女伯爵は幸せを望まぬ

Neishelia

ダブルフェイスな女伯爵⑴

 そのひんやりとした地下室には、錆び付いた鉄のような臭いが充満していた。鮮烈なあかが四方にぶちまけられており、そのドロリとした液体はまだ乾く様子はない。壁を伝ってはそのまま地面へと染み込んでいく。この異様な空間を照らすのはぼんやりとした一つの光。それは部屋の中心に浮かんでいた。

 思わず顔をしかめてしまいそうな空間に構うことなく佇む人影が一つ。男にしては線が細く、女にしては背が高い。襟足から伸びる夜の色の三つ編みは固く結ばれていた。

 その人影が凍てつくようなホリゾンブルーの双眸で見つめる先には、人間ものが。首と身体の二つに綺麗に分かれてしまっている。その首の目はこれ以上ないほどに見開かれていた。まるで信じ難い光景を目の当たりにしたかのように。


「これで終わり……」


 ポツリと呟かれた声は高く澄んでいた。このような場所でなければ、その美しさに息を呑むだろう。それとも、声に滲む激しい増悪に気付き息を呑むのだろうか。

 彼女が手にしている大鎌は、光を反射し怪しく煌めいている。人の首をはねたはずのそれは全く紅く染まっていない。そんな大鎌を手にする彼女もしかり。

 彼女はビスクドールのように整った顔にアイマスクをつける。銀で何かの葉が一枚描かれている仮面は、彼女の精巧な顔の半分を隠してしまった。


「転移」


 そう唱えると、金と黒の光が彼女を包み込む。光が一層強くなった次の瞬間、光と彼女の姿は忽然と消えていた。後に残されたのは、一つの遺体と荒れ果てた紅い部屋だけだった。




 煌びやかなシャンデリアの下、色とりどりのドレスを纏った女性たちや、センスの光る礼服を纏った男性たちが語らう。いや、女性、男性ではなく青年たちと言うべきだろう。子供ではないがまだ大人になりきれていない彼らは、それぞれ歓談に時を過ごしていた。


「本日をもって、我々は大人の仲間入りを果たした。今までは未成年という括りで守られていたかもしれない。しかし、それはもう終わりだ。これからの選択にはどこまででも責任がつきまとう。それに加え、貴族や長子たちには家の責任もついてくるだろう。それにめげることなく堂々と向き合ってほしい。そして、そのことを胸にこの国の、国民の繁栄のために尽くしてほしいと思う。……私、ルグランジュ=バスティーナはその筆頭としてバスティーナ帝国に尽くすことをここに宣言しよう!」


 世界屈指の大帝国、バスティーナ帝国。その国の皇弟の宣言に、会場にいた多くの者たちが賛同し、拍手を送った。この会場では、バスティーナ帝国国立学院の卒業会が執り行われている。成人を迎えた卒業生を在校生が送り出すこの会は、毎年主席卒業者による今後の抱負を合図に舞踏会へと変わる。今年の主席卒業生はルグランジュ。インディアンレッドの髪をオールバックにし、アメジストのような瞳はシャンデリアの光に煌めいている。品行方正、才色兼備な彼は、誰もが憧れる男であった。彼が抱負を言い終えた今から、この会場は舞踏会になるのだ。


「«社交界の花»、セレスティナ嬢。どうか私に、あなたのファーストダンスの相手を務める権利をいただけないだろうか」


 堂々とした宣言を終えたルグランジュは、一人の少女に手を差し伸べる。

 «社交界の花»と呼ばれた少女は、その名にふさわしく、花のように美しい。薔薇のような華やかさや、カスミソウのような可憐さはない。しかし、そこには百合のように端麗で気品漂う少女がいた。緩く波打つ金髪を耳元でふんわりと結い、流した前髪から覗く右にアクアマリン、左にローズクォーツを嵌め込んだようなオッドアイは神秘的。卒業生ではないのか、清楚で控え目なドレスではあるが彼女が着るとその意味をなさない。


「ええ、皇弟殿下。喜んで」


 ビスクドールのように整った顔に微笑みを浮かべた彼女は、差し伸べられた手をとる。そのまま二人が優雅に会場の中心へ歩いていくと、楽隊がワルツを奏で始めた。二人は略式の礼をとると、手を取り合って踊り始める。それにならって周りも踊り始めたところで、ルグランジュがセレスティナに話しかけた。


「卒業会のダンスをあなたと踊ることができるとは思ってもいなかった。受けてくれてありがとう」


 音楽や談笑にかき消されず、二人だけに聞こえるように声を抑えたせいで、二人の距離が縮まる。その様子をチラチラと盗み見ていた周りは色めき立つ。そんな周りのことを知ってか知らでか、セレスティナはクスリと笑うと自分からルグランジュの耳元に口を近づけた。


「いいえ、殿下。わたくしこそお礼申し上げますわ。殿下のお相手など身に余る光栄ですもの」


 一見睦言を囁きあっているようにも見えるが、二人が交わしている言葉はいたって普通。互いに駆け引きもせず言葉を交わしている。

 曲のテンポが上がり、ターンに入る。セレスティナの紺のドレスがふわりと広がった。


「セレスティナ嬢にそう言ってもらえるのは嬉しいな。あなたが兄上の想い人でなければ良かったのに」


「まあ! お上手ですこと」


 冗談を言い合いながら一曲踊りきると、二人はすぐに離れてしまう。皇弟と«社交界の花»という組み合わせに期待を膨らませていた見物人たちは、残念と言わんばかりに四方へと散っていった。


「フラウデン伯爵令嬢、今宵も麗しゅう。どうか私と……」


「«社交界の花»フラウデン伯爵令嬢、あなたの美しさに、思わず花の精霊が舞い降りたのかと。一曲私と……」


 ルグランジュと別れ、中央からテラスへと移動するセレスティナに、次々と令息たちが声をかける。それらを全てやんわりと、しかしきっぱりと断りながら、彼女はテラスへと急いだ。


 外はすでに夜の蚊帳が降ている。明かりのないテラスに降り注ぐのは月明かりのみ。

 人目を避けるようにしてテラスの端へと移動したセレスティナは、周りに人気ひとけがないことを確認し、呟いた。


「転移」


 金と黒の光に包まれると、一瞬で彼女の姿が消える。舞踏会から«社交界の花»が消えた。これは一大事であるにも関わらず、誰一人として気付く者はいない。普段の夜会と同じく、彼女がすぐに退場してしまったからだろうか。彼女は常に一曲踊ってはその会場を後にする。今回もルグランジュと一曲踊ったので例に漏れず帰った、




 転移先は簡素な小部屋。シルクのドレスを纏った彼女とは相反する殺風景さだ。窓は一つだけついているが、そこから見えるのは白塗りの壁。景色などあったものじゃない。部屋の中にあるのはクローゼットと木のスツールのみ。


「さて、着替えましょうか」


 気分を切り換えるかのように小さく息をついた彼女は、きらびやかなドレスを脱ぎ捨てた。令嬢とはかけ離れたその動作に彼女が戸惑うことはない。そのままコルセットも外しにかかる。

 淑女の必需品であるコルセットを外した彼女は解放感に満ちていた。なにせ、ない胸を押し上げるだけのそれは、美しい括れを持つ彼女には苦痛でしかなかったのだから。17になってもなお絶壁である身体を見下ろしてため息をついた。


 クローゼットの中からセレスティナが取り出したのは軍服。銀のシャンクボタンがあしらわれたアイアンブルーの詰襟には、4つの勲章が。それらがカチャカチャと音を立てるのも気にせずに、彼女は素早く着替えを済ませ、軍のブーツに履き替える。

 次に彼女が手に取ったのはいくつものホルダーや小さなポケットがついた革のベルト。それを器用に腰に巻き付けると、クローゼットの中から複数のケースやを取り、ホルダーやポケットに装備していく。

 それが終わり、セレスティナがクローゼットから取り出したのは目薬とクリームらしきもの。目薬を、セレスティナ特有のオッドアイのうち、ピンク色の瞳の方にさす。すると、その瞳は一瞬で右目と同じ水色に変化した。彼女は当たり前のように長い睫毛で縁取られた両目を数回瞬いて目薬を馴染ませる。目薬をクローゼットに入れておもむろにクリームらしきものに手を伸ばした。指先にブドウ一粒程度の量を取ると、下ろした豪奢な金髪に塗り込んでいく。するとどうだろうか。ウェーブのかかった金髪は、ストレートのミッドナイトブルーに変化した。それをきつく三編みに編み、先を麻紐で結う。

 脱ぎ捨てたドレスをハンガーに掛け、クローゼットに入れたセレスティナが最後に取り出したのは仮面。黒塗りのアイマスクのは、銀で一枚の百合の葉が描かれている。«社交界の花»と呼ばれる彼女に与えられた花の葉だ。それをセレスティナが付けた瞬間、«社交界の花»は«仮面の死神»に変わる。


「よし、行こうか」


 鈴の音のような美しい声の口調が変化する。ここからは«社交界の花»ことセレスティナ=フラウデンではなく、«仮面の死神»ことアクリュス。

 正体不明のバスティーナ帝国軍第十三番隊特殊部隊所属兵。夜の色を纏い、大鎌をふるう姿はまるで死神のよう。特殊部隊のアクリュスに屠られた生物は数知れず。漆黒の仮面に隠された素顔を見た生者はいない。その素顔を見た者は死者のみ……。そう囁かれる国軍兵がアクリュスだった。

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