じゃ、おやすみ」

「うん。また明日ね」


ゴソゴソと咲が布団に潜り込む音が通話アプリを通して聞こえてきた。

俺も咲にならうように自分のベッドに横になる。


「あ、そういえばエアコン直ってる。吉江さん来てくれたんだから当たり前だけど」


目を閉じ、涼しい風に身を任せる。

火照った身体がゆっくりと冷え、それと共に少しずつ眠気が俺の意識を覆っていく。


「……ん?」


ふとした違和感が、俺の中に沸き起こってきた。

せっかく訪れた眠気が、それによってわずかに引いていく。

俺はその違和感の正体を知ろうと、ベッドを降りてその現場へと近づいた。


「何が……引っかかるんだ?」


なんとなく気になるのは、本棚の一角。

こんな俺でも、一応小さめの本棚がいっぱいになるくらいの本を持っていたりもする。

もっとも、そのほとんどは漫画ではあったが。


「あ……」


違和感の正体に俺は気づいた。

それは、本の並びが少しだけ違うことだった。

そして、何冊かの抜けがある。


「誰だ? 俺の漫画持ってったの」


すぐに思いついたのは、美沙さんだった。

うちによく出入りしている、かーちゃんのとこの若手レスラー。

だが、そのなくなっているっぽい漫画のジャンルは、女性が読むようなものではないように思えた。


「でもまあ、最近は女の人でも少年漫画読むからな」


本がどこに行ったのかは気になったが、違和感の方が解決したために、俺は少しだけスッキリしていた。

そしてそのまま、再びベッドに戻る。


「明日にでも聞いてみるか。まあ、もう読み終わってる漫画だからいいんだけど」


そのとき俺は忘れていた。

そこに並んでいた漫画が、近藤から借りていたものだということを。

そしてその中身が、付いているカバーとは別物だったということを。


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