四、誰が誰を屠るのか?

 カミラは走っていた。ここの森はある程度まで道が整備されているから、いつも通り整備されていない方向へ、途中途中の木を確認しながら、息が切れても走り続けた。

 ロジャーと二人で来るときは、帰り道がわかるよう、以前からわざと目立たないようにだが、木皮を削ってある木を目印にしていた。さすがに息が続かなくなり、一度息を整えるため立ち止まる。自分の呼吸する音が、ひどく大きく聞こえるような気がした。そして足元を見て、どうしても踏めば足元の草が折れて足跡が残ってしまうことが気がかりだった。居場所を知られてしまうかもしれないとも思ったが、闇が迫れば見えづらくなることを祈った。


 突然、発砲音がしたと思った瞬間、肩に火箸を当てたような痛みが走った。思わずつんのめり、そのまま倒れこみそうになったが、なんとか立ち止まるよう踏ん張った。後ろを振り返れば、あの赤い頭巾をかぶった少女とその弟がいた。少女は、にやにやと笑いながらカミラの肩を撃ちぬいた銃をいらう。


 昼に出会った時とは一変した、少女の表情に、カミラの心は驚きと恐怖で、硬く冷たくなった。そして、その追いつく速さが疑問だった。不穏な影が心に忍び寄るのを、必死に振り払った。


「あっははは、オオカミさん見ーつけた」


 その声は子供特有の、鬼がかくれんぼで見つけたときのような、思わず興奮してたかぶった時の、愉快げな声だった。そんな様子の姉とは裏腹に、弟のほうは静かに、ただ不思議そうに首をかしがせてカミラを指さす。


「お姉ちゃん。このオオカミさん、今日、お昼に会った人だよ?」


「そうね、セシルちゃん。でもね。この人、オオカミさんなんだって!

 悪い悪いオオカミさんなの、わたしやセシルちゃんのこと食べようと思ってるんだって! 殺さなきゃ、早く息の根を止めなくちゃっ。ロジャーさんに頼まれたんですもの!」


 うんうんと、弟の言葉にうなずきながら、凄絶な笑みを浮かべてキティは銃を向けた。だがそれよりも耳を疑ったのは、愛する男の名前が少女の口から出てきたことだった。

 彼が、なぜ? わたしたちは、愛し合っていたのでは、なかったのか。別れる間際の口づけはなんだったのか。魂というものがあるのならば、まるで体から離れてしまって、なにも聞こえないような、そんな気分だった。それでも、このままでいられない。このままだと、殺される。その思いがどうにか、カミラの意識を手繰り寄せ、口ごもりながらも反論を口にさせた。


「ロジャーに、頼まれ、たなんて、嘘よ、どうして」


「あのお兄さん。オオカミさんを殺してくれたら、お金いっぱいくれるって言ってたよ! オオカミさんが通る道には、目印に木の皮を削ってあるって教えてくれたんだ。でも、オオカミさんと、恋人なのに変だね?」


「やぁね、セシルちゃん。それはねぇ、お芝居だったのよ。おばあちゃまに直接頼むくらい、あなたのことがすっごぉく怖かったんですって」


 不思議そうなセシルの言葉に、そこに付け足すように、キティは芝居がかった口調で笑い交じりに言う。


 何度も頭を大きな石で殴りつけられたような気分だった。肩の痛みなどとうに忘れ、意識がまた遠のきそうで、脚の震えが止まらなかった。片手で木の幹をつかみ、なんとか必死に立っているような状態だった。

 二人の言葉が嘘だと信じたかった。けれど、自分の居場所をすぐに当てた彼女らが、真実を物語っている。


 わたしは、ロジャーに、裏切られたのだ。その言葉が何度も、カミラの心の中に反響する。目から涙があふれて、目の前が滲んだ。あんなに、愛していたのに。やはり、彼にとって、わたしは恐ろしいけだものでしか、なかったのだ。


 いつか、こんな日が来るような気はしていた。それでも耳をふさいで聞こえないようにし、彼に愛されているから大丈夫だと、柔らかい布でくるむように自分に言い聞かせていた。その布を引き裂かれて、見たくない物を丸裸にされて、足元がおぼつかなかった。

 優しい言葉をかけてくれたのも、愛していると囁いて肌を重ねたのも、ただの恐怖ゆえだったのか。その真実を目の前にして、カミラは、気を確かに持てなかった。


「きゃっはははは、間抜けなオオカミさんね! 人間が愛してくれると思ってたのぉ!?」


 呆然としているカミラを見て、哄笑を上げる。その声がわんわんと耳の間で響いていた。追い打ちをかけるその言葉に、もう動くこともできなかった。胸の中が、ガラスの破片をたくさんぶちまけられたように痛く、目の前が真っ暗になった。


 笑いながらも、その様子を抜け目なく観察していたキティは、茫然自失の状態のカミラを見て、警戒は解いていた。

 日は暮れ始めているが、月はまだ昇らない。この女はまだ狼になれない。それなら、ただの人間の女と変わりがない。掟のため、変化を見届けてからでなければ、手にかけることができないが、この状況なら拘束するのも容易たやすかろう。


 今回はおばあさま直接の依頼であるし、多少、掟を破って今の段階で始末してしまいたい気持ちもあったが、おばあさまに褒めてもらいたい気持ちと、良き人狼駆除組合員を目指す彼女の心は、この掟を破ることを、やはり是とできなかった。


 キティは銃を籠に入れ、代わりによく切れるナイフを取り出した。鞘から引き抜くと、木漏れ日から差す夕日を反射してきらめく。その様子を見ていたセシルは、思いついたように提案する。


「お姉ちゃん、僕、お店屋さんごっこしたいな!」


「あら、それ楽しそうね。ねえ、オオカミさん。『子どもたちが屠殺ごっこをした話』って知ってる? わたし、遊ぶなら今その遊びがしたい気分なの。

 ねえねえ、豚の役をやってちょうだいよ。わたしたちが肉屋の役をして、あなたをさばいて、その後、あのお兄さんに売ってあげる!」


 気が狂ったように哄笑し続けるキティの声が、今度は己の状況を揺さぶるように思い出させ、目の前が見えるようになった。だが、逃げたところでどうなるというのだろう。また、どこかの村に転がり込んでも、人狼駆除組合を呼ばれるかもしれない。


 ここから逃げ出せたとしても、己を偽り続けて、追いかけられて、いつかはきっと殺される。なら、それは今でも良いのではないかとすら、思い始めた。愛する男に裏切られた、いや、けだもののくせに、お笑い草な自分など、もう殺されてしまったほうが、いっそ楽になれるのではないか。なりたくてなった、この身ではないないのだ。もう、全て終わらせてしまおう――。


 その考えが脳裏をよぎり、頭を支配しはじめた。一歩、彼らに歩みを向けたとき、銃声が響いた。


 一瞬、自分の体が撃たれたのかと思ったが、撃たれた肩の痛みを思い出したが、どこも撃たれていなかった。

 撃たれたのは、キティだった。弾が左腕を掠めたらしく、提げていた籠が落ちて中身がばらけ、左腕がだらんと下がっている。


 彼女らの後ろの木陰から、気配がした。すっと出てきたのは、猟銃を構えたロジャーだった。己の成果に舌打ちをし、構え直している。

 思わず彼に歩み寄りたくなる気持ちを抑え、カミラはその場に踏みとどまった。なぜ、ロジャーが、キティを撃ったのだ。それがわからず、だがカミラを刺していた心のガラスの破片が、いくつか抜け落ちていくのを感じた。希望を持つな、その言葉が胸を締め付けたが、それでも絶望した心が和らぐような気がした。


 キティは左腕をだらけさせたまま、首だけをロジャーへ向けた。火のような眼差しで彼を捉えると、のそりとした声でつぶやく。右手は、短剣の切っ先をロジャーに向けていた。


「あらぁ……お兄さんじゃない。ねえ、邪魔しないで? わたしは、オオカミさんを切り刻みたいのよ」


 その言葉に、ロジャーはため息を吐いた。ここまで、人狼に執着するのは、彼女の語った経歴のためなのか、それとも、もともと持っている気質ゆえなのか、やはり見当がつかない。ただ本当に、気が狂っているとしか思えなかった。


「ほんっとうに頭イカれてんなぁ……。こりゃ、ばあちゃんが心配するわけだわ」


 独り言のように呟きながら、あのかくしゃくした老女を思い出した。伯父の見舞いの折に再会した、あの日。全ての始まりは、あの老女との言葉からだったのだから。


「え?」


 ばあちゃん、という言葉にキティが一瞬、気を取られたのをロジャーは見逃さなかった。即座に彼女の腹を撃ちぬき、操り人形の糸が切れたようにキティは地面へうつ伏せに倒れた。それでも右手はナイフを握りしめていた。彼女の腹からじわじわと血が泉のように湧き出て、地面がそれを吸い上げる。わざと腹を撃ったのは、全てを教えてやるためだった。それは、最後に悔い改めることができるようにと、老女の願いだった。それはとても残酷だな、とロジャーは思ったが、約束は約束だった。


 猟銃を背負い直し、足早に少女へ歩み寄り、右手のナイフを取り上げた。この出血量では、もう立ち上がれまい。そう思うが、この狂った少女は予想がつかない行動に出ることを、あの老女に念押しされている。取り上げたナイフで、余念のないよう、両足の腱を切った。悲鳴を上げて仰け反るキティに、ロジャーは淡々と行った。こいつはいつもの獲物だ。そう自分に言い聞かせる。もはや可哀相とは、思わなかった。


「悪いね。俺、人狼組合あんたらのばあちゃんに、あんたの始末、依頼されてんの」


 その言葉に少女は目を大きく見開いた。ぜいぜいと息を荒げながら、首を振る。血の繋がりはないが、おばあちゃまと呼び慕った、あの闊達な老女がキティは大好きだった。目の前で両親が食われ、そのとき助けてくれたのが、あの老女だった。そして自分と幼い弟に手を差し伸べてくれた。

 彼女に褒めてもらうために、どんなに危険な任務でも喜んでおもむき、そして見事に人狼を殺してみせた。なのに、なぜ。正しいことをしてきた自分がなぜ、こんな陥穽かんせいにはまり、始末されるのか。意味がわからないと何度も首を横に振った。


 姉が撃たれた様子を、にべもなく見つめるセシルは、ただ一点の意を唱えるだけだった。


「おばあさまだけじゃないよ、お兄さん」


「ああ、そうね。坊やにも頼まれてたな」


 抑揚のないロジャーの返答に、キティの目が揺らいだ。あれほど可愛がっていた弟に始末を頼まれた。ただでさえ、慕っていた老女からの命令というのにも信じがたいのに、実の弟がなぜこのようなことを!

 ぎらつくキティの目は、ロジャーの位置からは見えないが、なんとなく想像ができた。それに鞭打つように、説明をしてやった。


「ちゃんと説明してやると、あんたの人狼の狩り方、あんまりにも残虐過ぎるんだとよ。皆、あんたのやり方を恐れた。だから、組合のばあちゃんに頼まれたの。あんたを始末してくれって」


「ずっと前から、お姉ちゃんが怖かったの。だからね、おばあさまに相談したら、お兄さんに依頼してくれたんだよ」


 平然と言うセシルの言葉にロジャーはうなずいた。俺の専門は、基本は野生の動物なんだけどな、と今度は彼が付け足すように言う。


 全部嘘だ、とキティは叫びたかった。だが、心が打ちのめされて声が震えて腹にも力が入らず、魚のように口をはくはくと動かし、痛みに喘ぐことしかできなかった。だがその合間に、キティの目に木陰に隠れるように事態を傍観ぼうかんしている女が目に映った。

 うろたえながらも、自分を見下ろしている、憎き人狼。全てのわたしの不幸の始まり。それを見た瞬間、驚くほど力が湧いて出てきた。足は動かなくても手は使える。ケープの中に隠し持っていた拳銃を取り出すと、人狼へ向け、喚き散らした。


「お前だけは殺してやる! 殺してやる殺してやる殺し」


 その喚く間が、彼女の落ち度だった。普段の彼女なら、冷静に、即座に、心臓を撃ちぬいたであろう。だが、疑惑と憎悪に支配された彼女は、どうしようもなく動揺していた。

 セシルはロジャーから奪うように取ったナイフを、姉の背中へと迷うことなく深々と差し込んだ。


「ばいばい、お姉ちゃん」

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