捨ておじさんを拾った女子高生の話
水樹悠
捨ておじさんを拾った女子高生の話
雨の日におっさんを拾った。
いつもの通学路に、ダンボールの中に入った大きなバケツに座ったおっさんがいた。普段なら別に気にしないところなんだけど、こんなところに捨ておじさんとか珍しかったし、結構な雨でずぶ濡れになって、つぶらな瞳でみつめてくるから、なんか無視できなかった。
目をそらしたら行こうと思って「こっちみんなよ」って言ったけど、ずっと目をそらさなくて……結局、アタシが根負けして連れて帰ってきちまった。傘を傾けて「うち、くるか?」って聞いたら、力なくゆっくり立ち上がった。弱ってるのか、そのままふらついてた。
傘をさしながらアタシが支えてなんとかウチに連れて帰ってきて、とりあえず洗って、アタシの部屋で待たせた。なんか食わせたほうがいいだろうと思って、なんか作ってもよかったんだけど、早くもってったほうがいいだろうと思ってとりあえずパンとジャムを持っていった。
部屋に入ったら、おっさんは部屋の隅で小さくなってた。パンを見せても、こっちを見るだけで手を出そうとしない。だいぶ警戒してるみたい。パンを食べさせるだけでも二時間はかかった。
夜中になってお母さんが帰ってきたらびっくりしてた。
「咲楽ちゃん、うちで飼うつもりなの?」
お母さんは……ううん、お父さんもだけど、ふたりとも陰キャで目立たないようにひっそりと生きてきたらしくて、どうもアタシのことが怖いみたいで腫れ物に触るような扱いだからアタシのすることに反対なんてできない。おっさんを飼うなんて大きなことだから、さすがに反対するかなとか思ったけど、やっぱりおっかなびっくりだった。
「そのつもりだけど?別にいいでしょ?」
お母さんはそれ以上何も言わなかった。
朝、アタシが起きるとおっさんはもう起きてた。一応、ベッドで寝かそうとしたんだけど入ってこなかったし、相変わらず部屋の隅で小さくなってた。
「アタシ、ガッコあるから行ってくるけど、なんか必要なモンとかある?夕方には帰ってくるけど、結構時間あるよ?」
おっさんは何も言わなかった。警戒されてんなぁ。
「なんかアンニュイだね」
昼休みになってアンナが声をかけてきた。なんで今になって、って気がしないでもないけど、アンナはホームルームの途中で入ってきてたからまぁ無理か。
「アンニュイって何。アンナっぽいからアンニュイ?」
「なにちょっと上手いこと言ってんの。じゃなくて、なんていうか、エロいこと考えてますーみたいな顔して?」
「エロいこと考えてないし顔がエロくもない」
なんか顔がエロいとか言われることもあるけど、そんなことはない。多分。
「ねぇ、あんた確かなんかペット飼ってたよね?」
別に写真見せてきたりはしないし、ペットの話題にもならないけど、なんか飼ってるって前に行ってた気がする。
「うん、犬と猫とインコ飼ってるよー」
「犬と猫とインコねぇ……おっさんは飼ったことない?」
「え?いやいやいや」
アンナは手をぶんぶんと振りながら首もぶんぶん振った。
「ないないないって。無理だから。だいたい、あんたおっきいのうちで飼えないもん。ってか、なんでおっさん?可愛くないじゃん」
「いやさ、昨日捨ておっさん拾ったんだよね。でもどうしていいかわかんなくてさ」
アタシが言うとアンナはパンッと手を合わせてくねくねしだした。
「いゃぁ、大胆!咲楽がそんな大胆なことするなんてお姉さんびっくりよぉ!」
「誰がお姉さんだ」
アンナのデコにビシッとツッコミを入れておく。
「っていうか、どうしていいかわかんないってどゆこと?どうやってベッドインすりゃいいかわかんないって話?」
「あんたがおっさんか。違うし。 じゃなくて、なんかめっちゃ警戒してるし、何も言わないし、食事もほぼほぼ食べないし、うまく打ち解ける方法ないかなって」
「警戒? でも、咲楽んちまではおとなしくついてきたんだよね」
「そうなんだけどさ」
アンナはむぅーっと唇を突き出して悩んでみせた。
「咲楽がヤンキーだから怖いんじゃ――あぅ」
もう一発デコにビシッとツッコミをキメた。黙れゆるふわメルヘンインスタフォロワー少ない系ギャルが。
「これでも真面目に考えてるんだよぅ……いたぁい。 でもあたしもおっさん飼ったことないし、おっさん飼ってる友達もいないからなぁ。ってか、なんでおっさん拾ったの?キャラ違くない?」
「誰もキャラ付けでおっさん拾ったりしないでしょ……」
「いやいやいや、するでしょ。雨の中ずぶ濡れのおっさんを拾うヤンキーとか少年マンガの鉄板――あぅ」
デコへのチョップと見せかけてのデコピンが決まってアンナはしゃがみこんだ。
「うー、なんか今日の咲楽凶暴すぎるぅー。 とりあえずなんか話してみたら?優しく撫でたりしてみたら少しはなつくかもしれないしさ。あと好きなもんとか聞いてみるとか」
「撫でるねぇ。あんな警戒してんのにおとなしく撫でさせてくれるかね? ひっかかれそう」
結局、アタシは授業中もおっさんのことが気になって身が入らず、折角真面目に授業受けてるのに授業で何話したかなんてこれっぽっちも覚えてなかった。
「ただいま」
帰って手を洗って急いで部屋に戻ると――驚かせないようにドアはそっと開けて――おっさんは相変わらず部屋の隅にいた。
いや待って。ずっとその体勢だったの?しんどくない?体痛いっしょ?
部屋は朝と全然変わってないし、何か触った様子もない。マジでずっと体育座り?体育座りとか体育で説明の間やってるだけでもしんどくない?
えーっと、なんだっけ?そう、確か子供とか動物とかに接するときは目線を合わせるのが大事なんだよね。とか清楚ぶってるモテる系女子の理美が言ってた記憶がある。
とりあえずしゃがんでみる。しゃがんでも――ちょっとアタシのほうが目線高いかな。でもこいつ結構背高いから座っちゃうと完全に見上げる感じだしな。
うーん。なんか……目が死んでるなぁ。誰も信用しないぞって感じ?ってゆーか気迫がないぞコラ。これなら大丈夫かな?ひっかかれたりしない?
アタシは恐る恐る手を伸ばしておっさんの頭に触れてみた。触れた瞬間、ピクッと反応してこっちを窺うようなふうに見てきたけど、別に嫌がったりする感じじゃないのでそのまま撫でてみた。
「よーしよーし。こわくないからねー。アタシはあんたの味方だからねー」
お、おとなしく撫でられてる。ちょっと一瞬アンナが言ったことを思い出したけど、イラッとしたら伝わって怖がらせちゃうかもしれないから、ぐっとこらえてニコニコしながら頭を撫でてみた。
んー、髪がごわごわしてるなぁ。わかめ頭だし。昨日はさっさと洗ったほうがいいと思ってコンディショナー使わなかったけど、ちゃんと使わなきゃダメかな。ってか、アタシのと同じでいいのかな?
別に触り心地がいいとかそんなことは全然ないんだけど、撫でるのってクセになるなぁ。アンナが色々飼ってるのもちょっとわかる気がするわ。なんか少し気持ちよさそうにしてるし。お、意外とかわいいぞ?誰だ可愛くないとか言ったヤツは。
「はっ!」
ふと窓をみたら真っ暗でびびった。え、アタシどんなけ撫でてたの。時計みたらもう八時すぎてるし。二時間くらい?え?さすがに撫で過ぎじゃない?ハゲない?
「はぁ…… ね、ゴハン食べようよ。今日はもう遅いし外食にしよ。トイレ行って準備しな」
服は昨日着替えさせたし、まぁいいでしょ。ってか、荷物が小さいリュックとバケツだけで、服とかもほんとなかったんだよなぁ。服とか買ったほうがいいかな。んー、お小遣いちょっときついかなぁ。お母さんに追加お願いする?ってか、必要なものとか通販で買うとかしたほうがよくない?あーでも、なんも言ってくれないからどうしたらいいか全然わかんないんだよなぁ。
おっさんはよろよろとトイレに向かっていった。ふらついてるけど、昨日よりはマシかな?アタシの服着せるわけにもいかないしなぁ。ってか、絶対入んない。
なにが必要なんだろ。今から行っても、まぁ食べるとこは開いてるけど、お店は回る時間ないしな。よしっ、今日はゴハンで打ち解けて、会話できるようになることを目標にしよう!
外に出たら改めて、このおっさんがだいぶでかいってことに気づいた。あたしが157しかないから小さいってのもあるけど、190くらいない?超でかい。あと、めっちゃ痩せてる。やばい。
「おっさん、なんか食べたいモンある?」
なんか超高いモン言われたらどうしよ……ま、ここはここは打ち解けるための必要経費と思ってがんばる……?
でもそんな心配以前の問題だった。やっぱりおっさんはちらちらとこっちみるだけで何も言わない。しかも、ふらふらして危なっかしい。
「ほら、危ないって!」
なんか放っとくと車に轢かれそうだから、とりあえず手をつないだ。なんかおっさんの手……めっちゃ指長い。すげー。骨っぽいけど細くて長い指。
駅まで十五分、電車で十分、街まで出て色とりどりのゴハンやを見せてみたものの、反応はほぼほぼなし。結局アタシが根負けして、ファミレスに入ったとさ。おっさんはラザニアを頼んだ。アタシは忘れないように、こっそりスマホに「ラザニア」と打ち込んだ。
そんな木曜日を終えて、金曜日も収穫なし。アタシとしては家に帰ったとき待ってる人がいて、ストレス解消に頭撫でまくれるってことで悪くない生活だったりするんだけど、さすがにかわいそすぎる。っていうか、絶対服はいる!あと、一緒に寝たくないならせめて布団はいる!
「おっさん!出かけよう!」
アタシが宣言すると、おっさんはきょとんとした顔で見上げてきた。うー、そんな目でみるなよぉ、ズルいじゃないか。
「デートだ!JKとデートだ!嬉しいだろ!」
今度はぽかーんとしてる。何、JKに興味ない系?そんな男いる?
「いいからいくよ!あんたの服も買わないといけないんだから!」
なんとか引っ張って立たせて、アタシが手を握るとおっさんはおとなしく手をつないできた。よしよし、わずかだけどこれって収穫ってことでいいよな!
代わり映えしない駅まで十五分、電車で十分。アタシにとってはいつもどおりの進行で街につくと、おっさんの顔が動くのを感じた。
あたしも自然とそっちを見た。おっさんが何かを見るなんてことを見るするのは初めてだったけど、それに気づくにはもう数秒必要だった。
「ピアノ…………?」
なんでか、駅にどーんとピアノが置かれてた。いや、別におかしくないでしょ、と思ったけど、やっぱりなんかおかしい。いや、絶対おかしい。駅にピアノがどーんと置かれてるってどういうこと?
でもおっさんはじっとピアノを見てた。憎むような目とか、憧れるような目とかじゃなくて、なんというか、懐かしんでる、みたいな?
「ねぇ、おっさん、ピアノ弾けんの?」
おっさんの目を見ながら訊いてみた。おっさんは何秒も何十秒も迷った挙げ句に、首を縦に振った。
「マジ?すっげー!」
打ち解けるためとか、そんなことは忘れて素で言った。アタシも、楽器できるとかっこいいなとか思ってピアノやろうとしたことあるけど、まぁ無理だと思ったね。理美は弾けるんだよな。マジ意味分かんない。
「ねね、弾いてく?ってか弾けるならお願い!アタシ、楽器やってるの見てるの好きなんだよね」
若干打ち解けるための媚が入ってなくもないけど、嘘じゃない。クラスの男子にギター弾くヤツがいて、そいつのギターをよく聴きに行ってたらそいつが勘違いしていきなり体触ってきたから蹴りいれた後先生にチクッて停学にしたくらい好きだ。
おっさんは迷った。ずっとずっと迷った。アタシは我慢強く待った。正直、これは決められないおっさんに苛ついたとか、打ち解けるきっかけになると思って焦ったとかじゃなくて――ただ、単純に聴きたかった。その長い指で、どんな曲弾くの?って。
何分か、ずっと立ち尽くしたまま迷っていたおっさんは、アタシの手を離してすっとピアノに向かった。
なんか、きれいな動きだった。カタン、とカバーを開ける。なんていうか、似合ってる。ボロボロのパーカーによれよれのパンツなんて姿だけど、なんとなくおっさんがスーツとかタキシードとか着てるような錯覚に陥ってた。
おっさんは鍵盤をぽーん、ぽーんと押す。何か曲を弾くんだと思ってたアタシは拍子抜けした。単に物珍しくて触りたかっただけなのかな?
……………………えっ?
今、何が起こってるのかアタシは全くわからなかった。それは、足元が崩れて上下逆さまで放り出されたような――ぶっちゃけて言えば貧血になったみたいな――衝撃だった。
おっさんは指一本でいくつかの鍵盤をぽーん、ぽーんと押していた。それは、恐る恐る鍵盤に触ってみてる、みたいな感じだった。まぁいいや、しばらく眺めてみようなんて母性あふれる気持ちでみてた。
突然それが、じゃーんに変わった。
そして次の瞬間、それは曲に変わった。
この曲は知らない。ものすごく静かな曲だった。ものすごく静かで、駅の喧騒に埋もれて聴こえないような、そんな音だった。でも曲だった。それはわかった。他にも何人か、それに気づいた人がいた。
クラシックなんだろう、っていうのはすぐにわかった。アタシはクラシックとか聴いたことないし、なんて曲なのかは全然分からない。でも、ピアノ弾く人が弾くやつとか、ねこふんじゃったでもなければ大体そんなモンじゃない?
そしてそれが起こったのは、五分か、十分か、それくらいしてからのことだった。
いきなり激しくて、目まぐるしくて、まるで世界がぐるぐるするみたいだった。
正気を取り戻すのにどれくらいかかったかわかんない。正気を取り戻したときに最初に思ったのは、指どうなってんの、絡まったりしないの、ってことだった。
それが「月光」って曲だってのを聞いたのは、それからずっとずっと後――それこそ何年もたった後のことだった。あたしにとっては、ただただ衝撃だった。
クラシックって眠くなるよね、とか言ったことがある。無理だ。これで眠れない。倒れるとかはあるかも知んないけど。
曲が終わった。すごく拍手が鳴って、アタシはようやく人だかりができてることに気がついた。
おっさんは高く手をあげた。でもそれはいっぱいになった観客に応える手じゃなかった。丸まった手は鍵盤に向かう手なんだ。
そのまま次の曲が始まった。今度は全然違う雰囲気。ジャズ?さっきと違って、なんか落ち着くっていうか、馴染むっていうか……
……あれ?これ、なんか聴いたことあるな?
……………………
あー、これ、マリオだ!
おっさんはさらにもう一曲、ジャズの、むっちゃくちゃ激しいやつをやって、アタシのところに戻ってきた。
「なにおっさん!超すげーじゃん!めっちゃすごい!さいこー!」
アタシはもう完全に興奮状態で、おっさんの手を握ってぶんぶん振っちゃった。いいじゃん。こんなん聴かされたら誰だってこうなるっしょ。おっさんは照れ照れで、顔を赤くして目をそらした。なにこれかわいい。
おっさんは尊敬の眼差しを向ける観客に軽く手を振って愛想を振りまいてみせた。ずっと死んだ目で動きもしなかったおっさんがこんなふうに人間みたいに動くのを見て、アタシはちょっと感動していた。
アタシががんばって連れてきたのに、他の人がいいとこばっかり見るってのはちょっとアレだし、おっさんをひっぱってユニクロまでやってきた。
「とにかく服は揃えちゃお!大丈夫、お母さんに多めにもらってきたから!」
まぁ、ユニクロってどうなのよって気もするけどさ。いいっしょ別に。最低限数揃えたほうがいいだろうし、じっくり選んでたら時間ないしね。
おじさんは出かける前よりはちゃんとイキイキしてるけど、それでも随分おどおどとして落ち着きがなかった。さっきまでのキラキラっぷりはどこいった。
「もぉ、おっさんはもううちの子なんだから遠慮とかしないの! おっさん、背高いしスーツとか似合いそうだよね」
どれがいいとか言う気はなさそうだから、アタシが勝手にコーディネートしていく。ぶっちゃけアタシ、センスはまぁまぁあるほうだと思うし。
「んーー、H&Mでも行ったほうがいいかなぁ。背ほんと高いしサイズ微妙だよねー……」
ん?おっさんちょっと嬉しそうにしてない?さっきは単純に遠慮してたっぽいけど、もしかしてコーディネートされて喜んでる?
「任せといてよ、アタシがバッチリイイオトコにしたげるから!」
ああっ、裕福な家庭に生んでくれてありがとうお母さんお父さん!ってさすがにそれは現金すぎるか。現金だけに。
うん、やっぱり下着以外はインポート系んトコ行こう。サイズがないし、だいたい全然知らなかったけど、ユニクロもメンズだとシャツとか全然ないし!
結局、あっちこっち回って見繕って、めっちゃ買った。
おっさんはトイレで着替えさせて、まあ今もパーカーなんだけどさっきとは違ってだいぶアメリカっぽくなった。なんか、イメージと違うけど、まいっか。似合ってるし。一応ジャケットとかも買ったけど、とりあえず着替えやすそうな服にした。
ごはんは、結局今回もどこがいいか聞いても答えてもらえなかったから、蕎麦屋にした。もちろん、アレルギーがないかは確認済み。
「おっさんってピアニストだったの?」
訊いてみた。答えが返ってくるとは期待してなかった。一応反応返してくれるようになって意思疎通はまあまあ取れてるから大きな進歩。アタシとしては大体満足。
「いいや」
だからアタシはすぐにそれがおっさんの答えだと気づかなかった。っていうか、おっさんの声だって気づかなかった。ってか、そもそもおっさんの声はじめて聞いたわ。なにこのイケボ。
「マジで?あんなうまいのに?」
おっさんはまた黙り込んじゃった。あ、もしかしてまずいこと聞いたかな。
「あー、もしかして触れないほうがいい?」
あたしが恐る恐る訊くとおっさんはきょとんとこちらを見て、そしてくすっと笑った。
「いいや」
同じ言葉だった。でも今度は続きがあった。
「ピアニストになれなくて辛い思いをした、ってことも、そんなにないさ」
当たり前のことなのに、あ、おっさん、喋るんだ、とか思ってしまった。だってもう四日目なのに、一言も喋らなかったし。
「そうなんだ。おっさんならすぐピアニストになれそうなのにね。アタシ、演奏するの見てるの好きだから、よくユーチューブとかでピアノの演奏動画とかも見たりするけど、おっさんアタシが見る動画の人より全然上手いと思うんだけど」
別にお世辞を言ったつもりはない。でもおっさんは首を横に振った。
「俺はそんなに上手くもないし……仮に上手かったとしても、プロにはなれないよ」
少し寂しげではあったけど、つらそうってこともなかった。
「そっかぁ。やっぱピアノとか競争厳しいんだろーね。アタシも進路のこととか考えたくないなぁ」
もう三年だし、お母さんもお父さんも進学して欲しいみたいだから一応勉強してるけど、別に勉強できるってわけでもないし、進学してもしょーがない気がするんだよね。別になりたい職業もないし、むしろいっそ働かないでこのままずっと学生でいたいくらい。
んー、でもアレか。これからずっとおっさん飼っていこうと思うとお金もかかるし、がんばって稼がなきゃか。大変だ。
「ね、おっさんって仕事なにしてたの?」
今ちょっとガリガリだけど、もうちょっと食べればいい感じになりそうだし、背も高いし、スーツも似合うし、だいたい何の仕事でもできそう。
「パチンコかな」
ダメなやつだった。
「いくらアタシでもパチンコにつぎ込んじゃう人に貢ぐ趣味はないから全力でやめていただいていい?」
割とマジだ。
「いや、ずっと仕事してなかったわけじゃないんだ。その前はちゃんと働いてた」
「ほー。なにしてたの?」
「ホテルで働いていたんだ」
……えっちぃホテルかな?これ聞かないほうがいいやつ?
「ま、話したくなさそうだし無理に聞き出す気はないけどさ。でもそんなにピアノ弾けるのになんかもったいないなぁ」
おっさんは何も言わなかったけれど、アタシの中にはちょっとしたアイデアが浮かんでいた。
土日はおっさんが暮らしていくのに必要なものを買って――下着とか、歯ブラシとか、ひげそりとか――過ぎていって、待ちに待った月曜日。アタシはホームルームが終わると隣の教室にダッシュした。
目指すは赤メッシュ髪のちょっと派手系女子、めぐり。
「めぐりぃぃぃぃぃぃ」
アタシがダッシュで入ってきて、めぐりはちょっとのけぞってた。
「はぁ……はぁ……アンタ、さ……はぁ……」
「いや、ちょっとサラ、息整えてからでいいからっ……」
お言葉に甘えてちょっと待ってもらう。こんな全力ダッシュしたの何年ぶりだろ。
「アンタさ、元カレにギタリストいたじゃん?」
「は、ギタリスト?誰?」
「あれ、いなかったっけ?」
結構はっきり覚えてるんだけどな。
「いや、じゃなくて、ギタリストってだけじゃ誰かわかんなくて……何、紹介してほしいとか?」
「そうなんだけどそうじゃなくて! 確か、そのカレがすっごい有名なプロドラマーと友達とか言ってなかったっけ?」
「あああー、わかった。シューゴだ。見た目はいいけど中身ガキでえらそーなクセに『俺はすげーヤツと友達なんだぜ』とか言ってるダサいヤツ。え、マジ?サラ、あんなのがタイプなの?意外と面食い?」
「だーかーらー!違うってば。そうじゃなくて、アタシはそのドラマーの人と話がしたいの!」
「え?マジ? 既婚者だよ?」
絶対勘違いしてる。絶対勘違いしてる!
「違うってばぁ! そうじゃなくて、聞きたいことがあんの!だから超プロの音楽家の人の話が聞きたいの!あとお願いしたいこともある!」
「うわ、サラめっちゃ欲張り……」
めぐりドン引きしてんじゃねぇよぉ。アタシはここで粘る作戦に出た。
「ね、お願い!マジ、こんなん頼めるのめぐりしかいないんだってばぁ」
「そんなん言われてもさぁ……マジで元カレに連絡するとか何言われるかわかんないし、絶対ヤなんだけど……」
めぐりが渋る。ここはなんとか粘って……
「なぁ」
アタシがめぐりにどう粘ってイエスと言わせるか考えてると、ツンツン頭の男子が話しかけてきた。
「は?なに?」
アタシが普通に返すと男子はちょっと後ずさって、気味悪い笑顔をニヤニヤ浮かべてまた話しかけてきた。なにきも。
「いや、あの、なんか話してるのがトナミさんのことっぽかったから、さ。トナミさん、今日軽音部の様子見に来るよって」
アタシはそのキモ男子の言葉を最後まで聞かずにダッシュした。
「ぜー…はー…ぜー…はー… あ、と、トナミさん、いる?」
くそっ、みんなしてドン引きしてんじゃねぇよぉ。アタシだってこんな必死になってるのにちょっと引いてるんだから。
「いや、まだ来てない、けど……」
アタシはがっくりと崩れ落ちた。いや、まだ来てないってことは間に合ったんだ。ここで待ってればいい。
「お前、こんなとこで何やってんだ……」
後ろから、やたら低いイケボの声がかかった。振り返ると人が二人……立ち上がって確認すると、背の高い男子と、背の低い女子。男子のほうが女子を抱えるように立っていた。でも、二人共制服じゃない。
「あ、トナミさん!その子、トナミさんに何か用みたいっす!」
後輩っぽい男子からそう聞いてその男子はじろっとアタシを見て……女子はアタシのことをめっちゃ睨みつけてきた。
「ドラムのことか?」
なんだろ。このトナミって人、何考えんのか全然わかんないな。ってか、怒ってるのかどうかもわかんない。
「あ、違うんですけど、ちょっと、お願いがあって……」
アタシが言いかけると手で口を遮った。
「あとで少し時間とってやる。ドラムのことじゃないならおとなしく聴いて待ってろ」
トナミさんってのはすごい人らしい、ってのは軽音部のみんなの扱いですぐわかった。
トナミさんの指示にみんな異様なほど元気に反応してキビキビ動いてる。授業中でも見たことない。
トナミさんはひとりずつ、3分くらい叩かせて、そのあと5分くらい指導する、ってのを十一人に対してやった。みんな必死で、しかもめちゃくちゃ尊敬してるみたいで、ほんと異様に返事がいい。
全員に教えたあと、みんなに乞われてトナミさんは二曲ほど演奏して見せた。そのときは一緒にいた女子も演奏してた。あの子はベースを弾くみたい。
そして、トナミさんがみんなにそんなに尊敬されるくらいものすごい人だっていうのは、その演奏を聴いて完全に納得した。これはすごいわ。アタシがドラマーだったらめっちゃ尊敬する。
演奏が終わると、トナミさんはアタシの方に歩いてきた。
「三十分もない。手短に話せ」
ちゃんと聞いてくれるんだ。なんか嬉しい。
「あの、アタシの知り合いにすっごいピアノ上手い人がいて……」
アタシのお願いはシンプルなんだけど、説明が難しいことだった。でも、トナミさんはどんどん先回りして質問してくるから、アタシから直接話したことなんてほとんどなかった。
おっさんのピアノを聴いてほしい。絶対上手いと思うけど、超プロから見ても上手いのかどうか確認してほしい。もし、おっさんが本当に上手かったら、どうやったらおっさんがピアニストをやってられるか教えてほしい。
贅沢なお願いだ。この人は、すごい人なんだから。実際、トナミさんが考え込んでる間に、さっきドラムを叩いてた女子が、世界トップクラスのプロドラマーに失礼なこと言ってるんじゃないかって言ってきた。トナミさんが止めたけど、やっぱりとんでもないこと言ってるって自覚はある。
「あの、ちゃんとお金払いますから。プロにお願いするってことはわかってるんで」
どれくらいするのかわからないけど、お母さんに借金してでもここはがんばりたい。
「いや、まぁお金取るかどうかは話の展開次第だな。プロデュースしろとか言うならそりゃもらうけども」
うー、なんか、この女子の視線がめっちゃ痛いんですけど。既婚者って言ってたし、奥さんなのかな?歳アタシと同じくらいに見えるけど。
「まぁ、いいさ。そこまで言うなら聴くだけ聴いてやる。とりあえずスタジオ代だけ用意しとけ。あとは手ぶらでそいつを連れて来ればいい」
「! ありがとうございますっ!」
アタシはめいいっぱい、頭を下げた。
家に帰ったら相変わらずおっさんは隅っこでじっとしてた。
別に引き出しの中とか漁らなかったら好きにしていいって言ったんだけど、やっぱり小さくじっとしてる。アタシはとりあえず頭を撫でといた。
「ね、ちょっとお願いきいてくれる?」
「お願い?」
おっさんはきょとんとした。あー、つぶらな瞳強すぎる。
「アタシ、どーしてもおっさんにピアノ弾いてほしいの」
アタシがそういうとおっさんはちょっと考え込んだ。
「……またピアノのあるところに行ったらいいのかい?」
優しい声で話してくれるようになったな。ちょっと進歩。
「そうなんだけど、そうじゃないっていうか……ちょっとね、プロのドラマーの人の前で弾いてほしいの。で、アタシ的にはやっぱりおっさんのピアノ最高だって思うんだけど、プロ的にも最高だったらみんなに聴いてほしいなって」
「みんなに…………」
「嫌だった?」
アタシがちょっと心配になって聞くと、おっさんは首を2回横に振った。
「飼い主の望みなら、俺は叶えたいよ」
仕方なくってカンジじゃなかった。
「うん、じゃお願い!」
よしっ、元気出てきたぞ!
ペットの存在は生きるってことを変えるよね。
アンナとかは家族が面倒見てくれるから割と平気で夜遅くまで遊んでるけど、おっさんはアタシがいないとずっと部屋でじっとしてるし、アタシがいないと死んじゃう。
それに早く会いたいし、心配だし、なんだかんだでおっさんを飼いはじめてから家に早く変えるようになった。逆に、遊びにいきたいときはゴハンとかちゃんと用意して行かなきゃって思うし、ギリギリまで寝てたい派だったアタシがそのために早起きすることだってある。
愛って偉大だ。
ずっと「おっさんがまともに話してくれない」ってところからスタートしたけど、週末のお出かけがあってからおっさんは話してくれるようになった。無口なのかそんなに喋らないんだけど、アタシが言ったことにはどんなにくだらないことでもちゃんと答えてくれる。友達と話すのとはまたちょっと違う感じで新鮮。
おっさんには名前がないらしい。まぁ、捨ておっさんだったし仕方ないのかな。だからアタシが名前つけることになったんだけど、名前つけるって難しくない?なんかしっくりくる名前が思い浮かばないのと、自分がつけた名前で呼ぶっていうのがなんか慣れなくてまだつけられてない。
おっさんの食べ物の好みもちょっとわかってきた。多分、チーズを使った料理が好き。でもチーズそのものはそんなに好きじゃない。
「咲楽さぁ、最近ちょっと変わったよね。カレシできた?」
「いや、違うって」
むしろカレシができる気がしなくなった。
「じゃああれかぁ。拾ったっていうおっさん」
「多分それ。なんかほっとけなくてさぁ」
「咲楽がそんな風になるなんて意外ー。ま、気持ちはわかるけどね」
とりあえず目の前にあるのは、トナミさんのことだ。日程は、木曜日の夜に決まった。遅くなってもいいって言ったら、七時から四時間、と決まった。一万円くらいかかるっていうんだけど、まぁトナミさんってマジすごいっぽいから安いもんだよね。
「でもこないだの咲楽必死すぎて超ウケた。マジ初めてみたわ」
「ちょっと……マジ思い出したくないからヤメテ」
ほんと、なんであんなに必死になったんだろ、アタシ。
そんな楽しみにしてた木曜日。アタシはおっさんを連れて呼び出された駅に向かった。
トナミさんは例の女子と二人でいるんだと思ってたから、大勢いるのを見てびびった。いち、にー、さん……六人もいるよ?
「来たか」
かっこいいなぁ、この人。痩せてて、背が高くて、神経質そうに見えるんだけど、すごくオーラがあってやばい人感ある。あれ?でもそう考えると、おっさんとちょっと似てるかも。でも服装かなぁ。レザージャケットかっこいい。おっさんにもこういうコーディネートのほうが似合うのかな。
「えっと……?」
「ドラム。ベース。ピアノ。エンジニア。ピアノ。歌手」
トナミさんは自分を含めてひとりずつ指さしながら紹介した。えっ……つまり……アタシとおっさんのためにプロを集めてくれたってこと?
「戸波、お嬢ちゃんが戸惑ってるだろ。悪いな、こいつら音楽のことしか知らない連中だから」
エンジニアとして紹介された男の人がそんな風に言う。この人はちょっと馴染みやすそうだけど、でもチャラいなぁ。
「ちょっと、あんたが音楽のこと以外も知ってるみたいに言ってるけど、せっかく女の子連れてきても音楽のことになると熱くなっちゃって逃げられてんじゃん」
歌手って紹介された女の人がツッコミを入れる。この人、めっちゃくちゃキレイだなぁ。
「そっちの三人は世界トップの人たちだから。大船に乗った気でいればいいわ」
「あまり時間もないから行くぞ。竹内、今日は世話になる」
「任せとけ」
オーラばりばりのプロが動き出した。
スタジオっていうのは狭い階段を上がって狭いドアを抜けて狭い廊下を通って分厚い扉を開けたさきにある広い部屋だった。
案内中別行動してた男性陣が機材を運び込んで、いろいろつないだりしてた。スタジオにはピアノはなくて、持ち込んだ二台のキーボードで弾くみたい。
「心配しなくていいわ。あの二台はすごく良いやつだから。さすがに本物のグランドピアノとはちょっと違うけど、アップライトピアノよりは良いはずよ。あっちのグランドステージはRH3鍵盤で弾きやすいし、そっちのCP88は速い曲に強いし、腕を見るのに不足はないはずよ」
ピアノとして紹介された女の人が説明してくれた。アタシにもほぼ意味はわからなかったけど、おっさんは真剣な顔で聞いてる。今のはアタシに向かって説明してくれた感じかな。もしかして顔に出てた?
「何弾くつもり?全然弾いてないみたいだから、ウォーミングアップもいるかしら?」
今度はおっさんに聞いた。
「できれば、長めにウォーミングアップさせてください。ここ何年かはほとんど弾いてませんから。大丈夫そうなら……ラ・カンパネラを」
女の人は短い溜息をついた。
「そ。がんばってね」
椅子もちゃんとセットして、その女の人が弾き始めた。
これは……
やっばい……
「幻想即興曲か……」
おっさんが呟いた。曲の途中でエンジニアの竹内さんが手を挙げて、そこで女の人は演奏をやめた。そしてトナミさんがおっさんに近づいてきた。
「ジャンルは?」
「クラシックを長く……でも社会人になってからはジャズもやってました。身近な曲のジャズアレンジとか」
「オーケー。ジャズのときはこっちで適当に合わせるよ」
トナミさんは戻ってドラムのところに座った。なんか触って調整しているけど、おっさんはそれは気にせずにピアノのところに行って軽くぽろろんと弾いた。そしてもうひとつの、CPというほうに行ってぽろろんと弾いてから椅子に座った。そしたらみんなそれぞれに座った。もうひとつのピアノの前にはさっきの女の人が。
「君もどうぞ」
竹内さんがアタシにもパイプ椅子をもってきてくれた。ちょっと、こっち側にアタシひとりでちょっと心細いぞ? アタシから見ると正面がトナミさんで、左がおっさん、右がおねーさん、右後ろのなんか色々ついてる台のところに竹内さん、でトナミさんから左右に広がるように残りの三人。
しかも、さっきからおっさんが弾いてるんだけど、みんなあまり気にしてない感じ。向こうの四人はなんか話してるし。
アタシの様子に気づいたのか、竹内さんがアタシの隣にきた。
「今彼はウォーミングアップしてるからね。ブランクがあるっていうのは聞いてるから、ウォーミングアップ中に評価するのは失礼だろうってことで今はあまり皆聴いてないんだ。大丈夫、皆音楽に対しては1ミリだって妥協しないさ」
竹内さん、超モテそうなムーブだなぁ。
おっさんは静かな曲とか、楽しそうな曲とか、速い曲とかを弾いてた。あんなに激しく弾いて疲れちゃわないのかな?と思っちゃう。ちょっと汗かいてるしさ。曲はどれもクラシックっぽい。アタシが聴いたことない曲が多いけど、なんか聴いたことある曲もあった。
そうして四十分以上弾いたあと、おっさんは静かに手を挙げた。話していた四人も、だらーっとしてたおねーさんも、みんな姿勢を正して、真剣な表情になった。
なんか、体中が静電気でぞわぞわするみたいだった。
アタシにはそれを、「ものすごい曲だった」という以外に表現することができない。
ただ、速くて、激しくて、情熱的で、でも優しくて、綺麗な曲で、そしてただただ、すごかった。
ものすごく長い時間にも感じたし、あっという間だった気もした。緊張しすぎて、アタシはすっかり手の感覚がなくなっていた。弾き終わったとき、みんなは軽く拍手をした。本当に、みんな、軽くだった。
「大カンパネラやるんだと思ってた」
そう言ったのはおねーさんだった。
「牧さん、パガ超弾けなかったっけ?」
「鬼火以外なら弾けるわよ」
訊いたのはピアニストのおじさん。何を言っているのかは、わかんないけど……
「戸波ちゃんは?」
「俺はクラシックは専門外だからな。よくわからん。けど、多分感想は一緒さ」
トナミさんはそう言って外国人みたいに肩をすくめた。
「次は?」
トナミさんに問いかけられて、おっさんは次の曲を弾き始めた。ノリのいい曲で、始まるとピアノおじさんがひゅうと口笛を吹いて、トナミさんとその奥さんがおっさんに合わせて演奏を始めた。
すごいな……その場で合わせたりできるもんなんだ。有名な曲なのかな?
その曲はちょっと長くて、三人が息のあった演奏を見せてくれた。おっさんは休まず次々に色んな曲を聞かせてくれた。アタシは途中から、祈るような気持ちで聴いてた。
最後は、月光だった。月光が終わったとき、みんなは今までよりも少し多く拍手をしてくれた。おじさんは椅子から立ち上がって、深々とみんなに――アタシにも頭を下げた。
おっさん含め、何人かは一旦外に出て、そして戻ってきた。椅子の並びを変えて、アタシとおっさんが並んで、他の六人が向かい合うように座った。
「まず、技巧は納得した」
ピアニストおじさんが言った。
「ラ・カンパネラを含め、難しい曲でももつれず、遅れず、ちゃんと弾ききったことは称賛に値する。少なくとも瀬戸内さんが聴いてほしいと言ったことは、理解できた」
でも、言葉とは反対に難しい顔をしてた。
「でも同時に、プロにはなっていないことにも納得した」
うまく唾を飲み込めなくて、喉が痛かった。続きはトナミさんが引き継いだ。
「エクスプレッションが弱い。特に音の弱さが足りない。結果的にダイナミクスが不足して、単調だ。それに――」
それだけじゃないの?
「ジャズでは遊びが足りない。クラシックピアニストの弾くジャズって感じだ。選曲や、アレンジは面白かった。でも、今はピアノの上手いヤツはたくさんいるし……プロのピアノじゃない。俺なら、ステージに呼ぼうと思わない」
っ……そんなに、言わなくったっていいじゃん!
声を上げそうになったアタシの肩を、おっさんが軽くつかんだ。
「俺は、わかってるから」
わかってるって何?無駄だったの?アタシひとりだけ空回りしてたってこと?
「弾いてみた動画とかはだめなのかな?」
歌手のおねーさんが言ってくれた。
「弾いてみた動画自体がもうそんなに勢いないしな。ピアノは、おっぱい大きい女の人でないと見てもらえない印象だけど」
トナミさんはあくまで否定的。
「見せ方次第じゃない? 弾けるは弾けるんだし、街中で弾いたら人は集まるだろうし」
ピアノおねーさんはそう言ってくれる。
「全く見られないってことはないだろうし、いいねもつくだろうけど、ブレイクするかというと運次第としか言えないな。これに関しては、よっぽど突き抜けてなきゃ腕だけで決まるものでもないし」
竹内さんもちょっと微妙な評価。
「あのっ、アタシはただ……」
ただ、なんだろう?そもそもアタシはなんでこの人たちに聴いてほしいって思ったんだろ?
アタシは……
「ただ……おっさんのピアノ、知ってるのがアタシだけってのがヤだったんです」
そう、アタシは……
「こんなすごいピアノなんだから、みんなに聴いてほしかった。でもどうしたらいいかわかんないし、アタシが言っただけじゃおっさんは無理って言うと思って……」
アタシ、なに言ってんだろ……なに、やってんだろ……
「ならまぁ、プロになるってのは必須じゃないよな。やっぱり動画案件じゃないか?」
「やってみるのは問題ないんじゃないか?うまくいくとは限らないけどさ。松下さん、教えてあげられないか?」
「……ま、いいわよ」
竹内さんが、トナミさんが、そしてピアノのおねーさん――松下さんが言ってくれる。いいのかな。アタシ、おかしくない…?
「あんたは、それでいいのか?」
トナミさんがおっさんに訊いた。
「彼女は俺の飼い主で……恩人だ。それを彼女が願うなら、俺は……」
トナミさんはおっさんの肩を叩いて親指を立てた。
それからの日々は……なんていうと、なにかが劇的に変わったみたいに聞こえるけど、実際そんなこともない。
アタシがしようとしてることは家族も巻き込むことかもしれない。そう思って、アタシはできたらお母さんにもお父さんにも応援してもらいたいと思って、おっさんの演奏を聴いてもらうことにした。
お母さんは子供の頃エレクトーンを習ってたそうで――アタシはその話は聞いたことなかった――すごく興味深く聴いてくれたし、それ以上にお父さんはすごく感動して気に入ってくれた。もしかしたらアタシが演奏を見るのが好きなのは、両親譲りなのかもしれない。
最初お父さんはグランドピアノのほうがいいんじゃないか、って言って暮れたけど、現実問題としてグランドピアノの置く場所がなくて、アップライトピアノだとおっさんの弾く曲は無理って聞いてアバングランドっていう電子ピアノを買うことになった。一応、松下さんにも聞いてみたけど、
「いきなりやるわねぇ。グランドピアノが弾けないんじゃ、一番いいんじゃない?」
だって。
そしてリビングの一角がアタシたちの配信スペースになった。うちの壁はすごく白いから黒いアバングランドを置いて撮影したらすごく眩しい画面になっちゃった。そこでぬいぐるみとか置いて画面を埋めたりしたんだけど、それでちょっと話題になったみたい。最初のうちはほんと、何人かでも見てくれたら嬉しいって感じだったけど、だんだん見てもらえるようになって、チャンネル登録もちょっとずつ増えていった。
大きく変わったのは……チャンネル登録千人記念でライブをしたことだと思う。アタシといっしょに雑談ライブって形だったんだけど、やっぱりペットのおっさんがピアノを弾く、っていうのは珍しいからそれで人気になって、ライブ放送目当てみたいな人も増えて、ちょっとした人気チャンネルになった。もちろん、表彰されるほどじゃないけどね。
これで人のつながりが増えて、アタシにもカレシができた。ちょっとイケてる大学生。
おっさんにはエミールという名前をつけた。おっさんが好きな伝説のピアニスト……らしい。アタシに名前のセンスはなさそうだったから、変な名前つけちゃいそうだし、おっさんにピアニストの名前を挙げてもらったのは正解だった。
まぁでも、相変わらずアタシは「おっさん」って呼んでるけどね。アタシの中ではそれが固有名詞になってて、他の人を「おっさん」って呼ぶことはなくなった。他の人の場合、必ずなんかオマケがつく。
別に動画で有名になってそれで食べていけるようになったとかじゃないし、むしろ時間とか手間とかを考えると結構しんどかったりする。だから、何かが劇的に変わった……とかそんなことは全くない。何も変わらず、おっさんはアタシの部屋のすみっこにいるし、やっぱりアタシの夜遊びは減った。そして、趣味らしい趣味のなかったアタシに動画配信と動画編集という趣味が出来たし、将来のことも――なにをするかは全く決まってないにせよ、考えたりするようにはなった。
なにも変わらない日常なんだけど、その日常が、少しだけ、おっさんを飼いはじめたことで少しずつ変わってきてるのかもしれない。
だから少しだけ、アタシはこの、何も変わらない日常のことが好きになりつつあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます