第64話 怖いものは仕方がない
◆ ◆ ◆
一歩、また一歩と森へ入るが、踏み入れれば踏み入れるほど胸の奥がざわめいた。
進めば濃くなる陽炎のような霧に、ゴールの見えない道のり。木々の上を飛び回る鳥の魔物のつんざく鳴き声と肌寒さを感じる凍てつく空気――この場の異様な世界観は嫌というほど伝わる。
ミドリーさんが「普通の人間は近づかない」と言っていた理由がわかった。
確かにこんなところに近づこうとする輩は余程の命知らずか大馬鹿者しかいないだろう。
俺は、多分その両方だろうが。
「ところで、ムギちゃん……さっきからその歩き方で疲れないの?」
「ん?」
やたらと淡々とした口調のアンジェに顔を向けると、彼は呆れた様子で俺を見ていた。
だが、彼の言わんとしていることはなんとなくわかる。
この森に入ってから、俺は黙々と道を歩むアンジェを差し置いてひたすら身をかがめ、樹木に隠れるようにこそこそと歩いていた。
移動する時は素早く。背中ががら空きにならないようにわざと木につけ、ねずみ一匹も見逃さないよう全集中で辺りを警戒する。どこぞの「伝説の傭兵」にも劣らない動きだと自負している。
「無駄がないだろ?」
「無駄しかないわよ」
震えた手でグッと親指を立てたが、アンジェには冷たくあしらわれた。
「お願いだから、ふざけないでくれる?」
アンジェの
けれども俺も決してふざけでいるのではない。このスニーキングさながらの動きでないと背後を取られる予感がして気が気でないのだ。
そんなことを彼に話すと、アンジェは額に手をつけ、深いため息をついた。
「つまり……怖いのね」
「はい、おっしゃる通りです」
皆まで言うなら白状しよう――怖いに決まっているじゃないか!
この薄暗い空気に禍々しい雰囲気。そして「死霊の森」という別名。これなら幽霊の一体や二体出たっておかしくないではないか。
霊感? ねえよ、そんなもん。だが、怖いものは怖いのだ。
なぜこんなところに入ってしまったんだ俺。
「地の果てまで探してやる」という発言に嘘偽りはないとはいえ、あんな豪語した数時間前の俺をちょっとだけ殴りたい。
「そんなに怖いなら、さっさとこんなところ抜けましょうよ」
「それもそうなんだけど……足のほうが全然言うことを聞かなくて」
半笑いで頭を掻くと、アンジェは忌々しそうな目つきで「そう」と短く返した。
完全に諦められたようだ。その証拠に俺のほうなんて見向きもしないで無言でつかつかと森の中を歩いていく。
というか、なぜさっきからアンジェはこんなにもピリピリしているのだ。普段あれだけ温厚なアンジェがここまで態度に出るのは珍しい。
俺、アンジェになんかしたっけ?
いや、正に今しているか。
「わ、悪かったって……」
謝りながら速足でアンジェの隣につくが、彼はただスッと手をあげただけで何も言わなかった。
その対応につい足が止まった。
素っ気なさにショックを受けたのではない。シンプルに、彼の様子がおかしいことに気づいてしまったのだ。
「……アンジェ?」
心配そうに覗き込んでみると、アンジェの表情は先ほどよりもずっと険しかった。
それに加え顔も血の気が通っていないくらい青白くなっているし、呼吸も浅い。どう見たって具合が悪そうだ。
「本当に大丈夫かよ。少し休んだほうが……」
そう言いかけたところで、アンジェは首を横に振った。そして顔を歪めながら、つらそうな声で俺に尋ねた。
「ムギちゃん……あなたは平気なの?」
「え? いや……ぶっちゃけメンタルは平気じゃないけど……」
「……聞き方が悪かったわ。こんなところにずっといて、どこも苦しくないの?」
「苦しくないって……何が?」
一瞬、彼が何を言いたいのか理解ができなかった。
確かにこの重苦しい森の雰囲気に恐怖で押しつぶされそうではあるが、彼のように体調の悪さはまったく感じない。正直、体のほうはすこぶる健康だ。
その答えにアンジェは「そう……」と静かに息をつく。
だが、その途端に彼の体はふらりと揺れ、力が抜けるようにその場でひざまずいた。
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