第17話 「仲良し」という名の哲学

 くだらない話をしているうちに、遠くからアンジェの姿が見えた。



 アンジェが満面の笑みを浮かべながら、手を振って駆けてくる。

 その姿は先ほどのマダムたちにも見えているようで、「あら」と彼女たちを笑顔にした。



「アンジェ君、今日も素敵ね」

「ええ、本当、すっかりいい男になっちゃって」



 彼の姿を見た途端、マダムたちの頬が赤く染まっている。これは夕焼けのせいなのではないだろう。マダムたちの目の保養として扱われているなんて、アンジェも凄いものだ。



 そんな彼女たちの熱い視線に気づいたのか、アンジェは二人に向けてウインクしながら両手で手を振った。

 彼に釣られてマダムたちも笑顔で手を振る。もうアイドルじゃん。



 そういったやり取りを半笑いで見ていると、マダムの一人が一瞬にして表情が暗くなった。



「アンジェ君凄いわ……まだあれから半年しか経っていないのに」



 ――半年?

 不意に聞こえてきた意味深な言葉に思わず眉をひそめる。



 けれども、マダムたちの顔色を伺う前に、たどり着いたアンジェが俺の肩を叩いた。



「おまたせ。さ、行きましょ」



 アンジェにはマダムたちの声が聞こえていたのだろうか。特に表情が変わることはなく、俺に優しく微笑む。



 マダムたちの会話は気になってはいたが、突拍子もないし、何より彼に聞くような空気ではなかった。



 ノアも俺の膝から降りてアンジェの隣に着く。

「行くぞ」声には出していないが、ノアがそう言っているのはわかっていた。



 ベンチから立ち上がり、二人の横に並ぶ。

 夕暮れの涼風が、アンジェの赤い髪を靡かせる。

 その時に見えた憂いを帯びた横顔に、俺は一瞬息を止めた。



「……どうしたの?」



 肩に着きそうなほどの長めの髪を耳にかけながら、アンジェは静かに尋ねる。



「いや……なんでもないっす」



 そう言うと、アンジェは口を閉じたまま小さく口角を上げた。

 ノアは、その様子を黙って見ているだけだった。



* * *



 アンジェの家は街はずれにあるようだ。



 家並みを抜け、平地に来ると小さな畑地帯に出た。

 その畑のさらに奥にポツンと二階建ての家が見える。あれがアンジェの自宅らしい。



 アンジェの自宅はレンガ仕立てのこじんまりとした家だった。

 隣には二畳くらいの畑があり、そこでも野菜を作っている。今のところ人の気配がないので、多分一人暮らしだろう。



「いらっしゃーい。狭いけど、ゆっくりしてね」



 家の扉を開けたアンジェはすぐに壁についていたランプに明かりを灯した。

 リビングの真ん中には木製の小さなダイニングテーブルと四脚の椅子がある。その奥には台所があるが、石で作られた釜戸が見える。

 ゲームで見たような、いかにも昔の外国という内装だ。



「お腹が減ったでしょ。ご飯作るから、ちょっと待ってて」



 アンジェは衣紋掛けにかぶっていたハットとバッグを掛け、すぐに台所に立った。



「め、面目ないっす……」

「いいのいいの。あたしも久しぶりのお客さんだから嬉しくてしょうがないの。だから、遠慮しないで」



 クスッと笑いながらアンジェは髪を結び、水場で手を洗う。ご機嫌そうに鼻歌交じりで作業をしているので、彼が喜んでいるのは間違いなさそうだ。



 とはいえ、初対面の命の恩人にここまでいたせりつくせりされ、俺も落ち着かないでいた。こんなにも借りを作って、いったいどうやって返そうか。



 そう思っているのは俺だけのようで、ノアは空いた椅子の上に丸くなって欠伸をした。

 緊張感がないうえに、凄くくつろいでいる。この遠慮のなさはここまで来ると逆に羨ましい。



「そういえば、ノアちゃんは何を食べるのかしら。ムギちゃん、訊いてくれる?」

「え……だとよ、ノア」



「そんな構わなくていいのに」と思いながらも、一応ノアに訊く。

 すると、ノアはむくっと顔を上げて、俺に請うてきた。



「ステーキ」

「生ゴミでいいらしいっす」

「果実でお願いします」



 ノアに訝しい顔をしながらも、ひとまずアンジェにノアの要望を伝える。

 こんなくだらないやり取りを、しかも俺の声しか聞こえないはずなのに、アンジェはおかしそうにクスクス笑う。



「本当、ムギちゃんとノアちゃんは仲良しね」

「どこをどう見たらそうなるんすか……」



 呆れてため息を吐くが、それでもアンジェは終始楽しそうにしていた。

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